凡人と化け物
…………
……
彼は空からじっと下を注視していた。
あの壁、球体の壁の向こうに隠れた獲物をずっと待っていた。
彼は狩りが得意だ。不意に襲うのも、時間をかけて襲うのも両方好きだ。
苦労して狩った獲物ほど味が良いのは経験からよく知っていた。
ジィと、空高く、翼あるものにしかたどり着けない場所から彼は地上を見降ろしていた。
根比べ。獲物が痺れを切らしあの壁から出てくるその時を待つ。
彼はそれが1時間でも一日でも1週間でも待つつもりだった。
疼く傷、砕かれた脚、その報いを必ず受けさせてやる。彼は獣慾をその翼に滾らせ来るべき時を待っていた。
以外にも早くその時は来た。
球体の壁、その一部が歪み、穴が開いている。
1人の獲物が壁から抜け出て、地上を走り出している。
ソレはその獲物の顔を地上に出てから得たよく見える瞳で空から確認、違う、金の毛、妙な棒、不気味なヤツ。そのどれでもない。
先程狙いを定めた弱い獲物のウチの1人だ。
こいつなら、狩れる。
ソレはほくそ笑んで空からの狩りを再開した。色々驚かされたり、傷付いたりもしたがこれで帳消しだ。
この溜まった鬱憤は、哀れな弱い獲物で解消する事にしよう。
くるりと、空を一回転。頭を下に向け翼を折りたたむ。身体の内臓がキュッと縮まるこの感覚が彼は嫌いではなかった。
一瞬の空白。重力と揚力が釣り合う刹那の瞬間を、翼あるもののみが味わえる奇妙な感覚を彼は贅沢に楽しんだ。
彼の狩りが始まる。
ふっと、重力がその存在を思い出したかのように彼の身体を地面に引っ張り始めた。
みるみるうちに近づいてくる地面。彼はその強靭な翼をうまく微調整し、空気の軌道を変える。
僅かに生まれた揚力が彼の体を滑らせるように運んでいく。
彼はわざとそのまま走る獲物を空から捕まえるのではなく、もっと、狩りを楽しむ方法を選んだ。
どしゃあああん。
着地、地面に横たわる変な箱のようなものを蹴散らして行く。
その獲物の走る先に着地した。丁度道路の半分、電車の路面の上にソレは獲物の行く手を塞ぐように着地した。
獲物がその短い手で顔を庇い、後退しながらよろめいていた。
あはあ! 弱い! コレは獲物としては最高だ! あの貧弱な爪、獲物としては肉付きの良い身体、ご馳走だ!
身体を大きく見せるため、後ろ足で地面に立つ。
皮膜を大きく、大きく凧のように広げて威嚇した。
狩りの興奮のまま、ソレは叫ぶ。
「ケアアアアアアアアアアアアア!」
獲物の顔をみる。見せろ、俺様の咆哮に歪む驚愕と恐怖に染まったその美味そうな顔を!!
彼は興奮のままに、叫び続けた。今まで彼を強者たらしめて来たその慎重さは、手こずった狩りの完遂の興奮により掻き消えていた。
だからこそ、彼は気づかなかった。その後ろ足が踏みしめているものに。
最も彼がもし、冷静だったとして気付く事は理解する事はなかっただろう。
獲物と彼の立ち位置の関係、彼が踏みしめているのは路面電車の路線、金属でできている線路。
両者の直接上には、歪な形に歪みつつあるクルマが繋がり合っていた事に、彼が気付く事は無かった。
叫ぶ彼は、獲物の顔を見る。
を?
その顔は今まで彼が見てきた獲物の表情ではなかった。
その顔は初めてみる人間の顔だった。
彼にわかったのはそれは今まで獲物を食って来た時には見たことのない顔。
彼と同じく狩りの興奮により恐怖を忘れた顔。
人の悪い笑顔。嘲笑。その顔は獲物のそれではない。
思惑の成功した、狩人のモノだった。
「作戦、成功」
パキン。地面から音が鳴ったのだけがわかった。
一瞬の出来事。なのに彼はその人間が口元を半月のように歪めて何かを口走ったのがわかった。
「お前、もう終わりだ」
獲物が、何かを口走る。彼に問いかけるようなその声色に恐怖の乱れは感じ得ない。
「思ったんだけどよ、あいつらだけずるいよな。特別な力があって、しかもそれに名前をつけてんだぜ。ずりーよ、ロマンすぎるよな」
なんだ、コイツは。
今までこんな風に自分を目の前にして語りかけてくる獲物などいなかった。
気持ち悪い。彼はどうしようもなく目の前の獲物が気持ち悪くて仕方がなかった。
金色の毛、妙な棒、不気味、そしてこの獲物。
おかしい、コイツらはなんだ?
彼はどうしようもない不安をその巨大な身体に感じていた。
奈落の底に居た時はもっと単純だった。自分より強そうな奴は強かったし、弱そうな奴は弱かった。
狩人と獲物の関係は揺らぐ事のない絶対の掟で、彼もそれに従って生き残って来たのだ。
だが、コレは、目の前にいるこの獲物は……何かがおかしい!
「だからよ、ちょいと俺もアイツらの代わりに叫ばせてもらうぜ」
な、にを?
人間の顔がさらに歪む。
「くたばれ、ホット・アイアンズ!!」
獲物の叫び、恐怖ではない。敵意と殺意に満ちたそれを聞いた時、彼は自分の足元で起きた異変にようやく気がついた。
ソレは自らの身体に這われるような鋭い熱を、感じた。
な、にが?
起きている?
足元から妙な、のたうつ爪が自らの身体、翼に絡まっているーー!!
しまった、まさか、コイツ!!
目の前でちっぽけな獲物がニタァと嗤っている事だけが分かった。
………
……
海原の目の前でコウモりの化け物がもがいていた。
その巨体に次々とホット・アイアンズの影響下にある金属、路面電車の沿線が絡み付いて行く。
意思を持つ生き物のように、まずそれはコウモリの翼に絡みついた。
蛇が鳥を喰うとしたらまずは翼から壊すのだろうか? 皮膜を縫い貫きながら絡みつく沿線は、容易にその翼を変形させて行く。
「ケアアアア! アオオオオオ!」
ミシリ、ミシリ。家鳴りのような何かが軋む音が聞こえる。
コウモリの体からだ。
既に沿線は翼から胴体、足にまで巻きつきつつある。
ぞ、ゾゾゾ、その身体を侵すかのように殺意を持つ金属が化け物を傷付けて行く。
「ふ、ふふふ、良いな、すげえな、アイツの力は」
終わった世界で凡人として生き長らえて来た海原は目の前で起きる超常現象に高揚を隠し切れない。
ああ、自分にこんな力のカケラでもあれば、もっと、もっと……。
海原は自分の口元が歪んで行くのに気付いた。
「なあ、オイ。一体どんな気持ちなんだ? 獲物に追い詰められるってのは、どんな気持ちだ? 教えてくれよ、化けモノ」
「ケアアアア!!」
ビチ、今度は沿線が軋んだ。化けモノの身体が筋肉が膨らむ。
火事場の馬鹿力という奴だろうか。巻き付く金属を引きちぎらんとコウモリがその身を震わせて暴れ始めーー
「おっとお、あまり暴れてンじゃねえぞ、コラ。コウモリヤロー……、よし、近付けた」
ギチリ。突然海原の隣にあった車両が歪に、溶け出したように歪み、螺旋のような姿になってコウモリの化けモノの身体へ突き刺さった。
青い血が舞う、アスファルトに落ちたそれがシュウとしぶきをあげながら気化していく。
コツ、コツ、コツ、
海原の背後から、近づいてくる人間の足音。
「8メートル、ホット・アイアンズの本来の射程距離範囲内だぜ。久し振りだな、コウモリヤロー。会えて嬉しいぜ」
田井中 誠、ホット・アイアンズの持ち主が右手を前に突き出すようにかざして近付いてくる。
田井中が近付く度に、コウモリの化けモノの身体からなる軋む音が大きくなっている。
「しかし、まさか本当に成功するとはな。オッさん、アンタやっぱり、いかれてるぜ」
「褒め言葉だと受け取るわ、田井中。お前こそ、タイミングは完璧だった」
「ケッ、当たり前だろうが。俺をだれだと思ってやがる」
妙な色気、目元の泣きぼくろに皺を寄せて田井中が笑った。海原は下腹部にぞくりとしたモノを感じる。
敵じゃなくて良かった。本当にそう思う。
「ケアアアア、ケアアアア!」
コウモリの化けモノがそれでも悶え、暴れる。胸に金属の螺旋が突き刺さっているというのに、青い血が吹き出すのも構わず暴れ続ける。
「じゃあ、トドメは宜しく、田井中クン」
「言われなくてもそうするぜ。あばよ、クソコウモリ。泣き叫んで、それから死ね」
「ケアっ!」
田井中が手近にあったクルマのボンネットを叩く。中身のこぼれたハンバーガーのようにそのクルマから溶けた金属が溢れ出し、周りのクルマに飛び散る。
「ホット・アイアンズ、ラスト・ストライク」
一斉に周囲のクルマが変形、数十本にも及ぶ、金属の尖った螺旋がその切っ先を縛られたコウモリに向ける。
田井中の手が振り下ろされる。それが号令となった。
ずど、ずど、ドドドド。
ずじ。
空気の迸る音がしたのち、間抜けな音が響き渡る。ダンボール箱に穴を開けたような変な音。
螺旋がコウモリの身体を串刺しにして行く。
「ケッ」
ロクな悲鳴すらあげることなく、コウモリはその身体に幾多の致命傷、風穴を開けられる。
幾多の生命を攫い作り続けた生命の水、青い血が間抜けな噴水のように吹き出し、そのこげ茶色の毛皮に染み付いて行く。
その瞳からはいつしか、残虐さも恐怖も強張りも消えていた。
膨らんでいた身体が、みるみる萎んで行く。
「これで8体目。モンスターハンターだな、オイ」
「田井中、お前そんな数の化け物倒したのか?」
「ハッ、俺の次には竹田の4体が記録だからな。まあ、コイツはそこそこ強かったぜ」
「恐ろしい高校生だな、お前ら」
「恐ろしいオッサンに言われたくねえ。さて、隠れている連中を呼びに行こうぜ」
田井中が今、まさに巨大な生命を奪ったというのにも関わらず、ケロっとした態度で海原を促して後ろを振り向く。
海原もそれに倣い、皆を迎えに行こうと化け物から視線を切ったーー
「ケ」
グリン、コウモリの瞳に光が戻る。その目に抜け落ちた魂が舞い戻った。
「なっ」
いち早くその異変に気付いたのは田井中だった。ホット・アイアンズで操る鉄からのフィードバックがいち早く異変を伝えたのだ。
死んだ身体に、力が戻ったと。
振り向く、田井中、コウモリが末期の力を振り絞り、その沿線の拘束からわずかに抜け出す。
自由になった首、その鋭い牙を隠し持つ、人間の頭程度ならひと噛みでちぎり潰してしまいそうな口を開く。
がパリ。180度近く広げられた大口、下顎と上顎が粘性の高いヨダレで繋がる。
狙うは最も手近な人物、未だ異変に気付いていない海原を、その首、頭を大口が狙う。
「オッサン!!!!」
悲鳴のような田井中の叫び。その声が届くよりも、その牙が、その口が、海原に迫る方が、速いーー
「オラァ!!!」
ジュド。
田井中は何が起きたのか、まだ分からない。
コウモリの最期の一撃が海原の頭を真上から噛み潰そうと迫るところまでは理解出来た。
目の前に映し出されるはずだったのは最悪の光景。
確実な仲間の死が確かにそこにあった、はずだった。
「わかる、いやわかるぜ。コウモリ。そうだよな。自分だけが死ぬなんて許せないよな」
低い男の声。目の前の海原の声だと、しばらくしてから田井中は気付いた。
「ケッ、ア…… ア」
ジュブ。
その槍が、更に深くコウモリの大口に深く挿し入れられる。
カウンター。
コウモリがその大口を翻した瞬間、海原はくるりと、まるで初めから知っていたかのように身を回転させ、そのまま独楽のように回りながらその手に携えた無骨な槍を、広々と開けられた口内に押し入れていた。
「俺だって、多分そーする。死んだふりしてよ、自分を殺した連中に少しでも傷を残してやろうと思うわ」
「け、あ」
ずぶん。
槍が更に深く。
コウモリの首が、がくりと落ちた。
「お疲れさん。お前をこの手で殺せて本当に良かったよ」
冷たい、声。田井中は目の前の海原からそんか声が出たのに驚いた。
ボダタタタタ。がくりと落ちたコウモリの首、その口内から大量の青い血がこぼれ落ち、海原にその血が滴る。
「きったね」
ひょいっと、海原が槍から手を外し、その場から後退する。
「お、オッサン……、アンタ……」
田井中は上手く言葉を紡ぐ事が出来なかった。目の前の仲間にかける言葉が見つからない。
「田井中」
びくり、声をかけられた瞬間。背筋がわずかに伸びた。
「な、なんだ、オッサン」
田井中は僅かに唾を飲み込んだ。目の前の青い血で顔半分を汚した男、白いワイシャツの肩口を真っ青に染めた男に返事をする。
「すまん。槍、駄目にしちまった。後で新しいの頼むわ」
へへっと笑うその笑顔に、田井中は今まで誰にも感じた事のない感情を覚えた。それがなんなのかはまだ、分からない。
「オッサン、アンタやっぱりイかれてるわ」
軽口を返すのが精一杯。目の前の男が目を僅かに丸くして、また笑う。
「やかましいわ、がきんちょ」
コウモリの化け物、討伐。
捜索チーム、負傷者、死傷者、ゼロ。
残り8人。
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