海原と鮫島。その最期。
「素直でよろしい、鮫島、俺に作戦がある。お前、奴から槍をーー」
「海原」
早口で綴られる海原の言葉を鮫島の呼びかけが遮る。
「あ? なんだ? なんか気になる事あんのか?」
「アァ、ソウダナ、もーちょいコッチに来い。少しでも奴に気取られたクネエ」
鮫島がふらり、立ち上がり海原に手招きする。怪訝な顔をしながらも海原はその招きに素直に従う。
とにかく今は時間が惜しい。
「なんだよ、鮫っーー!」
そこから先を海原は声に出せなかった。突き抜ける衝撃、本日3回目の腹へのどうしようもない衝撃。
すぐに分かった。鮫島の右拳が己のみぞおちに打ち込まれた事を。
「がっ、あっ、な」
口をパクパクと痙攣させながら海原はその場に崩れ落ちる。
息が、出来な……
「ワリィな。お前こうでもシネエト、絶対逃げネエからよォ」
鮫島が崩れ落ちる海原に向かって声をかける。
腹を殴られたはずなのに、肺をくしゃくしゃに丸めこられたような錯覚。
鮫島、なんでだ。
なんで。
海原の頭には疑問しか湧いて来なかった。焦燥も恐怖も怒りも今だけは忘れていた。
「俺の勝利はよオ、樹原の野郎をぶちのめす事だァ」
うずくまる海原の頭上から鮫島の声が降ってくる。人の声に混じるは竜の声が海原に降り積もる。
「お前や久次良ガ、生きてイルカギリ、オレのマケはネぇ。今、ここでお前を生かスコト。それがオレの勝利だァ」
馬鹿が、何言ってやがる、そこにお前もいねえとーー
海原が力を振り絞りたちあがろうとした瞬間、鮫島がとうずくまる海原の胸ぐらを掴みヒョイと持ち上げた。
「今でも覚えてル、オマエがあの時、手を挙げた時の事ヲヨ。オマエが居たからオレはここまでコレタ」
「てめ、何考えっ、ゲホ! 何してんだ! おい! 離せ! こんな事してる場合か!」
「安心シロォ、お前は生き残れるサ。脱出経路はアル」
鮫島は暴れる海原を物ともせずに、広間のある方向へと首を向けた。
海原は無意識にその視線に釣られる。
息を呑む、鮫島が何をしようとしているかがわかったから。
鮫島の視線は広間の中央に空いている大穴へと向けられていた。
「お前! 嘘だろ?!」
「ダイジョウぶサァ、今の俺ナラよくわかる。あの穴の先には道が続いてイル。進め、海原ァ、生きて帰れ」
「ちげえ! そういう事じゃねえ! お前もだ! お前も一緒なんだよな!? おい!」
海原はもがく、脱出、逃がす、今、鮫島が何をしようとしているのかがわかった。
「俺にはやるベキコトがアル。……テメえにタノムのは癪だがよお、一姫を頼むぜ」
「おい! お前、マジでやめろ! 一緒に、一緒に戦おうって言ったじゃねえか! アレは嘘だったのかよ!」
海原は鼻をすすりながら叫ぶ。鼻の奥がツーンと痛んで、視界が霞んでいた。
鮫島が海原は掴んだまま身体を捻る。手に掴んだ海原を下手に構えた。
強い潮流に捕まったかのように海原は身動きが取れない。みずからの胸ぐらを掴み容易に取り回すその鱗の生えた腕だけがはっきりと見えていた。
「鮫ーー」
その叫びが終わる前に。にかりと笑う鮫島、姿が変わってもその笑顔はいつもと同じ。
「ーーっ野郎!!」
ぶわりと海原は宙に浮かんだ。下手投げ、優しいんだか雑なんだかよく分からない方法で。
いや投げられたんだ。優しいワケがない。
放物線を描いて海原は宙を舞う。スローモーションの世界、鮫島がゆっくりと親指を立て、にかりと微笑むのが見えた。
この、馬鹿ーー
海原は落ちて行く。世界が回る、ふわりと浮いたその身体はすぐさま重力に捕まり落ちて行く。
海原の落ちて行く先、鮫島が投げた先、そこには穴があった。
広間に空いた大穴、海原はそこへ落ちていく。
羽も、常識外の力もない凡人はただ、落ちていくのみ。
手を伸ばす海原、もちろんその手が掴めるものなどあろうはずもない。
こちらに向けて笑いかける鮫島の笑顔に伸ばした手は、虚しく空を掴むのみ。
「さめじまぁぁあァァあァアアアアアアアアアア!!」
海原と鮫島の視線が交差する。
その声だけがはっきりと海原には聞こえた。
「勝てよ、海原」
その声が、海原が聞く鮫島竜樹の最後の言葉だった。
重力に捕まり引き込まれるように海原は大穴へ落ちて行く。
空気の流れる轟とした音が耳をつんざき、絶え間なく続く自らの絶叫が、容易に鮫島の言葉を塗り潰していった。
もっと深くへ、海原は落ちて行く。
奈落は深く、その底は測ることすら出来ない。
海原の視界一杯に広がる闇はやがてその身体を包み込み、その絶叫をとろかすように消していく。
また海原は生き延びた。今度は友を置いて生き残るのだ。
己の無力さを省みる時間すらなく、闇の中墜落していく。
凡人生存者は、常識のアウトした奈落へと堕ちていった。
………
そしてに、未だ特別な生存者は残っている。
「ギィ」
人の悪辣が文字通り産み出した化け物。蠱毒が人間の形をして歩き始めたような人物の落とし子。
「……ケッ、ガラにもネぇ事しちまってるよなァ」
首回りを動かしながら、ため息を吐くのは竜の混じった特別なる人。
奈落に選ばれ、その人間としての枠を外された鮫島 竜樹は1人、死地にて笑う。
鮫島には不思議な確信があった。
あの穴に海原を落としてもアイツは必ず生き残る。たとえどれだけの高さの穴だろうが海原が傷付く事はない。
論理的でないその確信、もしかしたら自分は酔っているのかも知れない。
「デもよお、それでもきっとお前は生き残る、なぜだロウナァ、俺にはそれがわかるんだ。海原ぁ」
なんだよ、鮫島。と返ってくる返事はもうない。名前を呼べば返事をしてくれる友人ともう会う事はないのだろう。
身体から力が抜けていくのが分かる。化け物に貫かれた傷は塞がりつつあるが、どうやら失った血や体力まで元に戻るわけではないようだ。
鮫島はそれでも、ふらつく事もせずに海原を突き落とした穴を背に庇うように立つ。
「ギ」
「ワリィがここは満員ダァ。海原は追わせねえ。マダ、ツキアッてもらうぜ。化け物よオ」
怖くないわけではない。
自分が死なないと思っていないわけでもない。
鮫島竜樹はその人間性において、海原や樹原と違いまともな人間だ。
殺し合いを楽しむ趣味も、殺し合いを仕方ないと受け入れる適性も併せ持っていない。
にもかかわらず、今この瞬間の鮫島は、恐怖とは別の感情、不思議な満足感を感じていた。
俺は死ぬ。だが死んでもそれは敗北じゃない。
「アイツらが……いる」
言い聞かせるように呟く。言葉はその耳に染み込み、胸に広がる。
海原の焦りを隠す為の下手くそな笑顔が頭をよぎる。
久次良の此方を見つめて微笑む綺麗な笑顔が目に浮かんだ。
姉の悪態をつきながら笑うその明るい笑顔が瞬いた。
そして、最も大事な鮫島の財物、春野一姫の心配そうな泣き笑いにもよく似た笑顔が胸を締め付けた。
「ワリィな。一姫ぇ」
もうその大切な財物に触れることはない。それでも鮫島は折れる事はない。
例え自分にその笑顔が向けられる事はなくとも、ただ、そこにその笑顔が在れば良い。
その笑顔を護る人間がいる。自分の代わりに受け継いでくれる人間がいる。
信頼出来る友がいる。
ならば俺はその友を護ろう。その為に命を賭けよう。
それが己のなすべき事。それが俺の善き事だ。
鮫島は一瞬、目を瞑る。
鮫島竜樹はあの日、あの場所で勇気を見た。
静まる体育館の中、自殺志願者を募る声になんの迷いもなく手を挙げたあの男の姿を。
海原 善人という勇気の標を鮫島竜樹は知っている。
あの姿を思い出す。俺もあんな風になろう。
あいつばかりにいい格好はさせねえ。俺はあいつと対等でなくてはならねえ。
もう迷いはない、恐れがあってもそれと同じくらいの勇気がある。
竜が構える。
抜け落ちる体力を気力で拾い集める。掻き消える気力を魂で繫ぎ止める。
最高の一撃を、ここに。
鮫島の底に眠る力がその精神に呼応する。
生命を繫ぎ止める為の余力をその精神の命令により、別の場所へと注ぎ込んでいく。
鱗はより強靭に、牙はもっと鋭く。
髪の毛すらまるで絵巻の竜の巻き毛のように色を失い、オールバックに決められた髪型は天上る竜の如く乱され、揺らめく。
尾骶骨の辺りの肉は割れ、皮膚とスラックスを破きながらそれが顕現する。
揺らめくそれは大きな尾。鱗に包まれた大きな尾が鮫島の身体に備わる。
名前も付けられる事のない鮫島の力は今、ここに完成した。
それはここではない別のどこかに生きる生命、神とすら比較されるべき偉大なる生命の似姿。
鮫島の奥底に果たして何が眠っていたのか。それを知る術はもうない。それを知る機会もない。
竜人がその堅牢な爪を構える。地に伏せるかの如く低く構えたその姿勢は、狩の姿勢。
いも虫の化け物は静かに、その手に携える槍を構える。
狩を完遂するべくその羽を振動させながらふわりと浮く。
竜と虫が向き合う。
空気の動きが止まった広間の中、互いにもう言葉はなかった。
カラっ。部屋のどこかで瓦礫がわずかに崩れた音が鳴る。
それが合図だった。
「ギィ!」
「アアアアア!!」
互いの影が交差する。
爪が空を裂く。
槍が空を貫く。
一瞬の交わり、それで全てが決まった。
「ギィ……ギギギギギ…」
呻きながらいも虫の化け物は地に伏していた。
その背から青い血が噴き出す。
羽がない。
一対に備わっていたその羽は片方はズタズタに裂かれ、もう片方は根元から抉り出された。
竜の爪の一撃はいも虫の化け物から空を奪った。
そして。
「ゴフッ」
竜が赤い血煙を吐き出す。
ぐらりと傾いていくその身体、その喉の下辺りには槍が突き刺さっている。
超人が凡人の為に拵えたその捻れた槍先は、竜の喉を貫通していた。
うつ伏せに竜が、鮫島が斃れる。
倒れた拍子に槍はさらに深く押し込まれ、その傷をより広げていく。
ヒュー、ヒュー。喉に空いた風穴から間抜けな音を鳴らしながらも呼吸が漏れる。
痛みはもう、無い。
鮫島の身体から鱗が剥げ落ちる。落ちた鱗は細雪が溶けるかの如く、地面に消えて行く。
羽を抉った爪がボロボロと崩れていく。それでも、手応えだけは鮫島の手のひらに残る。
眠い、鮫島は消えかけの意識の中、身体にじんわりと暖かさすら感じる満足感に浸る。
最期の思考が廻る、まだ鮫島の生命は尽きていない。
やってやったぜぇ、ザマァ見ろ。
これでてめえはもう、あの穴を下れねえ……
海原、久次良。後は任せたぜ……
ああ、姉ちゃん、一姫。俺、かっこよかったかなぁ……
暗闇の中、鮫島の思考が薄れていく。
「……ァァ、なんだよ。そこにいたのかよぉ。姉ちゃん。アレ、一姫はどこ……だぁ? また、泣いてんのかぁ」
その言葉を最後に、鮫島の呼吸はピタリと止んだ。
その唇にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
きっと鮫島には返事が聴こえたのだ。
誰にも聞こえない、だれかの返事がきっと。
鮫島 竜樹ーー
死亡。
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