ラストスタンド
ぶちり。唇が痛い。
腹が心なしか冷たい。
まだ呼吸は出来ているみたいだ。
ぶちり、また唇が痛む。
「わふ。わふ」
眼球を、動かしその声を見つめる。
小さな子犬、チワワ程度の大きさの狼の化け物が海原の唇を噛みちぎり、咀嚼していた。
既に海原の周りには6頭以上の狼の化け物が集まっている。
みなそれぞれ、最低一口づつ海原を啄ばんでいた。どの個体の口元にもべったりと赤い血がこびりついている。
どこまで食われた?
確か、さっき中くらいのやつが俺の右脚を持って行っていたような……
海原は周りの状態を、確認する。
先程、地面を這って逃げようとした際に右脚を千切られた。
ああ、取り合いになってんな。くそ。食事マナーの悪い連中だ。
血をだいぶ流した筈だ。
やばい。目の前が霞んで来やがった。
白い狼と黒い狼は遠巻きにこちらを眺めている。
どうやらアレがこの家族の親らしい。どの個体よりも大きい。
海原は死にかけの状態で考える。
この群は家族だ。
今、俺の唇を必死に頬張っているコイツが一番弱そうだ。
海原はぼんやりとした頭で考える。
どうやったらコイツ殺せるかな、油断してるから簡単だとは思うんだが、右手も潰されてるしな。
左手の指はスナックみてえに食いちぎられてるし、使いもんになんねえ。
海原は力なく目を瞑る。
もうそこには自らの肉が噛み潰される音しか聞こえない。
ああ、とても耳障りな音だな。
このまま死ぬのか。
死ぬ?
海原は何かに引っかかる。
何かを忘れているような、とても大切な約束を。
そうだ、そもそもアレだ。
俺は本当ならもっと早くこんな風に殺される筈だった。
昨日だってそうだ、何度も死にかけた。
エブリバディの店内、大手川の河川敷。あの時だって餌として殺されてもおかしくなかった筈だ。
でも死ななかった。
なんでだ?
「ぁっ、そう……か。ゆき、しろ」
そう、海原は気付いた。
今までは常に海原が外に、危険に立ち向かう時には常に彼女がいた。
今更、気付いた。海原は己が保護され続けていた事に。
ーー海原さん、死なないで下さいね。
昨日の夜、雪代を説得しに行った時の内容が頭をよぎる。
そうだ、雪代継音にも頼み込んで頑張って説得したんだ、あの分からず屋を。
ーー海原さんは強いけど弱いから。心配です。やっぱりダメです。
温和な割に頑固で、どこか恐ろしい仲間の事を思い出す。
最終的には雪代が折れる形になったが、そうだ。最後に確かこんな事言われたな。
ーーもし、約束を破って死んだりしたら、私も死にます。そしてもう一度貴方を殺しに行きますから。
ーーこれ以上言うと、重たい女になるので言いませんけど。
「へっ…… もう、充分、重たいっつうの」
海原は嗤う。
まずいな、これは死ねない。
少なくともこのまま死んでいいわけがない。
幾ら何でも、ダサすぎる。女に守られてないと生きて帰れないなんざ。
お前がかっこよかったからな。鮫島。
脳裏に浮かぶ、友の姿。
人を超えたあの勇姿。
俺はお前とは対等でいたいんだ。
海原は目を開いた。身体からは痛みすら感じない。血は流れ、傷だらけ、四肢は一部が欠損している。
だが海原 善人は餌のまま終わるのをよしとしなかった。
ちーーー。
己の胸の上で、唇を食んだ化け物の赤ん坊が、満足気にションベンをしている。
無防備な姿、海原は嗤って、ガパリと口を開いた。
上体を砕けた腕、指をなくした手のひらで跳ね上げる。
唐突に息を吹き返した餌の動きに、群れの一匹も反応する事は出来なかった。
「イタダキマス」
「ヒンっ?!」
そのまま海原は化け物の赤ん坊の首元、うなじにかぶりついた。
前歯を、犬歯をすり合わせる。まだその体毛は薄くすぐに皮膚に歯が到達する。
顎に万力の力を籠める。
ばきん、先に海原の前歯が一本砕けた、同時に口の中に甘い香りが広がっていく。
「ひ、ヒィン?! キャイン、キャイーン
?!」
悲鳴をあげながら、化け物の赤ん坊が鳴く。何が起きているのか理解できていないようだ。
足をばたつかせてもがき続ける。
死力を尽くして噛み付く人間の口腔からは逃れられない。
そのまま、死ね。
「ひね、ひね。ひぃねぇ」
「キ、ヒッ、ヒッ….…」
ギリギリと海原がその首根っこを加えて押し付ける。
海原の口からは赤い血と青い血が混じりながらこぼれ落ちる。
ぶちり。
下顎の歯の抵抗がなくなり、首筋により突き刺さる。
決定的な何かを海原は噛み潰した。
バタ足するようにもがいていた赤ん坊はもうピクリとも動かない。首は折れ曲り、血と力なく地面に垂れている。
ぺっと海原が噛み潰したその赤ん坊を口から離す。
地面にぼとりとその物言わぬ小さな身体が落ちた。
クチャクチャと海原が口の中で咀嚼して、ぺちゃりと唾液とともにその肉片を赤ん坊の身体に吐き捨てる。
「マッズ、育ちが悪いんじゃねえの? オタクのガキ」
ニヤリと、こちらを呆然と見つめる黒と白の番いの狼に笑いかけた。
「グウルルルオオオオオオオオオ!!」
背筋が寒くなるような声をあげ、鼻の頭に皺をよせ、牙をむき出しにした忿怒の顔。
黒い狼の化け物が大口を開けて、迫る。
海原の喉笛を嚙み切らんと開けられた大口、海原はなんの躊躇いもなく迫るその口のなかに、指をなくした左手を突っ込んだ。
「ゲエエ?!」
急に口のなかに異物を押し込まれた化け物が慄く。
それは捕食者がする顔ではなかった。
「どうした? 食えよ、よおく味わってくれ、ほら、遠慮すんな、よ!!」
海原は左手を押し込む、さらに、奥へ更に、
「死んで、死んでたまるかああああ!! おおおおおおおお!」
抵抗、海原の目にはもう餌の根性、諦めはない。
これがきっと、俺の人生の最後になる。
目の前の敵を少しでも苦しめてやろう、ただでは死なないと決めた人間の目。
海原は恐怖に対し、怒りを持って立ち上がった。
最後の抵抗、ラストスタンド。
化け物の叫びと己の叫びが混じり合う。
血が足りない、まもなく消える命の火が最期の力を振り絞る。
グリっ。
わずかに残った手のひら、化け物の喉奥に突っ込んだ手のひらが何かに触れた。
海原は無意識にそれを引き摺り出そうと、指をーー
「あ、馬鹿。じゃけえ、指は食いちぎられてんだって」
呟き。笑う。
それが最後だった。
「グオルル!!」
上体を起こす海原の身体が背後から引きずり倒される。
息ができない。喉が、肩が痛い。
白い狼の化け物は番いを守らんとして背後から海原の喉笛に食らいついていた。
「グオルルるるる!!」
守る為の殺意、ああ、こいつはとても怒っている。
抉ってやった目からは既に血が止まっている。
子どもの死を理解しているのだろうか。片方だけの瞳の歪み方から分かるその怒り。
海原はぼんやりと消えかけの意識の中、思う。
ざまあみろ。俺を喰おうとするからだ。
「う、おおあお、あおああああああああああ」
意識が消えないように叫ぶ。叫ぶと同時に魂が抜け落ちて行きそうだ。
海原の左手が黒い狼の口から抜け落ちる。青い血やヨダレに混じったその左手は少し、溶けかけていた。
断末魔、叫ぶ海原を黒い狼が真正面からのしかかり、その大口を開く。
「ガオル!!」
ぶちり。
背後からは白い狼が、正面からは黒い狼が。
海原の喉笛を噛みちぎった。
あ、死ーー。
くるんと海原は世界が逆転したような感覚に襲われる。首から暖かな物が流れ落ち、それが妙に気持ち良い。
まだ、耳の奥に自分の断末魔が残っていた。
誰にも届かぬその叫び、地上には決して届かぬ死人の叫び。
ピクリ、ピクリと痙攣する海原にとどめを刺すべく、黒い狼の化け物が海原の顔を噛み砕かんと口を開いた。
それが閉じられる時が海原が死ぬ時だった。
もう、何も考えることなどない。
海原の身体の奥底には何もなく、死を前にした所で目覚めるモノなどなかった。
彼はどこまでも凡人だった。
「ずっと、ずうっと貴方を探していたわ。これだけ長い間、男の人の事を考えたのは始めてよ」
と言っても一日だけどね。小さく聞こえるその呟き。
「ギリギリ、いつもわたしはギリギリ間に合わないの」
そして、凡人であったが故に、その出会いを呼び寄せた。
海原の耳に、自分と化け物以外の声が届いた。
どこかで聞いたことのあるような、そうでもないような。
「スクールのバスだって大事なテストの時に限っていつも乗れなかったし、プロムの時だって結局、私だけ間に合わなかったわ」
独白、どこから話しているのかも分からぬその声はしかし、はっきりと海原の耳に入ってくる。
「そして、あの日。お姉ちゃんが奈落に向かう時もわたしは間に合わなかった。もし一緒に行ってれば何かが変わっていたかも知れない」
グルル、海原の上から狼が退いていく。周りの群れの狼達も遠巻きにぐるぐると周り始める。
死にかけの獲物に構っている場合じゃないとでも言うように。
「でも、今回は間に合ったみたいね。今までのわたしの間の悪さってヤツは全て、この日のツキの為に溜めていたのだと、納得する事にするわ」
まるで世間話のような気楽さ。その言葉、女の声で紡がれる言葉にはそんなものすら感じる。
べちゃ、べちゃ。
泥が垂れ落ちるような粘着質な音を伴いその声は輪郭をはっきりさせていく。
「でも、何よりは貴方のその諦めない意思、ガッツがこの奇跡を呼び寄せた、誇りなさい、日本人」
誰だ、誰が誰に何を言って……?
消えかけの意識にわずかに活力が戻る、今、今死んだらとても勿体無いような。
「貴方のその死を前にしても色褪せない、わたしの耳に届いた勇気ある叫びに敬意を表するわ」
「だ、だれだ……」
海原は声のする方向に、精一杯の声を向ける。
「アリサ・アシュフィールド」
「アシュ……フィ?」
日本人の名前ではない。だが不思議な事にその女の言葉はとても綺麗な日本語として海原は理解出来ていた。
「ええ、気軽にアシュフィールドか、そうね、シエラⅠって呼んでちょうだい、日本人」
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