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勇気と善人

 


「僕はね、幸福に生きたいんだ」



 薄暗い空間に、声が響く。闇に伸びてそれらの声が海原と樹原に届いた。



「幸福?」


 海原はそれを始めて聞いた言葉かのように反芻する。



 幸福と一言に言っても色んなモノがあるだろう。まあどのみちコイツの幸福はろくでもないモノに違いない。



「僕は人の生きる意味は幸福にあると信じている。自分の幸せを求める事こそが生きるという事なんだ」



 どろりと、粘性の高い液体が広がるように樹原が話す。



「おい、アイツなんか急に自分語り始めたぞ、鮫島」



 こそりと海原が鮫島に耳打ちする。



「しっ、言わせとけ、この場を切り抜ける方法を考えるからよお。野郎の好きにさせろ」



 海原は静かに頷く。ここは鮫島に任せてみよう。



「昔、妹が死んだんだ」



 とつりと、語る樹原、耳の中にするりと内容が入り込んでくる。



「僕の可愛い、小さな妹は僕の目の前でゆっくりと溺れ死んだんだ。ああ、可哀想な希…… 小さな足を滑らして小川に落ちた彼女は、必死にもがきながら生を掴もうとした」



「おにいちゃん、おにいちゃん、水から浮き上がる度に叫ぶんだ。きっと希は優しい兄である僕がきっと助けてくれると信じてたんだろうねえ……」



 なんだ、コイツはなんの話をしている?



「彼女の光の消えていく目、やがてぐったりとして静かに川底へ流れていく小さな身体……。これがまた綺麗でねえ、胸を締め付けられたよ。同時に身体がポカポカと暖かくなる不思議な感覚、その時気付いたんだ」




「ああ、僕の幸せはコレだったんだってね」



 寒空の下でコーヒーを飲んだ後にため息をつくように樹原が独白を続ける。海原はその様子を黙って眺めていた。



 樹原が自らの胸に手をソッと当て、こちらに向かって会釈した。



 初めて会ったあの日と、同じ仕草だ。




「僕の名前は樹原 勇気。基特高校の教師で、今までに4人、僕の幸福を邪魔する人間を始末している。僕は自らの幸せが他人の悲劇を眺める事だと知っている」



「悲劇だと?」



 言葉がぽんと口から飛び出る。海原の頭の中から樹原との柔らかな思い出が次々消えていく。




「そう、僕は悲劇が見たい。初恋同士の恋人を奪ったり、誰かを守ろうとした人間がそれを喪ったり…… とにかくそういうのが好きなんだ」



 悲劇が見たい、つい最近何処かでそんな台詞を聞いたような……



 結局それがよく思い出せなかったが、一つはっきりした事がある。



 どうやらコイツはろくなヤツではなさそうだ。



 海原は槍を強く握り直す。切っ先をゆっくり上方へ



「あはは。世界が終わって本当に良かった。今の世界には悲劇が満ちている。少し僕が手を入れればそれは、もう…… いいものが観れるだろうねえ」



「俺たち2人がその悲劇の邪魔になるっていうのか?」



 話しを長引かせるべく海原は問いかける。何かこの状況の突破口を見つけねばならない。



「そうだね、邪魔だ。鮫島くんは常に僕を怪しんでいたね。初めから君は一度だって僕を信頼した事は無かった」



 樹原が口元を綻ばせたのがわかる。隣の鮫島は黙ってその剣呑な目つきで上を睨み続けていた。



「僕はこれでも万人から愛される才能を持っていると自負している。人は事実を己の見たいように見るものだろう? 僕はそれを演じればいいだけ。それだけで皆から信頼を得れる」



「でも、たまにいるんだ。僕の演技を、擬態を見破る、己の信じたいものではなく事実を、事実として見定める事が出来る厄介な存在が、それが君だ。鮫島くん」



「……初めて会った時からよお。テメエは気に入らなかった。話す事や為す事が全て、俺たちに都合が良すぎたからなあ……」



「あはは、やっぱり。良かった、今日きちんと君を終わらせる事が出来て。これでも結構君の前では神経使ってたんだ」



 にこりと樹原が嗤う。その顔は何度も見た。探索チームがまだ全員いた時だ。


 全員で囲む粗末な食事を囲む際にいつも樹原はニコリと笑い缶詰を嬉しそうに食べていた。


 あれも演技だったのだろうか。海原はほんのすこしだけ胸が締め付けられるような感覚ーー


 寂しさを感じていた。




「その点、海原くんは良い人だ。鮫島くんとは違い、君は最後まで僕を信じようとしてくれていたね」




「……それがどうした」



 もう、なんか本当にたいぎぃなあ。コイツとあまり話したくない。




「あはは、その目怖いなあ。まあこれで僕の邪魔者は消える。僕は僕の箱庭を完成させる事だけに集中できるよ」



「箱庭?」



「そう、基特高校、僕の悲劇の箱庭。あはは、想像しただけで胸が踊るよ」



「何をするつもりだ、テメエ」



「言ってるだろ? 悲劇が見たいのさ。特別な力を持ち責任感溢れる子供たち。自らの状況を未だに理解すら出来ない多数の凡愚。白痴の集団。素晴らしい素材と思わないか?」



「ロクな事考えてねえのだけは分かる。てめえの思い通りにさせるわけねえだろうが」



 奥歯からぎりりと軋む音が響く。下腹が熱い。



「あはは、君達がいれば難しかっただろうね。でももう君達に悩まされることもない。そうだ、これで別の愉しみにも集中出来るなあ」


「まだあるのか、どんだけ趣味悪いんだ、てめえ」



「あはは。でもコレは君だって男なら同じだと思うよ。美しい女を好きにしたいと言う昏い欲望はね。ホラ、うちの高校は生徒に美人が多いだろ? 僕はモテるからねえ、悲劇が起きるまでは精々、美との交わりも楽しまさせてもらうよ」



「ゲス野郎が」



「あはは。教師の役得さ。そうだ、海原。こんなのはどうかな? 君と仲の良い雪代さん、あの姉妹を僕が籠絡するんだ。君を喪い傷付いた姉妹を僕が癒し、愛そう」



 何を言っている? コイツはなんだ?


 途端に海原の頭から色が消える。樹原との柔らかな思い出が消えていく。



「君の代わりを僕がやろう。あの美しく気高い雪の精のような姉妹は僕のモノとして愛するよ」



 吐きそうだ。



 この屑は一刻も早くこの世から片付けなければならない。



 屑の話はそれでも続く。



「あは、そして、そしてね。僕の愛があの姉妹を蕩かし、姉妹が僕に身も心も捧げるようになるんだ」



 興奮したように樹原が首をぐるりと回す。目を剥き話す醜い顔、これがこの男の正体なのだろうか。



「彼女らが閨で僕に愛を囁くようになった暁には、悲劇の仕込みが終わった時には僕は姉妹に告げるんだ。海原 善人を殺したのは僕だ……とね。ああ、ああ! 今から愉しみだ! その時彼女らはどんな顔をするのだろう!」



 樹原が自分で自分の肩を抱く。ピクリ、ピクリと身体が震えている。


 何かを抑える風にも見えるその仕草。



 気持ち悪い、どうしようもない嫌悪感を海原は抱く。



 パチリ。



 海原の脳みその中、スイッチが押されるような気がした。




 コイツは、そうだな。



 もう元々いなかった事にしよう。



 樹原 勇気なんて言う仲間はいなかった。初めから存在していなかったんだ。



 海原は頭の中でロジックを組み替える。身体がきちんと動くように。



 次こそ確実に、殺せるように。



 これは俺の目の前に迫った、片付けるべき事だ。



 海原は口の中に溜まった唾を、地面へ吐き捨てた。



「迷惑な話だな、そりゃ」



 小さく、唾とともに言葉を吐き捨てる。


 なんなんだ、この男は。目の前にいるコイツは本当に人間なのか?



 海原はどうしようもない不安を感じる。いつ間にか口は乾き、呼吸が僅かに荒くなっていた。




 狂人とロクに話している暇はない。こっちの頭までイかれそうだ。



「あはは。想像しただけで興奮して来たよ。さてそろそろ、僕の悲劇に不要なモノを処分しようか」



「おいおい、決断が早くないか? 意外と俺と鮫島も悲劇の似合う男だったりするかも知れないぜ」



 隣で鮫島が周囲をチラチラと見回しているのが分かる。まだ時間はかかりそうだ。海原はスーツのスラックスに冷たい泥が染み込み始めたのを感じる。



「それだよ、海原。君のその姿勢が邪魔なんだ。信じていた仲間に裏切られ、大切な人が貶められようとしているのにも関わらず君はもうそのショックを乗り越えている。タフすぎるんだ、君は」



「おっと、急に褒めんなよ、んな事言ったところで許す気はねえぞ」



「あはは。似ている、君と僕はある一点とても似ている。それがとても恐ろしいんだ」



「似てるだと?」



 このサイコと平凡普通を象徴する凡人たる俺が?


 海原はおうむ返しにその言葉を繰り返した。


「僕は君を殺そうとしているが、君も僕を殺せるだろう?」



「何を当たり前の事言ってやがる?」



 コイツ、ほんっと意味わからねえな。



「当たり前じゃない。いいか、海原善人。殺せるという事はね、当たり前じゃあないんだ」




「………」



 くしゃりと髪を掴みながら樹原が言葉を紡ぐ。



「例えばだ、僕は今鮫島くんを本気で殺そうとしているね、でもきっと、鮫島くんは僕を殺せない、びびって止まると思うんだよね」






「……てめえ。ナメた事抜かしてんじゃねえぞお」


 鮫島が低い声で唸る。ギロリと三白眼が鋭くなる。



「あはは、こうやって凄んではいるが君はきっといざとなれば躊躇するよ。僕を殺すその瞬間、君の身体はきっと止まる。倫理観や良識と言ったものが必ず、そうさせる」



 和かに樹原はまるで昼下がりのティータイムの談笑を交わすかのようにつらつらと話す。






「でも、海原 善人。君は違う。君はきっと僕を殺す。なんのためらいもなくね。君は僕と似ているからね。つい2秒前まで笑い合っていたとしても、殺す理由さえあれば必ず、殺す」



 クスリと笑いながら樹原は先程海原が穿った肩口を撫でた。



「それにしてもさっきは本当に驚いたよ…… 君もし、僕が単なる言い間違いだったらどうするつもりだったんだい?」



「言い間違いじゃなかったから良いだろうが。本当にお前はよく喋るな、樹原……」



「あはは。怖いなぁ、その瞳。君だけだ。あの夜も多数の避難者で溢れる体育館で、君だけがその衣服を返り血で真っ青に染めて、甘い青き血の匂いを撒き散らしていたよね」




「君は僕と同じ、人の痛みに共感出来ない呪われた人間性の持ち主だ、だからこそ刺せる。だからこそ殺せるんだ」




 大きく、樹原が息を吐いた。カラカラと鳴る空気を揺らす音。


 海原はそれが樹原の嗤い声だという事に気付いた。



「だから今日は本当に良い日だ。僕を信じず僕の擬態を見破る厄介な鮫島 竜樹を葬れる」



「僕を赦さず、悲劇を殺すやも知れぬ恐ろしい海原 善人を消すことが出来る」



「本当に今日は良い日だ。目の前でまた一つの悲劇を眺める事が出来る」



「互いに信頼する対等な友、それを喪うのはとても……悲劇だろう。なあ、鮫島、海原」




 顔を抑えながら嗤う樹原、何をするつもりだ。海原は空気がピリピリと自らの眉間にしみていくような奇妙な感覚を覚えた。




「ヴ、ゔぉゔえ」



 えづく音、眼前、上方。


 淵に立ち、こちらを見下ろす樹原が唐突に電柱にゲロを吐くかのように屈みながらえづき始めた。



「オイオイオイ、あの変態野郎急に吐き始めたんどけど鮫島くん」



「あまりにも気持ち悪い事話し続けたからよお、酔ったんじゃねえのかあ?」


 海原は努めて軽口を放つ、無意識に一歩、二歩と後ずさりをしていた事には気付かずに。



「ヴ、ヴェ、あは……は。少し、ほんのすこしだけ…… 残念でも、あるよ。もう君達のその……呑気な会話を聞くことも無くなると思うとね……」




 それは唐突に始まった。



 始めに海原が気付いたのは、異臭。酸っぱい汗の臭いと鼻の奥に残るような鉄錆の臭い。濃すぎるその臭いが周囲に溜まっていく。




 ヤツだ、えづいている樹原の方からその臭いは漂う。



「ぉああ、ヴェ、うお、オブ」



 身体を大きく痙攣させながら樹原が呻きつづける。得体の知れない不気味さ。海原は足の底がジワリ、ジワリと薄くなっていくような錯覚を覚える。



読んで頂きありがとうございます!



宜しければ是非ブクマして続きをご覧下さい!

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