生存問答
「さて、どうやら本気で時間がないようね」
両腕が崩れ落ちた状態で、ガスマスクが立ち上がる。
海原はピントの合わないカメラレンズを覗いているかのような視界の中、こちらを見つめるガスマスクが近付いてくるのが分かった。
身体の中を駆け回る熱が徐々に冷えていく。遠くなっていた意識に重力が戻り始めた。
ゆっくり、ゆっくりと視界のピントが合っていく。
「……まじかよ」
呟き、ガスマスクの溶け落ちた両腕。
何も無かった肩口からブクブクと黒いあぶくが吹き出しかと思うとずぼりと、新たなる腕が生え出していた。
見えない手が、ガスマスクの肩口から腕を引きずり出したような速度。
死にかけて幻覚を見ているのだろうか?
海原は身体中から力が抜けていくような、それでいて力が身体を廻っているような奇妙な感覚を楽しみながらその光景を眺めていた。
「ふぅ、お互いにボロボロね。日本人」
どさり。仰向けに倒れる海原の頭のすぐ近くにガスマスクが座り込む。膝を折り曲げた逆ハの字。割座や女の子座りと呼ばれる座り方。
びちゃり、と泥濘みを叩くような音が耳に響いた。
「……助けて……くれたのか?」
ぼんやりと海原は己の頭の近くに座り込むその存在へと声を投げかけた。
「ふふっ。そーよ? 民間人を守るのがわたしの役目だもの。貴方を助けるのはこれで2回目かしら……、なーんてね」
女性の声だ。いたずらげに鳴るように女の声が響いた。
「……大手河の時のも、やっぱりアンタだったのか…… 人間…なのか?」
好奇心と疑問を燃料に海原が舌を回す。噛みちぎられた唇に空気が染みる。うまく呂律が回らない。
「ええ、そうよ。昨日ぶりね。貴方と会うのは。ふふ、まだ一応は……人間なのかな? こうしてわたしの言葉が貴方に通じるうちはね」
海原は首をもたげてガスマスクの、彼女の方を見ようとする。
「うっぐ」
力を入れたところでぶしゅっと、首の傷口から血が宿便のように吹き出した。
「無理しちゃだめよ、貴方生きているのが不思議なくらいボロボロなんだから。でもその様子だとイモータルはきちんと身体に回ったみたいね」
彼女がいたわるように、海原の頭を撫でる。母親が幼子にするような優しい手つき。海原の黒い短髪を彼女の黒い泥に塗れた白い手が撫でる。
「ねえ、貴方。名前はなんていうのかしら」
海原は頭にくすぐったさを感じつつ、その言葉に反応する。
「な、名前……? うみ、はらだ。うみはら、よきひと……」
「ふうん…… 日本人だからファストネームが逆なのよね。じゃあ、ヨキヒトね」
なでり、なでり。海原は彼女に頭を撫でられながら意識を必死に保つ。身体中に痛みと熱さが渦巻く。我慢出来ないほどではないが、それと同時に酷く眠くなってきた。
「はじめました、ヨキヒト。わたしはアリサ・アシュフィールド。アメリカ合衆国で軍人をやっていたわ」
「軍人……? なんで、アメリカの軍人がここに? てか、なんで。日本語で」
海原の頭に疑問が次々に湧いてくる。何一つとして状況が理解出来ない。
「そうよね…… 気になる事は沢山あるでしょうし、わたしが貴方に話してあげたい事も沢山あるわ…… でも、残念。お互いにもう時間がないの」
「時間……」
海原は呟く。なんの時間だ……。身体からまた血が流れた。
「貴方、あと少しで死ぬわ」
唐突な死の宣告。なんのことでもないように彼女は言い切った。
海原にはその言葉がどうにも現実感のあるものとしては受け入れる事が出来なかった。
近くに座る女の声で話す、アメリカ軍人を名乗るガスマスク姿の怪人に、死を告げられる。
趣味の悪い夢にしか思えない。
「………そう、か」
だからこんな風に他人事のような返事をするしかなかった。
身体から抜け落ちていく力はそれでも確かに死の予感として海原を蝕んでいっていた。
「血を流しすぎたわね。脚も片方噛みちぎられてるし、腕だって繋がってるのが不思議なくらいよ」
「……ああ、やっぱりそんな感じなわけか……、参ったな、そりゃ」
足が片方ないのはやばいな。ここを生き残れても、足がないんじゃな。
やべ、眠たくなってきた。
「ヨキヒト。目を開いて」
あ?
海原はいつのまにか瞑っていた目をぱちりと開く。やべ、マジで眠たい。
海原の視界、そこには仰向けの己の顔を覗き込むガスマスクヅラが映る。
赤いアイマスクは弱々しい光が明滅し、所々がよく見るとひび割れていた。
スースーと寝息のような呼吸音が耳に届く。不思議とそのおとは不快なものではなかった。
「ヨキヒト。貴方生きたい? それともここで死にたい?」
「……なんだ……それ」
「答えて」
生死を問われた海原。
「……生きてえよ。死にたい奴なんていると思うか?」
「本当に? よく聞いて。今なら貴方は楽に逝けるわ。イモータルが貴方の痛覚や死を快楽物質や眠気に変えてくれる。もう、この終わった世界で苦しむ必要はないのよ」
彼女の声はどこか、縋るような色を持って海原に届く。
海原の身体に充足感や、満足感にも似た暖かさが広がる。とても眠い。今眠れば、それはもう気持ちの良い事だろうと海原は感じた。
「……なんだよ。それ。死神みてえな事言ってんじゃねえよ。……生きる。生きたいよ、俺は」
ああ、なんかこれまじでやばいな。消えそうで、それでいて気持ちよくて。怖いのが薄れていく。
海原は自らの身体の凄惨さとは裏腹に精神が満たされていくのに気付いた。
「……どうして生きたいの? こんな終わった世界。誰も救えなかった苦しい世界で、貴方には生きる理由があるの?」
理由?
海原は彼女の言葉に何か引っかかるものを感じた。
生きるのに理由なんていらない。ただ、生きるだけ。そう答えようとしたのに、何かが海原の舌を止める。
ーーその理由を、お前だけの理由を探せぇ。海原ぁ
ああ、そうか。お前、確かそんな感じの事言ってたな。
海原は噛みちぎられたくちびるを歪ませ笑う。かさぶたが切れて血が滲んだ。
「……理由を探せって言われたんだ。鮫島に生きる理由を探せって。まだ見つかってねえ。探してすらもねえ。だから、死ねない」
「他人に言われたから、生きるの?」
「違う…… 他人に言われて、俺が決めたんだ、これはもう俺の……理由だ」
「……生きる理由を探すために貴方は生きるの?」
「あ? なんだ、それ…、ああ、いや生きる理由ならまだ沢山あるぞ。そうだ、思えば腐るほどあるじゃねえか。借りを返さないといけない敵がいる。俺が帰らないと何するか分からんねえ恐ろしい女がいる。理由なんか、沢山……あ……る」
かくん、力なく海原の首が横に傾く。目がぐるりと廻り。視界が暗転した。
あ、やべ。
闇が海原に追いついた。そのまま海原の意識はその中に消えていこうとーー
ひやりと頰に触れる冷たい感覚。
消えた海原の意識をその冷たさが引き上げる。
両手で包み込まれるように海原の頰は彼女に支えらていた。
泥から引き揚げた白魚のような手の感触が心地よい。
海原はうっすらとまぶたを開ける。
彼女がこぼすように言葉を投げかけた。
「生きる事は辛いわ」
「……それこそ、今更だ。別に今までだって世界が終わる前から生きる事は辛かったよ。楽だなんて一度も思った事はねえ」
「……そう」
「そうだ」
力強く海原は応える。
その身体は死にかけている。それでもそうだ。己はまだ生きていたい。どれだけ世界がつらくても残酷でも、海原は降りる気は無かった。
「ヨキヒト、もう一度聞いて、そして、聞かせて。今なら貴方は本当に楽に、綺麗に逝ける。きちんと墓だって作るし、貴方の神にも祈ってあげる。これ以上辛い思いを、苦しみも悲しみも怒りも何もないところに逝ける」
「ああ」
海原は静かにその言葉を、聴く。
「生きる事を選んだら最後、貴方は道を歩まなければならない。人心は荒れ果て化け物に喰われる恐怖が隣にあるこの終わった世界を。そしていつしか、貴方はきっと苦しみと恐怖にさらされながら無残に死ぬわ」
「ああ」
海原はうなづく。脳裏にこの1ヶ月外で見てきた、人間の死体がよぎる。
血濡れのぬいぐるみ、肉のついた頭蓋骨、青い血と混ざり合う赤い血のシミ。
きっと海原もいつかは彼らの仲間入りを果たすことになるだろう。
「それでも、貴方は生きたいの? ウミハラ ヨキヒト」
だが、それは今じゃない。たとえそれが決まっている終わりだとしても。
楽な方に未来はない。
凡人の答えは決まっていた。
「俺を生かせ。アリサ・アシュフィールド」
彼女の言葉に食い気味に海原は返事をする。この状態から自分が自力で生を拾える可能性は低い。
だが、何故だろうか。今、海原は自分が死ぬとはまったく思っていない。否、思えなくなっていた。
「まどろっこしい事はもういい。逆に聞こう。お前はどうなんだ?」
「え?」
ガスマスクの彼女が不意をつかれたような声を、出す。海原からの質問は彼女の予想にしないものだったのだろうか。
「お前は俺をどうしたいんだ? 生かしたいのか? それとも死んで欲しいのか?」
海原はその弱々しい赤い光を見つめる。彼女はその視線に竦んだようにピクリとも動かない。
数秒が経つ。この場には風の流れる音と、水の満ちる音のみが在った。
「ふ、ふふふっ。なあに、それ。面白い質問ね。そっか、そうよね。確かにわたしらしくなかったわ。ヨキヒト、貴方変なやつね」
妖精が隠れて笑うような笑い声、彼女は虚をつかれたように笑い出した。
「……はあ、これでも貴方を尊重して遠慮してたのだけれど。どうやらヨキヒトにはそんなの必要無かったみたい」
「遠慮?」
海原が小さく呟く。
がしり。急に海原の頰を包む彼女の手に力が入った。
「ヨキヒト、いいわ。貴方は生きたいと言った。叶えてあげる。わたしが貴方を生かす」
急に彼女の雰囲気が変わった。鬼気迫る声。一段低くなったその声に先ほどまでの穏やかさは見受けられない。
「え。まじで出来んの?」
海原がぽつり、思わず漏らした。
「ふふ、今更辞めましたとかはもう聞かないから。なーんだ、最初からこうしておけばよかったわ。遠慮なんかしてたわたしがバカみたい」
え、何? 遠慮?
海原が彼女に何をするつもりかを問おうとしたその時だった。
「緊急プロトコル、オーダー69を実行」
「コンバットマスク、解除」
すらり。彼女が、何かを呟く。
解除。
ぷしゅう。炭酸飲料の栓を抜いた時のような間の抜けた音が鳴る。
海原の頰に当てられていた片方の手が、彼女の顔に向かう。
ガスマスクを覆うように充てがわれたその手が、動く。
パカリ、からん。
ガスマスクが外れた。
海原の目の前で、海原を顔面を覗き込むその瞳があらわになる。
海原は、ハッと全身の細胞が蠢くのを感じた。
蒼い瞳は、世界に広がる大海をそのまま閉じ込めたよう。
小さな卵型の顔に、白磁のような白い肌。所々にうごめく黒い線がこびりついている。それすらも怪しげな美しさを放つ。
薄い唇は、プール上がりのように薄紫をしていて。
金と黒が混じる豊かな髪がパサリと海原の顔にかかった。
どきり。海原の心臓が弾む。
魂のこもった人形、造られたような美しい女がそこにいた。
そこにいて、そして。
「ファーストキスだから」
は?
海原を覗き込むその顔は一瞬でその距離を縮めた。
海原の欠けたくちびると、彼女の薄い唇が溶け合うように混じった。
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