暴威
頭が痛い。気分も悪い、何が起きたのかが分からない。
ただ、決定的な焦りだけが海原の脳みそを掻き回していた。
何が起きた、何があった?
口の中にジャリジャリしたものが混じる、視界には白い靄が煙幕のように広がりロクに見える状況ではない。
脚、動く、有る。
腕、動く、有る。
四肢へのダメージはない。ぼわりと疼くような痛みが身体の前面に残る。地面から飛び退いた時に強く身体を打った為だろう。
海原は身体に思い切り力を入れる。立て、立て、立て。立たなければ死ぬ。
「ぐ、クソ、何が……」
息を吐き、ひねり出すようにつぶやきながらよろめきつつも海原が立つ。
顎が痛え、地面に打ったか。
海原は痛む場所を手のひらで撫でる。ピリっとした痛み、擦り傷と打撲を併発している。
深い霧の中にいるようだ、埃や石材のチリが空中に揺蕩う。
「鮫島!、ごほっ! 無事……か?!」
大きく息を吸い込むと塵が肺にまじる。咳き込みながら友の名を呼ぶ。
何かが俺たちの居た場所に堕ちてきたんだ。一体何が……
「ウミハラァァ!! 近くにイルゾオ!!」
低い声に奇妙な波長が混じる。鮫島の声だ。姿見えずとも近くにいる。その事に安堵した次の瞬間、
近くにいる? 何が?
海原はわかり切っている事を何故か考えてしまった。
「ギュイ」
海原の眼前、白い靄が歪む。
ああ、畜生。やっぱりかよ。
「クソが……」
ビン。
白い靄が搔き消える。海原の視界が開く。
近い、目の前にヤツが居た。
いびつな、いも虫のアタマに、白いラバースーツを着込んだような人間の身体。手のひらと足には昆虫の鉤爪。
「おい、てめえ…… 飛べるようになったのかよ」
あの時、膝に突き刺した槍はそのままだ。なのにヤツは動いている。
あの時、シワシワで役割を果たしていなかったはずの羽が広がる。蝶々の羽のような形、トンボのような透明な色。
「似合ってねえな…… 糞虫」
「ギ」
眼前、いも虫の化け物、その距離約2メートーー
「ギュイ」
縄跳びをした時に聞こえるような空気の裂ける音。
「うっ!?」
尻尾、いも虫の化け物の尻尾が刹那のうちに海原の胴に巻きつけられた。
両腕ごと押し込まれるようにその太い白い尾が巻きつく。
ミシリ、嫌な音が海原の身体の中で鳴る。
何も見えなかった。音がしたと思ったら次の瞬間には身体の腹回りに強い圧迫感を感じた。
「ぐ、クソ!!」
やっば、内臓が……
身体中に力を入れる。尾の粘ついたいや感触を腕と腹回りに感じる。薄い白シャツに粘液がこびりついて居た。
「は、離せ!!」
海原が叫びながら力を込める。ダメだ、荒縄よりも頑丈なその尾を振りほどくどころかずらす事すら出来ない。
オイオイオイ、これ、やべ。
振りほどけないんなら……!
海原が身を屈めて走り始めようとした瞬間だった。
ふわり、浮遊感。アレ、俺の身体ってこんなに軽かったけ?
こどもがおもちゃを掴むかのように海原はそのまま尻尾に巻きつかれたまま持ち上げられる。
くるっくる、と上下に傾けられる事により視界が揺れ続ける。
待て、この後俺はどうなる?
海原の脳裏に、予感がよぎる。
あ、やば。
「ば、お前、やめーー」
「ギ♪」
気のせいか、いも虫のアタマが笑ったようなそんな気がした。
そんな気がして、それから予想通りの事が起きた。
視界が凄い勢いで流れ、身体に強烈なGがかかる。
ジェットコースターの落下、そんなレベルではなかった。
ゴミ収集業者がゴミ袋を投げ込むような気軽さで海原の身体はそのまま真横に放り捨てられる。
腹回りに感じていた圧迫が消え、代わりに視界が真っ白に移り変わり、それから
「ぎゃっっ」
身体がバラバラになるのじゃないかという衝撃、無意識に漏れ出た短い悲鳴。
ばきん、
そのまま海原は5メートル以上宙を飛び、地面をボールのように転がって、壁にその身体を打ち付けて止まった。
頭が痛い。気分も悪い、何が起きたのかが分からない。
身体が、やばい。
広間の中央部分から端の部分までゴミのように投げ飛ばされたのだ。
受け身などとれようはずもない、海原は何の訓練も、才能もない只の凡人に過ぎないのだから。
もとより化け物と戦う事を選んだ人間でもない、戦わざるを得なかっただけに過ぎないのだから。
「う、あ」
身体のあらゆる所から命が抜け落ちてしまいそうだ。
痛みと眠気が同時に襲ってくる。
海原は腕に力を入れて、震えながら上体を起こそうとするも哀れ、力尽き崩れ堕ちた。
「ウミハラァ!!」
遠くで鮫島の張り裂けそうな声が聞こえる。
逃げろ、と伝えたいのだが、海原は声が出せなかった。
声ってどう出せばいいんだっけ。力んで見てもひゅーひゅーと喘息のような音が出るだけ。
やばい、早く起きないと、アレが来る。きっととどめを刺しに、此方へ来る。
立て、立て、立て、立て。
死ぬぞ。立て。
自らを鼓舞し、起き上がる事を何度も試みる。
しかし身体は言う事を聞かない。頭を打ったのだろうか、視界がぼやけて、遠くで鳴るような耳鳴りがずうっと聞こえる。
「オイ! 起きろオ! ウミハラァ!」
鮫島の声だ。早く、早く逃げろ。お前、弱いんだから、よ。
海原は身体を引きずりながら前へ進む。
化け物はどこだ、いつトドメにくる?
俺はいつ死ぬ?
ここで、殺される?
アレ、なんか、すげえ、それ怖いな。
海原の胸に底の知れない不安と、恐ろしさが生まれる。
色がついているのだとしたら今、湧いたモノはどす黒いのだろうとはっきりわかる。
その湧き出したモノの名前は絶望、人を死に至らしめるモノ。
身体が
重たい。
眠い。
海原の身体の隅々に絶望が行き渡る。いつしか身体は海原の気持ちとは裏腹に動かなくなっていた。
死を待つ、獲物。
これ以上恐怖を、苦しみを味わいたくないが故に身体は防衛本能により抵抗を諦めていた。
海原がゆっくりとその時を待つ。地に伏した今の己などあのいも虫の化け物にとって、殺す事など造作もないのだろう。
あれほどまでに、湧いていた樹原への敵意も殺意も何処に行ったのだろうか。
今、海原は一刻も、早く楽になりたかった。
目の前の苦痛と恐怖に屈していた。
海原善人には絶望に立ち向かう意思も理由も足りなかったのだ。
只、生きるだけの凡人など、化け物にとっては簡単に狩れる獲物でしかない。
一枚皮をめくってみればこれだ。
勘違いしていた。槍一本無くしただけで、このザマだ。
少し、タイミングがずれただけでコレ。膝を貫いてやったのに意味がない。
俺が何度殺そうとしても、結局、結果はコレか。
もう、どーでもいいや。
意思なき凡人はそうして瞼の重さに負ける。視界が暗くなっていく。
今の海原には全てがどうでもよかった。アレほどまでに息巻いていた殺意も、胸の中にあったはずの約束も、圧倒的な現実感を伴う恐怖と苦痛により、消え失せかけていた。
せめて、楽に殺されますように。
そう願った。
かり、じゃり。化け物の足音が近い。
ああもう、怖いから目瞑ろ。
視界が真っ暗にーー
「コッチだァ!! 化け物オオオオオ!!」
腹の底が震える、その雄叫び。
言葉を扱う竜が叫んだような雄叫び。
海原は瞼をぱちりと開いた。
「え」
「ぎぃ!!」
かちり、かちり。
化け物の足音が忙しない。と思うと急に遠くなっていく。
海原は開いた視界をそのままに、片手で地面を掴み、半ば身体を引きずりながら前を見る、鮫島の方向を見る。
雄叫びのした方を見る。
「は?」
化け物の背中、そしてそれを迎え撃つかのように吠える1人の人間、いや、人間?
鮫島?
鮫島竜樹が化け物と戦っていた。
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