オアシスの狩り
辿り着いた。
なんの問題もなく。
透き通った水の音が海原の耳を叩く。
「おい、マジかよ…… 鮫島……お前の言う通りだな…… オイ」
呆然と呟く海原、植物があるのならそこには水がある。鮫島の言葉が思い出された。
目の前には、緑と水があった。
ポツンと立った木の近く、まるで屋久杉のような太さのその幹に海原は背を預ける。ナップザックを白い砂と緑の芝生が入り混じる地面に落とした。
右手に備えた鉄パイプは手放さない。海原は目の前に広がる水に目を奪われていた。
キラキラとまるで水自体が光っているようも見える。透明度の高いそれはたまに揺らめく光の屈折がなければそこに水があることすら気付けないかも知れない。
10平方メートル程度の広さの泉、深さは分からない。
それでも確かにそこにきちんと在った。
オアシス、実物は見た事がないが目の前に広がる光景はきっと、オアシスなのだろう。
海原は上を見上げる、木の葉が風に揺れている。
ざあっと木の葉が掠れる音が耳に心地よい。
海原はずり、ずりとその太い幹に背中を預けながら腰をその場に下ろした。
「……すげえ」
初めて見る光景、探し求めていたものの中に、今自分はいる。
このサバイバル状況の中、海原はいち早く水場を見つける事が出来た。
良かった…… 自分のションベンを飲む事は避ける事が出来そうだな。
海原は安心感の中、ため息をつく。鮫島に言われずとも水分補給が火球の大事という事は運動部に所属していた海原はよく知っている。
夏のうだる日の練習中、少しでも水分補給を怠ればどうなるか。その事を身に染みて知っている。
海原はしばらくの間、幹にもたれかかり、風の音に耳を傾けていた。
「ん、風?」
鮫島が確か、何か風について言っていたような……
それに、待てよ。なんで風が吹いてるんだ? ここはサレオ地下街の更に下の地下だよな。
海原が今更、この空間の違和感について考えを巡らす。ナップザックの中を探り水を取り出して、一口含む。
水を舌で転がしながら喉に押し込むと、海原は考えるのをやめた。
「まあ、たちまち休憩ということで」
そのまま海原はぼーと、ただ、呼吸だけを繰り返す。
止まる、考える、観る、計画する。
STOPが大事なんだろ?
海原は忠実に自分より賢い人間の知恵を愚直に実行する。
時たま思い出したように、ペットボトルを傾け中身を煽った。
からん。
あ、やべ。もうなくなっちまった。
目の前に水源を確保したという安心感からか、海原はかなり無計画に手持ちの水を飲み干していた。
「……汲んでみるか」
海原は空のペットボトル眺めて呟く、よっこいせと立ち上がり水辺に向かう。
「……飲めるよな?」
しゃがみこみ、泉を覗き込む。おそらくそこに堆積している白く輝く砂のせいで水面が光っているのだろう。
脇にペットボトルを置いて水面を観察。
いずみには濁りなど一切見られない。透明な膜が張られているようにも見える。
海原は恐る恐る左手の指さきで水面を突く。
冷たい、指先にひんやりとした感触。つぷりと指先を入れた部分から波紋が広がっていく。
「なんかイケル気がするな」
不思議なものだ、なんとなく冷たい水なら飲んでも大丈夫なような気がしてきた。生水は危ないとよく言うが、背に腹は変えられない。
がんばれ、俺の胃袋やその他の内臓たちよ。生きるためだ、協力しろ。
頭の悪い事を考えながら、海原はペットボトルを拾い、キャップを広げてそれを沈める。
コポコポと気泡が弾ける音。
海原はペットボトルに充分な量の水を汲んだ事を確認すると固く蓋を閉めて、中に入った水を眺める。
濁りはやはり見られない。ペットボトルを揺らすと光の屈折だけが水の存在を知らせる。
いや、飲める飲める。大丈夫。
図太い割に、所々臆病な海原はペットボトルの蓋を再度開けてその中身を舐めるように口にした。
「え、うっま」
目を剥く。水が舌に乗った瞬間に海原の身体は更に潤ったような錯覚を覚えた。
アルプス、海洋深層水、水素水、水素の音、生命の水。
よく分からないがそんな言葉が海原の頭を駆け巡る。
もう一口、とくり。
「あ、イケル、絶対これ大丈夫だわ」
砂漠で彷徨った後に皮袋で飲む水、もしくは瓢箪から飲む湧き水、飲んだ事はないがきっとそれらと同じくらいにこの水は旨い。
海原はそのまま水に舌鼓を打つ。
これならそのまま掬って飲んでも良さそうだな。
海原がペットボトルを置いて、空いた手で水面に手を伸ばすーー
ビョオオオオオオ。
一際強い風が吹く。
「風、強ーー」
海原が手でひさしを作って風を避けようとした。
むわり。
真正面から流れる風、その風が臭いを運んでいた事に海原は気付いた。
動物園の臭いに、甘ったるい香水を混ぜたような濃厚な臭い。
背筋が湧く。
反射的にバッと首をあげ前方を確認。
心臓の鼓動が重たく、身体の芯に響く。
ぺちゃり、ぺちゃり。
水音、粘着。
「………ゃべ」
馬鹿野郎が。水にはしゃいで気づかなかったのか。いや、どこか上手いこといってたから忘れてたんだ。
ここは人間の世界じゃないことに。どれだけ美しくてもうまくてもここは
ここは、化け物の、クリーチャーの世界だった。
ぺちゃり。
海原の目の前、泉の対岸で水を飲んでいたそれがゆっくりと首をあげる。
黒い体毛、強靭そうな太さの四つ足、鋭い牙に、犬によく似た頭部。そしてその首回りにはまるでライオンのようなたてがみがはえる。
黒い巨大なたてがみを持つ狼が海原の対岸で佇む。
サイズはデカイ。海原の1.5倍はありそうな体長。
身に纏うのは甘い蒼い血の臭い。
どきん、どきん、どきん。
心臓が身体から飛び出して行きそうだ。わかるぜ、逃げたいんだろ? この場から。
頼むから俺も連れて行ってくれよ。場にそぐわぬのんきな思考が頭を駆け巡る。
無意識に海原は右手に備える鉄パイプを握り締めた。
ドヌン、ドクン、ドクン、ドクン。
狼の化け物が此方を見つめる。表情が分からない。ただ、こちらを黙って見つめていた。
海原は動けない。本能的に目だけは逸らす事をしなかった。ただ、一目見れば分かる、目の前の化け物には勝てない。
あのいも虫の化け物の禍々しさとは違う。人間としての遺伝子が覚えている。
アレは己を食べるものであると。
その顎と牙に首筋を包まれて終わり、その脚の爪に腹を裂かれて内臓を堪能される。
俺はアレの血肉になる為に今日まで生きてきたのだと錯覚してしまいそうになる。
本能が理解する、己と相手の生命としての格の違いを。
俺が餌でアレが狩人。獲物にすらならねえ。
それでも海原がパニックにならなかったのは一重に経験のおかげだった。
今日一日で海原は多くの化け物との戦いを経ている。コウモリの化け物の顔面に槍を突き通した感触、いも虫の化け物の膝を貫いた槍の手応え。
それらの経験が海原の恐怖とパニックを抑えていた。
ふざけるな、デカイ犬のおやつになってたまるかよ。
幸い、泉を隔てているこのままゆっくり距離を取ればなんとか……
「ウウ……オオオオオオオン!!!」
突然、目の前の狼の化け物が吠えた。頭部を高らかに上に伸ばして、千里ほど届くのではないかと言わんばかりの遠吠え。
海原の身体に染み付く原初の記憶、被食者の怯えが呼び起こされる。
「う、うおおお!」
身体から力が抜け落ちそうになるのを、こらえながら海原は叫ぶ。
気合いだ、こういう時気合いで負ければーー
目の前の狼の化け物の動きを注視する、来るなら来い。
その大口に、鉄パイプぶち込んでーー
「ガァルリル!! ガオル!!」
は?
え、熱、痛っ。
海原の脚に熱に似た痛み、瞬間とんでもない力でその脚を引きずられその場に押し倒された。
仰向けになった視界の中、いっぱいに広がるのは白い体毛の狼。
二頭……!
しまっーー
「がるるるるる!!」
目の前の黒い狼に気を取られすぎていた。
始めから二頭いたのだ。音もなく忍び寄っていた白い狼。
背後からの奇襲を海原はモロに受けていた。
仰向けになった海原の首元に口が迫る、牙が迫る。
「う、っわああああああああ!!」
痛み、それも深刻な痛みが脚から登ってくる。
恐怖の叫びをあげながらも海原は右手を振る事が出来た。
ザク!!
「ヒャン?!」
白い狼の右目にカウンターのタイミングで鉄パイプが突き刺さる。柔らかななにかに棒を突き刺す感覚。
海原は死にものぐるいで突き刺した鉄パイプをねじりながら引き抜いた。
「ヒアウ?! ヒィン!?」
おそらく泣き叫んでいるのだろう。ぶちりと何かを引き裂く感覚とともにパイプを抜くと、白い狼は仰け反り、頭をふりながら後ずさる。
はは、ザマァ見ろ、クソ犬。次は脳みそだ。
海原は体に喝を入れ起き上がろうと。
ぱちゃ。
背後、水の跳ねる音。
「がおる!」
あ、やべ。馬鹿か俺は。
泉の対岸、もう一頭、黒い奴が背後にーー
振り向こうとするも、ズタズタに裂かれた右腿に力が入らない。
はは、やべ。マジで。
背中に強い衝撃、身体の中でぼきりと骨が折れた音が聞こえた。
たいぎーー
ゴンっ。
後頭部に重たい一撃、痛みはない。
海原の視界は真っ黒に染まって、なんの音も聞こえない。
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