煮ても焼いても
………….……………
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……………
………
…
「見つけたぜぇ、海原」
「うぉは!」
海原は唐突にかけられた声に過剰に反応した。目を開くと真ん前に同じプラスチックチェアに腰掛けた凶悪な三白眼で此方を凝視する男の顔があった。
「驚きすぎだろぉがよお。俺の顔がそんなに変わってるか?」
「寝起きにてめえの顔はケッコー衝撃的なんだよ、鮫島」
海原が息を吐いてずり落ちかけた身体を椅子に戻す。
泡が消えるように先程まで見ていたはずの夢の内容が消えていく。ぼんやりと夢を見ていた、かも知れないという想いしか海原には残っていなかった。
鮫島が不満げに此方を見つめていたがやがてどうでもよくなったのだろう。海原から目を逸らし、ジャージのポケットに手を突っ込んだ。
「お前もやるか?」
「いや、俺はいいわ。どーせ噎せるだけだし」
そーかと小さくつぶやき、鮫島がポケットからタバコの箱を取り出した。英文字が表記されており、赤と白のコントラストが小さな紙箱に描かれている。
慣れた手つきで紙箱からタバコを一本取り出し咥える。逆側のポケットからチンケな作りのライターをとり出すとそのまま口元へ持って行き、火をつけた。
チボっ。と耳障りの良い音がなるとすぐに、タバコの先端にオレンジ色の火がつく。
鮫島がタバコを咥えたまま大きく息を吸うとオレンジ色の火がまるで呼吸をするかのように明滅する。
「ふー」
タバコを口から離し、鮫島が空を仰ぎながら大きく息を吐いた。呼気とともに煙が空に紛れ、すぐさま風にさらわれていく。
海原は何も言わずぼーとその光景を眺めていた。
「あー、美味い。まじで、美味い。」
鮫島がぼやき、またタバコを吸って、吐く。
同じように煙が巻かれ、さらわれていく。
海原の鼻に煙が舞い、ほんの少し苦い空気が香るもすぐ流れる風に洗い消される。
しばらくの間、鮫島は黙ってタバコを吸い続ける。海原もまた黙って空を見上げ続けた。時たま見上げている空に煙が舞うのもあまり気にはならなかった。
鮫島のタバコがやがて短くなる。先端はもはやグズグズの灰でしかない。タバコを咥えたまま鮫島がポケットから小さな折りたたみ式の灰皿を取り出した。
パチリとワンタッチで広げた灰皿にタバコを押し付け、短くなったタバコを放り込み、また折りたたむ。
「マナーがいいじゃねえか、鮫島」
「だろ? 海原。喫煙者は迫害されていたが、何も皆がみんな路上にタバコを捨てまくるチンパンジーだらけじゃねえんだ。俺みたいに良い喫煙者もいるんだよ」
鮫島がニヤリと笑い、灰皿をポケットにしまう。
「残りは3本。まあた、張り切って外に出ねえとなあ」
「命を賭けても吸いたい味なのか?」
海原が背もたれに深く身体を傾ける。
「お子ちゃまの海原くんにゃ分からねえだろうなあ」
からかうように鮫島が答えを煙に巻く。
「ふん、言ってろ、肺がんになってから死ぬほど後悔しやがれ」
海原が悪態をつく。その表情は柔らかくなものだった。
高い空で雲が流れていく。朝日が屋上に照りつける。雪代継音の力ですでに校舎内は冷やされ始めている為に、2人の身体に汗が浮く事はなかった。
「ついさっき、樹原を寝かしつけて来た。」
「子どもを寝かしつけたみたいに言うんだな」
「ほっとけ。……一姫にゃあ、適当な事言って保健室から退室させた。今頃久次良の寝相の悪さと寝起きの悪さにドン引きしてるころだろうよ」
「樹原を1人にしといていいのか?」
「一姫と2人きりにさせるわけには行かねえからなあ……。まあこの後すぐ俺が様子見に戻るさ」
心配性な叔父、というのには少しオーバーすぎる鮫島の物言い。
海原はその言動に突っ込む事は何もせずに、声を僅かに潜めて鮫島に問う。
「で、どうだった鮫島」
主語のないその言葉、しかし鮫島はその言葉を聞き返すような事はしない。
三白眼気味の瞳が海原を、見る。
「ああ、恐らくだがウソは言ってねえ。大筋の話はマジなんだろうよ」
鮫島が髪を撫で付けながらため息混じりに話す。まるで神経を使う仕事を終えた職人のように疲れた顔をしている。
「だが、本当の事を言ってるかどうかは分からねえ。もしかしたら奴は話していない事もあるかも知れねえ」
奴と鮫島は表現した。その響きはとても信頼のおける仲間を差すものではない。
「……鮫島。やっぱ考えすぎなんじゃないのか? 俺にゃあどうしてもあの樹原がそんな怪しいとは思えねえんだけどよ」
海原が小さく言葉を紡ぐ。
「俺だってなるべくなら疑いたくねぇ、貴重な分かっている大人だからなあ。けどよお、海原、理論的に考えても見ろよ。これで2回目なんだぞ」
鮫島が目を細めながら海原を見つめる。ギザ歯の悪徳銀行員。なるほど春野の悪口はなかなかに的を得ているなと海原はぼんやり考えた。
「……たしかにな。これで2回目なんだよな」
2回目。この言葉が、この回数が指し示すもの。
それは樹原勇気が参加した探索において、樹原のみが生きて帰ってきた回数を示すものだった。
「確かによお、野郎は頭がキレる。教師にしておくのは惜しいぐらいに立ち回りも上手え。一姫に確認したが学校でもかなり人気のあるセンセーだったらしい」
「けどよお」
鮫島が言葉を区切る。
「今回は11人だぜ? 11人中、帰ってきたのは野郎1人だ。あの反則的な力を持ってる東雲じゃなくて、ただの人気者のセンセーが生き残るかよ、普通」
「……まあ、たしかに。なあ」
「海原、おめえはよ、きっといい奴だ」
海原は最初、何を言われているのかを理解できなかった。
「あ?」
「海原、てめえは口は悪りぃし、雑だし、すぐに手が出る。おまけに足が短くて顔も大して良くねえ。」
「この野郎……」
「んでもってシャワーを浴びる時にパンツ履いたまま洗うし、ツナ缶にはマヨネーズじゃなくて醤油をかけやがる」
「更に言わせて貰えば最初にここで会った瞬間にてめえはどえらい美人を連れたクソ野郎だったしよお」
「鮫島、そろそろぶん殴るけどいいよな?」
海原はやっと悪口を言われている事に気付いた。拳に力を入れて懐に忍ばせる。顎か、首か。
「まあ最後まで聞けよ、いいか海原。そんな欠点だらけのてめえだがよお、それでもお前はいい奴なんだ」
「褒めたいのか貶したいのかはっきりしてくれないか?」
「褒めてるだろうがよお、いいか海原。お前はまともで善良な野郎だ。どれだけ欠点があろうとお前は善人なんだよ」
「……何が言いたい? 鮫島」
「善人だけじゃねえんだ。世の中にゃ本当に善人じゃねえ奴もいる。」
鮫島の声が低くなるのを海原は聞き逃さない。
「仕事柄色んな人間を見てきた。んでな、たまにいるんだよ。どう考えても外れている奴ってのが」
「外れてる奴?」
「そォだ。外れてる奴だ。仕事が出来ねえとか話が通じないとかじゃあねえ。物の感じ方や物の見方がまるで違う、宇宙人みてえな奴がたまにいるんだよ」
「樹原もその宇宙人って事か?」
「まだ、分かんねえ。外れてる奴にも2種類いてな。自覚がない奴とある奴がいんだよ。得てして自覚がある奴はそれを隠すのが異常に上手え」
「仮に樹原がその自覚のある宇宙人だとしたら、何がまずいんだ?」
「言ったろうが海原。そいつはな、善人じゃねえんだ。フリは出来るが決して良いモンじゃねえ。外れてるから人の痛みが分からねえし根っこの部分は自己愛に満ち溢れてやがる。簡単に言えば他人に対しての共感がねえんだよ」
鮫島がどこか遠い目をしながら話を続ける。その表情は特定の誰かを思い出しているようにも見えた。
「共感……ねえ」
「一時期はサイコパスとか呼ばれてたんだがなぁ。連中は目的の為なら平気でそして、簡単に他人を傷つける。だって共感出来ねえからよお、誰しもが持っている躊躇いや良心がねえんだ」
躊躇いや良心がない。その言葉を聞いた時海原は初めて、生き物を殺した日の事を思い出していた。
あの時の自分も一切、なんのためらいもなく手に持っていたダンベルと包丁を振り下ろしたものだっだが。
「その点がお前みたいな善人と外れている奴の違いだ。特に海原、お前みたいに抱え込まなくてもいいモンまで抱え込むセンチ野郎とはなぁ……」
「……なんの話だ?」
海原はわざととぼけたように呟く。あまりそれは触れて欲しくはなかった部分であるがゆえに。
「ふん、お前がとぼけるんならそれでいいけどよお。だが的外れだろうとなんだろうと言っておくが、……あまり俺らを舐めんなよ」
海原は鮫島の言わんとする事がすぐに分かった。やはりこの目の前の口の悪い友人には海原の負い目は見抜かれていたのだ。
その見当違いの負い目に気付かれていた。沈黙が2人の間に流れる。
話題を変える為に海原は鮫島に問いかける。
「……それよりよ。樹原がその、サイコパスだとなぜ思うんだ? 別にその宇宙人じゃなくても悪い奴なんていくらでもいるだろ」
鮫島がギョロリとした目つきで海原を一瞥し、うーんと空を見上げ、言葉を返す。
口を開く。
「勘。だな」
「勘?」
「そおだ。勘だ。なんとなく、俺の中の何かが野郎は怪しいって囁くんだよ。アレは危険だ。巧妙にイルカに変装している人食いザメだってなあ」
鮫島は1つ咳払いをして言葉を区切る。
「とにかくよお。警戒するに越した事はねえ。全てが偶然で俺の取り越し苦労だったていうのが理想なのは分かってる。けどよお、俺ぁ少しでも疑いがあるんなら、なんとかしねえといけねえんだ」
鮫島の三白眼が海原を射抜くように見つめる。その瞳をどこかで見た事がある、誰かも同じような目つきをしていた……
「春野さんの為か」
考える前に言葉が漏れ出た。
「そぉだ。俺にはやるべき事がある。何としてもこの終わったくそったれの世界で一姫を守らねえといけねえ。あの子を生きて姉貴と、親に会わしてやるのが俺の役目だ」
鮫島が噛みしめるように言葉を紡ぐ。
「その為なら俺は羊の群れの中に紛れた狼を見逃す事は出来ねえ。必要ならその狼を俺は殺す」
風の音がやんだ。鮫島の目を見ればわかる。この男は本当にやりかねない。
鮫島は春野を守る為ならば殺人をも厭わない。この男はその痛みを受け入れてでも人を殺すのだろうと海原は感じた。
「……お前の考えはわかったよ。鮫島」
「そおか。そりゃ何よりだ。……手筈通りに明日の探索では常に俺か、お前が樹原と行動するぞ。ガキと樹原だけ……ていう状況にはさせねえ」
「了解、悪徳銀行員の人を見る目を信じるさ。こちとら二流リーマンじゃけよく分からんからな」
「抜かせ、……海原、頼りにしてるぜ。お前がいて良かった」
海原は目を大きく見開いて鮫島を見やる。
「鮫島、お前死ぬのか……?」
「前言撤回だ。てめえにゃ頼らねえ」
お互いに悪態をつきながら、2人は口角を緩めた。
「まあ、あれだ。海原、もし俺には何かあった時はよお」
「黙れよ。それ以上は聞かん。てめえの姪だ。てめえで守れ。鮫島 竜樹」
鮫島の言葉を海原はぴしゃりと遮る。三白眼が大きく開き、そして、フッと鮫島の顔から強張りが消えた。
「ケッ、嫌な野郎だなあ、てめえはよお」
鮫島が話は終わりとばかりに席を立つ。
「いい奴、じゃなかったのか?」
「前言撤回だ。てめえは煮ても焼いても食えないゲテモノ野郎だ」
「口悪りぃな、悪徳銀行員」
「元、悪徳銀行員だ。今はただの姪を守る正義の味方だぜえ」
「否定しろっつの。お前みたいなのが正義の味方か。世も末だな、おい」
その言葉に出口へ向かっていた鮫島がくるりと振り返り、ニヤッと笑った。鋭いギザギザした犬歯が覗く。
「残念だなあ、海原。本当に今、世は末だぜ?」
そのまま鮫島は階下に降りる通用口のドアの向こうへ消えていった。
海原は目をパチクリと瞬かせ、空を再び見上げた。
「確かに、それもそうだ」
高い空に流れる雲の量は徐々にその数を増していた。
海原はその雲を数えながらこれからやらなければならない事を羅列していく。
やはり、雪代の説得が一番難しいだろうな……
それから田井中の所で打ち合わせをして、荷物作りだ。田井中特製の鉄パイプの持ち手にビニテを巻いて、荷物を作って。
「明日の今頃は、もう外か……」
海原はこの奇妙な避難生活を送る校舎内での日常を振り返る。
いい奴もいればそうでない奴もいる。それは前の世界と変わりはない。
ただ、目の前の事を片付ける。ただ、それだけを目的として生きる。
海原は過去、自分で決めた生き方を続ける。それが自分にとっての幸福につながるのだと信じている。
「いっちょ、頑張るか……」
海原が安っぽいプラスチックチェアから腰を上げ、屋上広場を去る。
誰も居なくなった広場にポツリ、ポツリとプラスチックのチェアだけが残っている。夏空の上で、雲が広がりいつしか広場には影が差していた。
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