シエラⅠ
海原は目を開く。
見れば狼達ば互いに身を寄せ合い、ひとかたまりになりつつある。
海原から離れていた。
白い狼の口にはいつのまにか、海原が噛み殺した赤ん坊の死骸が咥えられていた。
目が霞んでよく、分からない。
助け? でも、もうこの有様じゃあ。
海原は自分の状態を確認する事すら少し億劫だった、痛みをあまり感じないのはもう、必要がないからだろう。
「……ええ、そうよ、マルス。彼よ、声紋認識の照合も99%を超えてるでしょ? そうね、了解。見ての通り死にかけだから、先にイモータルを投与しておくわ」
声の方に海原は目を向ける。
あっ、海原は口と目を開いた。
その声の持ち主を海原は知っていた。
紅く光るアイマスク、筒状の仮面のようなもの。黒く濡れそぼったレインコートを羽織っているような姿。
ガスマスク、昨日大手川で遭遇したあのガスマスクの化け物がそこに居た。
「な、……ん……」
もごりと呻く海原。
ガスマスクの人物がぬらり近づき、海原の元へしゃがみこむ。
ぶじり。
海原の首元、紅く染まる傷口にガスマスクは人差し指を突き入れた。
「……っあ」
「ごめんなさい、詳しく説明してあげる時間がないの、死ぬほど辛いと思うけど、死にはしないわ」
ドクン、何かが海原の首の傷から入り込んでくる。それは瞬く間に血管を伝い海原の身体中に染み渡った。
「っぁ?! ああ、あっ熱っ、てか痛いたぁぁぁ!!」
海原が悶える、その身ににえたぎった鉄でも流し込まれたような熱さを感じながら、つい先ほどまでは虫の息だった海原が叫ぶ。
叫べるほどまでに回復していた。一瞬で。
「ああ、それだけ叫べるのなら大丈夫ね。頑丈な人間は好きよ。しばらくしたら薬液が馴染んで血が止まるはずだから少し辛抱なさい?」
「がっ! や、薬液……だと? お前、俺に何を、つーか、喋れる……のか?」
ブクブクと海原は首筋から血のあぶくを弾けさせながら言葉を紡ぐ。その目に生気が戻り始めていた。
「……貴方、英語が話せたりするのかしら?」
「え、英語……? い…や、話せない」
力なく項垂れる海原を見下ろし、ガスマスクがその場から立ち上がる。
「ふーん。言語の違う貴方と言葉が通じるって事は共通語現象が働いてるのかしら。ならわたしもまだ人間の範疇にいるって事ね」
ガスマスクが顎に手を当てながらうーんと唸る。
何故だろうか。海原にはその仕草がひどく、人間染みたモノに見えた。
コイツは一体……。
「まあ、いいわ。日本人、あと少しそこで大人しくしてなさい、彼らを片付けた後にまたお話ししてあげるわ」
ガスマスクが海原を跨き超える。海原の頰にぼたりと黒い泥が溢れ落ちた。
海原はただ、眺めるだけ。身体中に染みるにえたぎるような熱さに耐えるだけだった。
……
….
ガスマスクはまるで海原を庇うかのようにそこに立つ。
対峙するは、ひとかたまりにまとまる狼の化け物の群れ。
人間の肉を血を食んでその味を覚えた害獣だ。
「始めましょうか、マルス。いつも通りに、いつも通りの事を。……本当にあなたと出会えてよかったわ」
ガスマスクはまるで誰かに話しかけるように言葉を紡ぐ。
その声の湿り気には別離の名残のようなものが香る。
「グルルルル」
集団で唸る狼の化け物に対してガスマスクはなんら怯えや動揺を見せる事はない。
海原の前に立つその立ち姿、ぼたり、ぼたりと黒い泥がその身体から滴り落ち続ける事以外、微動だにしない。
「泣かないで、マルス。わたしだって寂しいわ。でもね、別れは決して寂しいだけじゃない。あなたの事は忘れない、貴方もわたしの事をわすれないでね」
ガスマスクの独り言、その声に返事をする者はいない。少なくとも海原には何も聞こえなかった。
「がうるるるるるるる!」
ひとかたまりになっていた狼の化け物達は、徐々に解けるように扇型に広がっていく。
毛を逆立てて、尻尾を地面に水平に。
ガスマスクと真っ向から対峙するのは一番大きな体格を持つ黒い体毛の狼。
「がうるるるる、るごあ!!」
大口を開き、吠える。
今にも飛びかかりそうなその態勢、針金のような鋭い黒い体毛に覆われた筋肉がびきりと波打つ。
その全てをガスマスクは平然と眺めていた。
赤く光る双眸はじぃっと前を見つめる。かすれるような呼吸音はそのリズムを崩す事は無い。
ガスマスクにとって、アリサ・アシュフィールドにとって、シエラⅠにとってはこの光景は見慣れて、身に馴染んだ光景だった。
だから、彼女はいつも通りに、己の成すべき事を為す。
言葉を紡ぐ。
「作戦対象を視認、視覚情報よりデータベース照合開始…… 優先討伐対象、怪物種95号と確認」
ガスマスクは紡ぐ、何かを確認するように。己がどれだけ変わってもその役割を忘れない為に。
赤い双眸が眼前の黒い狼の化け物を写す。
「シエラⅠより、本部へ通信開始…… 通信の途絶を確認。シエラⅠ独自の判断により作戦の続行を決定」
「強制進化促成寄生兵器の使用を決定。……コードネーム、マルスより作戦行動への参加の了承を獲得」
ガスマスクが一歩、前へ身体を傾けるように進む。
狼の化け物はそれだけでより一層激しく吠え喚く。まるでそれ以上近付くなと叫ぶように。
「IDDシステム、オールグリーン」
本来であれば奈落を進む人間に与えられた祝福。それを人工的に模倣した力の名前をガスマスクは紡ぐ。
「LVシステム、オンライン」
それは人類が奈落に求めた奇跡、奈落の持つ人類を進化させる力を模倣し、遂には完成させる事の出来なかった力。
皮肉な事に、その力は世界が終わった後に完成していた。敗北し死に瀕していた主人公とその相棒の手によって。
ガスマスクの身体。レインコートのような黒い衣服に包まれたその身体が震える。
輪郭がブレてその存在の大きさが肉の身体を突き破りそうな。
「ガウルルルルルル!!!」
いよいよ群れの叫びがピークを迎える。右斜め向こうに展開していた一頭が、ガスマスクめがけて堪らずといった様子で駆け出していた。
「オペレーション・ノスタルジア。作戦開始」
彼女は紡ぐ、全てが終わった後に成すべき事の名前を。
プランB、オペレーション・ノスタルジア。
ガスマスクの身がぶれる、黒い軌跡を残しながら猛獣よりも猛獣らしい速度で向かってきた狼を迎える。
「PERK 起動。ブレイド」
両腕が変異する。人の腕は見る間にその形を変えて刃となる。五本の指が固まり、同一化。
その全てが硬質化し、腕から刃へと変わっていく。
よだれを散らしながら突進する狼を、最低限の動きでシエラⅠは躱す。
空を切る、狼の牙。
「1匹目」
すれ違いざまに無造作に振り下ろされる肉厚の刃と化した右腕。
黒く艶めかしく光るその刃はさくりと吸い込まれるように狼の化け物の首元へと差し込まれた。
スパン。
「ガぁ?」
一瞬で、狼の化け物の首と身体が別たれる。分厚い毛皮をものともせずに、黒い刃が首を刎ねた。
ぶしゅうと、首の断面から青い血が吹き出る。首を失った身体はそのまま慣性に従ってずさりと地面を滑りながら崩れ落ちる。
「はい、次」
ブン、ガスマスクが腕を振るって血糊を払う。青い血がビッと払われる。
「ギャウ! ワオン!! ガァルルル!!」
三頭同時に、弾けるような勢いで迫る狼。白く輝く砂を撒き散らしながら牙を剥く。
「2匹目」
瞬時。
口を開けて真正面から突っ込む狼の口に、黒い軌跡を残しながら右刃が突き入れられる。口から刺された刃は後頭部までを貫く。
「げ、あ?」
後頭部から刃を生やした狼はぐるりと白目になり、口から青い血をごぼり、吐き出す。
仲間が殺された事により、更にその鼻のシワを濃くした残りの二頭が右、左から同時に突っ込む。
「遅いわ」
ずぼりと狼の口から刃を引き抜いたガスマスクがぼそりと呟く。左右からの挟み撃ち、既に狼達は地面を蹴り、飛び交っていた。
「PERK 起動 ウィップ」
ガスマスクの背中から雷のような軌道を描きながら細くしなる何かが迸る。
キィイイイイ、と金切り音をあげながらソレは左から襲い来る狼の身体を容易に貫いた。
「ガァ?!」
「串刺しね」
返す刀で宙に縫い留められた狼をその細くしなる尾のような物が振り回す。
右から飛び交かる狼は、棍棒のように振り回される同胞の亡骸により地面に叩きつけられた。
「げ、ガウアアッ! アッ?!」
ずぼり。
地面に叩きつけられ、亡骸からもがいて動こうとした最後の狼のこめかみに黒い刃が突き入れられた。
「3匹目」
刃と化した両腕から青い血が滴る。
背中から伸びる細くてしなる尾のようなモノ、金切り音を出しながらびくんびくんと胎動するその姿は、まるで悪魔の尾にも見える。
化け物を一瞬で、容易に屠るその姿。
化け物よりも圧倒的な化け物がそこにいた。
「さて、あなたはそうして見てるだけなのかしら? アルファ」
ガスマスクは自分から距離を取りこちらを観察する一際大きな体格の黒い狼に話しかける。
黒い狼に寄り添うように、白い体毛の狼が付き従う。その口には海原に噛み殺された幼犬の死骸が備わっていた。
「斥候による様子見は終わったのでしょう? やるのなら早くやりましょうよ」
ギャリン、ギャリンとガスマスクが両の刃を擦り合わせながらポツリと話す。
黒い狼は態勢を低くし、ぐっと足に力を込める。
両者の空気が張り詰める。
甘い青き血の匂いが空気に混じる。
狼の群れと、濡れたガスマスクの化け物が睨み合う。
終わりは呆気無かった。
「オオーーーン」
黒い狼が一際高く吠える。まるでそれが合図だったかのように、周囲に展開していた狼達が一斉にその場から走り去ってゆく。
蜘蛛の子を散らすように一目散に我先にとどの狼も逃げ出す。
ただ、2匹の体格の大きな白と黒の番だけが最後までその場を動かなかった。
辺りの群れが1匹残らず逃げ去ってからようやく、
「ウォン」
一声鳴いて、二頭同時にその場から風のように走り去って行く。
ガスマスクはそれを追う事はしなかった。獣の臭いとその足音が濃い存在感となって辺りを覆う。
耳をすませば、水の音とさらさらと柔らかな風に砂がさらわれる音だけが世界に満ちていた。
青い血が白い砂に吸い込まれていく。
「……命拾いしたかしら、もしかして」
どじゃり。ガスマスクがその場に膝をつく。限界を迎えていた身体が、意思に反して崩れた。
両腕の刃が溶けるように落ち、背中から生えた尾は空気に紛れるようにポロポロと崩れ落ちていく。
「……っフウ、まあいいわ。後は貴方がやりなさい。日本人」
ガスマスクは背後に庇うその血塗れの男を眺めて笑う。
へたりと座り込んだその姿はとても女性的な仕草でいて。
おとこには、海原には目の前で何が起きたのか、未だに理解出来ていなかった。
ただ、1つぼんやりと理解したのは、どうやら喰い殺される心配はなくなったという事だけだった。
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