奈落の中心
走る、走る、走る。
海原は脇目もふらず薄暗い回路を走り続けた。もう振り返らない、その必要がないから。
足が軽い、全力で身体を動かしているにもかかわらずまったく疲れない。
ははは、無限に走れそうだ。
海原はそのまま前方へ走り続ける。一直線の回廊、道の脇に生え出す光る岩を何個も追い越していく。
「あっはははははっはー!!」
手のひらにはまだあの槍を突き刺した鈍い感覚が残っている。皮膚が覚えている、あの手応えを。
何分ほど走ったのか分からない、10メートル先の薄闇の向こうに人影を見つけた。
見覚えのある後ろ姿、鮫島だ。
「鮫島!!」
ばちゃばたゃと黒い泥を海原がはね散らしながら叫ぶ。
「海原ぁ! 無事かぁ!?」
声に反応し、その人影が振り向く。やはり先に逃していた鮫島だった。
「あっ」
鮫島からの返事を確認した途端に、足が空振った。規則的なリズムで動いていた脚がもつれる。
あれほどまでに身体に満ちていた力はどこへやら。態勢を保つ事も出来ない。やべ、地面が近ーー
「うお?!」
ドバチャア。
そのまま再び、海原は前のめりにこけた。反射的に腕で顔を庇い顔面を打つ事は避けることが出来た。
「うわ、海原ぁ! マジかお前! 大丈夫かぁ?」
鮫島が派手に転げた海原へ駆け寄る。盛大に転がった海原はしばらくそのまま動かなかった。
肺が急に酸素を求める、さっきまでまったく感じなかった息切れの分を返せと言わんばかりに。
「おーい、生きてるかぁ? 海原くーん」
海原はその間延びした声を聞く。後頭部を割と遠慮なしに叩かれる。
「はあっ、はあっ。俺は不死身だ。ゲほっ。頭たたくな、アホ」
むくりと上半身を起こし、その場で海原は仰向けになる。
にやりと笑う鮫島のギザ歯が妙に目に付いた。
「普通っ、勝者を迎えるのは美女だと相場は決まってねえか?」
「なーにが勝者だ。遭難者の間違いだろお、ここから帰ればお前には雪代のお姫様がいるじゃねえかよお」
「はっ、アイツがお姫様ってタマかよっ、オエッ、やべ、吐きそう」
息切れが酷い、胃の中は軽くしていたはずだがそれでも身体からその少ない内容物が飛び出してしまいそうだった。
「何言ってんだあ、てめえ。ヒロシマの大地主にしてユキシロ病院のご令嬢だぜえ。お姫様以外の何者でもねえだろおが」
「さすが、悪徳銀行員。金の匂いのするところにゃ詳しいな」
「ケッ、てめえが世間知らずなだけだろうがよお」
軽口の応酬、海原は鮫島をしばらく見てそれから
「ふっ、はは。はっ、あははははは」
「ふん、なあに笑ってんだろ、ったくよおー、っはは」
男2人が笑い始める。生きている、まだ生きている。
只、その事が嬉しくて面白かった。
「ははは、あー、疲れた」
ひとしきり笑った後、海原は仰向けに大の字で寝転びながらぼやく。白いワイシャツが泥に汚れる事などとっくに厭わなくなっていた。
「海原ぁ、それで追いかけて来たヤツをどうしたんだ?」
鮫島が海原の近く、光る岩に腰掛けながら問いかける。
「あ? あー、膝に槍ぶち刺してきた。地面に縫い付けるように刺したからしばらくは歩けないはずだ」
「うっわ、まじかよお、お前良くそんな事出来たなあ」
「荒事は俺の仕事なんだろ?」
海原がニヤリと鮫島に笑いかける。
「へっ、軽口叩く余裕があんなら大丈夫だな。……悪いなあ」
何に対して、鮫島が謝ったのか。すぐに海原は気付いた。
たまに殊勝な態度とるからな、コイツ。やりにくい。
「どうしたよ、鮫島。これは単なる役割分担だ。悪いもクソもねえよ。お前は俺を精々上手く使ってくれ。それがお前の仕事だろ」
「……そーか。ありがとなあ、海原」
「なんの礼だよ、意味わかんね、あー、だっる」
海原はそう言って、目を瞑る。息はだいぶ整ってきた、脚はまだだるいが動く事ができる。
海原の意識がわずかに飛びそうになる。
「待て待て待て、海原ぁ、てめえ寝ようとしてんじゃあねえだろうなあ」
鮫島の声に、海原はパチリと目を開く。
「うるせー。そんな訳ねえだろうが。少し休むつもりだっただけだ」
「目を瞑って意識飛ばして休むのを寝るっつーんだよ」
へいへい、分かりましたよ。海原は億劫そうにゆっくりと起き上がる。
ワイシャツに目を向けると泥でひどく汚れたソレは白い生地を探す方が難しいくらいに泥まみれになっている。
「海原ぁ、一息ついたんなら見せたいモンがある。ついてこい」
海原は鮫島の声のトーンがわずかだが低くなった事に気付いた。
緊張、いや不安?
鮫島が岩から立ち上がり、前へと進み出す。海原はなんとなく嫌な予感を覚えつつ黙って鮫島について行った。
「ん?」
気付けば向こう側が暗く、道が消えている事に気づく。
「気付いたかあ、俺もさっきここについて気付いたんだがよお、道はここで終わりだ」
鮫島の言葉に海原は目を剥く。
「いっ、マジか? まさかまた来た道を引き返せって言うのかよ」
歩きながら海原が声を上げる。
冗談じゃねえ、何のために必死こいて泥まみれになりながら化けモノの膝に槍ぶっ刺したと思ってる?
「話は最後まで聞けぇ、そろそろ見えるはずだあ」
鮫島がふと立ち止まる。海原は追いつこうと少し歩みを早めた。
「待て、海原ぁ。そこからはゆっくり歩け。落ちるぞお」
「落ちる?」
鮫島に言葉の真意を問おうとした瞬間、あっ、と海原は口から言葉をこぼした。
消えた道、暗闇の向こう、鮫島の立ち止まる先が見えたからだ。
そこは淵だった。
樹原が海原を突き落とした地形とよく似た淵。
ただ、あの時とはその淵の深さが違う。
あの淵は突き落とされたとしても怪我などはしない程度の高さだった。
だが、もしもこの淵から突き落とされたとしたならば命はないだろう。
海原は足から力が抜けそうになる。下腹がひゅんと奇妙な怖気を感じる。
高い。深い。
数十メートルはある。深い淵。鮫島がきをつけろと言ったのも無理はない。
海原達は道を進み、再び奈落の淵にまで進んでいたのだ。
「……ヒロシマにこんな規模の地下空間があるなんて聞いたこともねえ…… なあ、海原ぁ、俺たちは一体、今どこにいるんだ?」
知るかよ、俺が聞きてえくらいだ。
海原は鮫島にそう言い返そうとした。
した時、その淵の底にあるものを見て、そ!からまた息を呑んだ。
「お、おい。鮫島…… ありゃ、建物か?」
「……はああ。やっぱお前にも建物に見えるのかよお…… 俺の見間違いだと信じたかっらたんだがなあ」
鮫島が隣で上を仰いで顔に手をかぶせる。気持ちは分かる。
ありゃ、あれは一体なんだ?
淵の下には、建物が、建物らしきものが見える。
何故海原がそれをすぐに建物だと気付けたのかはその形が理由だ。
似ている、いわゆる世界遺産に登録されている建物達によく似ている。
「おい、鮫島。あの建物…… アレに似てねえか? あのギリシャの、アレだ」
「パルテノン神殿だなあ、ギリシャは古代都市アクロポリスの丘に聳え立つ世界遺産だあ、よおく知ってるとも、学生時代に旅行で本物を見てるからなあ」
鮫島の言葉を聴きながら海原は淵を注意深く見つめる。
「なんか、他にも建物がねえか? なんなんだ?あれ」
「俺が知るかよお、ちなみにその隣に広がってる建物はアレだ。カンボジアのアンコールワットにそっくりなんだよお。なんだここはあ? 世界遺産の墓でもあんのかあ?」
墓、その言葉に海原は何故か鳥肌が立った。
「そうだ…… ここは、墓なのかもしれねえ…… ーーが作った、大きな墓……」
無意識に言葉が口からまろび出た。脳みそで考えたのではなく、胸から噴き出したような言葉だった。
思考に靄がかかる。なんだ、これは? 何か知りもしない大事なことを忘れているような。
忘れる? 何を?
足先から背中にまで痺れのように鳥肌が、ぶわり。
あれ、ここは? 俺は……?
「あぁ? なんか言ったか、海原ぁ」
ハッ、と鮫島の声で海原は意識に戻った。
「俺、なんか言ってたのか?」
「おいおい、しっかりしてくれよお? なんかボソボソ、墓がどうのこうの言ってたぜえ? 現実逃避したくなる気持ちは分かるけどよお」
「墓……? 俺が?」
まったく心当たりがない。そもそも墓みたいと言ったのは鮫島の方じゃなかったか?
海原は会話の流れを思い出そうとするも上手く記憶を掘り起こす事が出来なかった。
「さあてと、ここからどうするかなあ」
鮫島がつぶやきながら顎に手を当てていた。
海原はそれを一瞥した後、また淵の底を見つめる。
吸い込まれそうな景色だ。下にある神殿のような建物達は一箇所に密集している。
まるで形を保ったまま慎重にほうきか何かで掃き集められたような……
じっと、海原はその建物、淵の底を見つめていた。
胸の奥底からなんとも言えない気分が滲み出てくる。
それは悲しみのようでもあり、恐怖のようでもあり、懐かしさのようでもあった。
まるでもう戻ることのないモラトリアムの残滓、夕焼けに染まる教室や、人の少ない学校プールのカルキの匂い……
淵の底の光景は海原にとってそんなようなものによく似ていた。
「おい、海原あ、お前、マジでなんかおかしいぞお。もうちょいそこから離れろ、落ちたらどうする」
海原は鮫島に諌められ、ようやく小さくうなづきながら淵の底から目を離そうとーー
今、底が光った?
目線を切ろうとした刹那、底の建物が光った。
「おい! 鮫島、今!」
「……俺も見ちまったよお、クソがあ。なんだ? なんの光だあ?」
鮫島にも見えたらしい光、海原は淵の底に目を凝らす。
ピカ、ピカッ。
光っている。間違いなく、断続的に神殿のその建物自体が、まるで鼓動をするように白く光っている。
「おい、おい、おいおい、海原あ、なんかまずいぞお、この状況はなんかまずいっ!」
鮫島が叫ぶ、海原はしかしその叫びがあまり聴こえていなかった。
「綺麗だ…… やっぱり」
その光に魅入られるようにぼそりと呟く。誘蛾灯に惹かれる羽虫のようにその光に、無意識に海原はてをのばしていた、
「おいっ! 危ねえ!」
鮫島が叫ぶ、海原がそれを無視する。
同時に、底からの光が一気に膨らんだ。光は一緒のうちに奈落の全てに行き渡る。
2人の視界は真っ白に焼け付き、いつしか何も見えなくなっていた。
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