ファーストペンギンの負い目
シャーと音を立てながらカーテンを海原が開ける。
そこには男が1人、仰向けで眠っていた。
精悍な顔立ちをしていることは眠っている状態からでも見て取れる。
いつもつけているトレードマークのメガネは見当たらない。何処かで失くしたか壊れたりしたんだろう。
細身ながらしっかりとした体幹を持つ身体に長い手足。海原より10センチ以上も身長は高いだろう。
動きやすそうなチノパンに、カジュアルな白シャツ。靴は脱がされていた。
「マジで樹原か……」
すう、すうと眠りこける樹原を見つめ海原は目を細めた。近くのパイプ椅子を引き込みガタンと腰をかける。
「ああ、良かった。マジで生きてる……」
海原は首を力なくおり、顔を伏せる。噛みしめるように呟いた。
海原 善人にはある程度の負い目があった。それは多数の行方不明者を出した東雲発案の大規模探索に参加しなかった事に尽きる。
あの日、体育館での東雲の演説の後に募集された、校外へ赴き食料や物資の回収を行う有志が募られた。
誰も手をあげるわけのない無謀な募集の中、いのいちに手を挙げたのが海原だった。
海原善人は、凡人だ。
子供のころから勉強も運動も得意ではなかった。人並みに勉強すれば、赤点は免れることは出来ていたが上位者に入ることもない。
かといってそれを覆すような努力を行えるわけでもない
運動の方は割と素地はあったらしい。中学から始めたラグビーの推薦により高校も、大学も進学出来た。
一時期、海原はこのスポーツに関しては自分にも才能という特別な枠が備わっているのではないかと勘違いしかけた事があった。
しかし、それは本物の天才との邂逅により容易に打ち砕かれた。
才能が違う。
県の国体メンバーのベンチ要員として招集されたそこは、自分とは違う本物の才能を持つ者たちがしのぎを削る異世界だった。
海原 善人は気付いた。
自分は決して、特別ではないという事に。
しかしそれに気付いた後も、彼は特にいじけたり、ヤケになったりなどはしなかった。
特別ではないというに気付いただけだ。才能があろうとなかろうと人生は進んで行く。
凡人は凡人らしく目の前の事だけを片付けていけば良いんだ。人生に目標や信念なんかいらない。
俺はなんもなくても生きていける。
ただ、生きるだけでいいんだ。
それは諦観というべきか達観というべきか、その日から海原は自分の人生の進め方を決めていた。
目の前の事だけをただ片付けていく。才能を発揮する場も、競争の場も要らない。
ただ、生きていくだけでいい。生きてるだけで丸儲けだ。
海原 善人はその日、特別を諦めた。それは同時にただあるがままに人生を受け入れようという、幼年期の終わりでもあったのだ。
結局海原がその生き方を続けて8年後に世界は終わってしまった。
しかし、海原はまだこうして生きている。目の前の生き残るという目的だけ定めただ、ただ、あの日受け入れた自分の生き方に従い、終末を迎えた世界を生き残っていた。
そんな海原が何故あの時、東雲の演説が終わった瞬間に、誰よりも早く危険な外へ出る役目に志願したのかは本人にも、分からない。
覚えていることは2つだけ
となりに立つ雪代長音の何かを決めたような瞳が目に入った事、それと演説を行った基特高校生徒会長である東雲が、何故か輝いて見えていた事。
この2つだけだ。
気付けば、海原は手を挙げていた。
今でもあのポカンとした東雲の顔は忘れる事が出来ない。
そしてしばらくすると海原に釣られて、何人かがぽつり、ぽつりと手を挙げたのだ。
手を挙げたのは体育館に避難した人間のわずかに過ぎない。それでもその光景を、徐々に挙がっていく人の腕を海原は未だはっきり覚えている。
オールバックに三白眼、よれたスーツ姿の凶悪な顔の男や一見観ると女に間違えてしまいそうな優男、それにメガネをかけた長身の美丈夫などなど。
その時、手を挙げた人間こそが探索チームの仲間たちであった。
目の前で眠る樹原 勇気はその時、ファーストペンギンである海原に釣られて、シャチのいるかもしれない氷海に身を投げ出した変わった大人の一人である。
俺があの時、手を挙げなけりゃあこんなに大勢の人間がいなくなることはなかったんじゃないか。
これが海原がまだ誰にも打ち明けたことのない負い目だった。
鮫島辺りが聞いたらブチ切れるだろうなと海原は邪推する。
てめえ、何様のつもりだぁ、オイ
あの間延びした、しかしよく通る声が頭の中に浮かぶ。
海さんが考える事じゃないよ、それ。流石に僕らを舐めすぎ
あの透き通るハスキーボイス、顔の割に言う時は言う年下の友人の声が浮かぶ。
彼らはきっとそう言うだろう。狂ってるが気の良い連中ばかりだ。
だが、この男は?
海原によって駆り立てられ、傷付いた男は何を思うのだろうか。
海原の胸、その奥にある太い血管がぎゅうっと絞られるような感覚がした。腹の底が重たく熱い。
まるでそこに心臓が移動したかのようだ。
嫌な気分。ストレス、自戒、恐怖。
そう、海原は怖いのだ。傷付いた樹原が帰って来たは嬉しい。よく生きてくれたと。だがそれと同時に同じくらい怖かった。
お前のせいでみんなが死んだ。
そう、言われるのが怖かった。だが海原はそれから逃げることは出来ない。
目の前のことを信念も理由もなくただ片付けていく。
それだけが凡人である海原を支えるたった1つの茅葺きで出来た儚い柱だったからだ。
海原はわずかに顔を上げて、寝息を立てる樹原を見つめる。
海原の呼吸は僅かにそのペースを乱していた。
ゆっくりと目を瞑る。息を吐く音と吸う音だけに集中。呼吸を続ける度に胸が重くなる。それを飲み込みただ、息を吸って、吐く。
吸って、吐く。
僅かに胸が軽くなったその時ーー
「う、あ。う、うみはら……くん?」
ベッドから小さなうめき声のような呼びかけが。
海原善人は思い切り目を開いた。
また心臓が、跳ねる。
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