1日の終わりに 姉妹の会話
ある姉妹が生徒会室で食卓を囲んでいた。木を切り出して木目の色合いを生かした風体の長机にろうそくが数本たっている。
電気の死んだこの状況において火は貴重な光源になり得る。
夕日は既に遠く、月が昇り始める薄暗い、最も夜に近い、夕方。
屋上で海原と別れたのちに、雪代はその足で生徒会室へ向かっていた。
雪代 長音はこの避難生活において初めて妹を食事に誘ったのだ。
1ヶ月という期間は、彼女に過去と向き合う猶予を与えていた。いつ死ぬか分からないこの状況で、雪代 長音は行動を開始していた。
「どうぞ、継音さん。マヨネーズ、お好きでしょう」
雪代は自身が使ったマヨネーズの容器を目の前の妹に差し出した。
眼前に座る自分とよく似た容姿をした妹が、おずおずとそれを受け取るのを見て笑みを深める。
「ありがとう、ございます。ね…… 長音さん」
「ふふ、どういたしまして」
雪代はコンビニやスーパーでよく使われるプラスチックのフォークで、海原の持ち帰った鯖缶を切り分ける。
野郎たちの晩餐とは違い、紙皿に盛り付けられたそれは一端の夕飯にも見える。
フォーク一本を流れるような手つきで操り、鯖の身をほぐす。すっと音もなく雪代はそれを口に運んだ。
「……今日はどういった用件なのですか、長音さん」
姉と同じ綺麗な所作でツナ缶を継音が食べながら言葉を放つ。
姉から受け取ったマヨネーズは皿の側に置き、前を見つめた。
「あら、姉が妹と食事をするのに理由が必要でしょうか?」
雪代は手を止めて、目の前の自分とよく似た顔を見つめる。
陶磁器のような白い肌に、淡墨を溶かし込んだかのような黒い髪。
やはり綺麗な子になったと雪代はその柔らかな笑みを深めた。
長く伸びた前髪、それの隙間から鋭い眼光が雪代を見ている。
「姉と、妹……。あなたは私達を捨てたはずです。もう、そんな関係じゃあない」
継音も手を止めて、目の前のよく似た顔を睨みつける。
「ふふ、嫌われてしまったものですね。あなたはたしかに家をとても大切にしていましたから」
雪代は笑みをたたえたまま妹を見つめ続けた。
「分かっているんですね。そうです。私は貴女が嫌いです。」
「もう、姉とは呼んでくれないのですね……」
「捨てたのは貴女のはずです。私を、雪代家を」
冷たい沈黙が高価な調度品に囲まれた部屋に染み入る。
わずかにその薄い唇を開いて雪代が言葉を紡ぐ。
「そうですね…… あの時の私はたしかに貴女や結、そしてお母様とお父様を捨てた事になるのでしょうね」
「っ……。よく分かっているじゃあないですか」
穏やかな口調を崩さない雪代と対照的に継音はわずかに言葉をいいよどむ。
「でもね、継音さん。わたくしは謝りません」
雪代が言葉を放つ。フォークを動かし、鯖を一切れ口に放り込んだ。継音からみれば粗野な、以前の姉ならばしないようなその動作。
「何を」
「わたくしはあの夜に決めたのです。もう我慢も諦めも憎みもしないと。わたくしは自らの欲に気付く事が出来ました」
「訳が、分かりません。貴女は何を言っているのですか?」
「継音さん。わたくしは貴女の目から見て変わりましたか? あの広い座敷牢にいたあの頃から」
継音は眼前にいる姉の顔をじっと見つめる。言葉が、考えるより前に解け出た。
「変わりました。今はもう、貴女が何を考えているのかが分からない」
「……」
雪代は継音を、妹を見つめたまま黙ったままだ。
「あの頃は、皆が家にいた頃はとても心地良かった。姉さんのことも、結の事も、考えてることや、居場所なんかも自分の事のように分かっていた……」
継音が雪代の事を、姉さんと呼ぶ。ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ。
雪代は黙ったままだ。
「でも今はもう、分からない。あの日姉さんが家から出たあの時から、分からなくなった。あの居心地の良い、つながり合っている感覚はもう、ない」
継音が顔を伏せる。ツナ缶は減っていない。
「そうですね。あの頃のわたくし達はまさに一心同体。雪代の血はわたくし達を強く結びつけていました」
雪代は緩やかに言葉を選びながら伝える。普段、海原が自分に気を遣いながら話してくれる光景を思い出しながら、それを真似る。
「それはわたくしにとっても心地良かった。自分が1人ではない、寂しさなんて感じるはずもない、緩やかな時間でした」
「だったらなぜ、なぜ捨てた? 姉さんは捨てる事が出来たの?」
継音が平坦な声で問う。
「……ある日ふと、気付いたのです。その在り方がとても歪なものだと。継音さん。貴女も気付いているでしょう? わたくし達の奥底に確かに流れる冷たい血の事を」
「雪代の、血……」
継音が呟く。部屋の温度がまたわずかに下がる。
「そう、その血はまるで氷のような冷たさを湛えておきながら、温もりを求める矛盾したもの」
「わたくしはある日、気付きました。わたくし達三姉妹のあの居心地の良い繋がりは決して、わたくし達の絆に依るものではないという事に」
雪代の黒い瞳に影が差す。月明かりを遮る雲が伸びた。
「わたくしにはそれがとても悲しく、悔しかった。だってそうでしょう? あれほどまでに尊いと感じていた繋がりは、何のことはない、呪いにも似た血の力だと分かったんですから」
雪代は顔を上げ、目の前の妹を見つめる。ああ、自分とよく似ている。だが、それだけだ。似ているだけ、同じではない。
雪代にはそれがとても嬉しかった。
「わたくしは許せませんでした。最も自分が大事にしているものが他者に支配されていた事に怒りを覚えました」
雪代が体に力を込める。それは内に秘める血を抑えるためだ。
自らの奥底に流れる血が雪代の言葉に抗議するように冷たく身体の芯に沈み込んでいくような感覚を覚える。
「だから捨てました。血の力はあの家にいれはいる程、雪代という家に縛られる程に強くなる。わたくしは血に支配され続けるあの家を変えたかった。だから、貴女達を捨てました」
「貴女達と血に依らず、寄り添いたかったから。いつか必ず、方法を見つけて貴女達を家から解放しようとしていました。残念なことにわたくしがそれをする前に世界が終わってしまったのですが……」
雪代は苦笑する。妹は表情を変えずにその顔を見つめた。
「それが、姉さんが私達を捨てた理由……」
「ええ、許しを請うつもりはございません。見方によってはわたくしは只、自らの情動に従ったにすぎません。血の力を忌避しながらも、家を出る時には最終的に血の力でお父様やお母様に逆らい、そして今も生き延びる為にこの血を利用しているのですから」
雪代が自嘲気味に表情を歪めた。ふうと小さく息を吐き、次の言葉を紡ぐ。
何故か、あの凡人。粗野で割と口が悪く、それでいてたくましいあの男の緩んだ顔が脳裏に浮かんだ。
「それでも、わたくしに後悔はありません。わたくしは間違ったことはしていないと確信しています」
にこりと静かに、しかし見たものに力強さを感じさせる笑顔。それは壮大な雪山に登る朝日を思い起こさせるものだった。
傲慢、しかし感慨を沸き起こさせる何か。
「……分かった。姉さんがあの時、何故家を捨てたかは理解した。でも、やっぱり私は姉さんを許すことは出来ない」
「……はい」
「私はやはり、姉さんが嫌い」
「……はい」
「……でも」
継音も同じく顔を上げる。右目にかかる前髪が僅かにずれた。そこから覗く瞳は姉と同じ、黒い瞳。
「話してくれて、ありがとう。その事自体は嬉しかった」
「……継音さん」
「……その呼び方もやめてよ……姉さん。」
「えっ?」
継音の白い肌にわずかに朱がさす。姉から渡されたマヨネーズをツナを盛った皿の端に僅かに垂らした。
「昔みたいに、呼び捨てで……いい。姉さんが嫌じゃないのなら」
そっぽを向きながら、継音が小さく呟いた。
雪代は口角が上がるのを止められなかった。
「はい!」
2人の間にそれからはぽつり、ぽつりとした会話しか生まれなかった。
しかし、わずかに。ほんの僅かだがこの時から雪代 継音が冷やしている校舎の気温は上がっていた。
「時に、姉さん。」
「なんですか、継音」
ニコニコしながら雪代が継音を見つめた。
「多重人格はまだ治らないの?」
継音が恐る恐ると聞く。それはまだ姉妹が通じ合っていた時から、姉が患っていた奇妙な性質。
「ふふ、継音。昔、貴女に聞いた事もあるかも知れませんが…… どのわたくしが一番お好きですか?」
ふわりと微笑む、雪代。近年において最も濃く、その先祖の血を受け継いだ彼女の笑みは、祖と同じく人を魅了する力を持つ。
祖を同じとする継音ですら少し、くらりとするものを感じるその笑顔。
しかし、継音はもうこの問いに対する答えを持っていた。当然だ。今は絶たれたと言えおさなき頃は繋がり合っていた存在なのだから。
「関係ない。姉さんは姉さん。1人しかいないのだから。それに言ったでしょ、姉さん」
「あら?」
継音がニヤリと笑う。その笑顔は雪代のよく知る人物となぜか被った。
「私、姉さんの事まだ嫌いだから。答えるとしたらみんな、嫌いよ」
「ふふ、ふふふ。あらあら」
「あはは。ははは」
生徒会室に透き通る氷柱のような声が響いた。雪代の胸に僅かな熱が灯る。それこそが雪代があの、ぬるま湯のような繋がりを捨てて手に入れたものだった。
お互いの事を全て分かっていて完全に理解し合い、なんのいがみ合いもない関係はたしかに心地よい。
しかし、その関係には試練が存在しないゆえに成長も前進もないのだ。
雪代長音はそれを歪と判断し、捨て去った。
火口についた火花のように小さなそれは、姉妹喧嘩の火種。
まだそれはつくことはない。やっと、世界が終わってからやっと、雪代長音と雪代継音は喧嘩ができるところにまでたどり着いたのだから。
果たしてこの火が広がるのはいつなのだろうか。だがそう遠い日ではないとなんとなく、雪代は感じた。
先日、図書館で読んだ本の一節が思い浮かぶ。
ーー得てして仲の良い姉妹の男の好みは似ることがある。
その1文が雪代の頭から離れなかった。
嫌いというのは必ずしも好きではない、好きにならないという事の証明にはなり得ない。
「……継音、1つ聞いておきたいのですが……」
「なに、姉さん」
継音がツナを皿の端に盛ったマヨネーズにちょん、ちょんと付けながら答える。
「……探索チームの、わたくしのパートナーである海原さんについてどう思われますか?」
「ああ、私の探索チームのあの男。嫌いよ。粗野で口が悪くて抜けてる。大人としてどうかと思う」
「それに……家庭のことにも口を出してくるなんて信じられない。しかもいう事かいて私の事を、この雪代継音を、が…、がきなんて……。嫌いです。私はあの男が嫌い」
僅かにむくれたその表情は昔、よく見た継音が不貞腐れた時に出す顔、そのままだった。
雪代はその表情を眺めて、懐かしい気持ちになると同時に少し、胸が重たくなる。
継音が個人にここまで悪口を言う事は初めて聞いた。
他人に対して興味を持たない、少なくとも自らより優秀な人間でない限り、妹は無関心を貫くはずだ。
なのに。妹は海原を嫌いと評した。どうでもいいではなく、嫌いだと。
「そ、そうですか……。そうですね、確かにあのお方は粗雑で荒々しく、デリカシーがない最低な方ですからね! あまり継音は近づかない方がいいかもしれません」
「……最低とまでは言っていない。姉さん、少し言い過ぎじゃない?」
継音が少し目つきを鋭くする。雪代は笑みの裏側で汗をかいた。
「ええと、継音、怒って……るんですか?」
「怒るわけがない。まったく。あの男には先生や会長を見習って欲しい。あの2人みたいに紳士的であれば、少しはマシになる」
雪代の額から一筋の汗が垂れる。それはすぐに部屋の冷気により気化し消えてゆく。仕切り直しを変えようと雪代は手をパンと鳴らした。
「そうですわね。あのお2人はたしかに、こう女性から見て理想の男性像と言いますか」
「ええ、樹原先生はかっこよくて優しくし、東雲会長は賢くてかっこよかった。あの人とはまるで違う。同じ男として考えること自体失礼になる」
「……あの人の良い所を知らないのですね。」
今度は雪代が僅かに怒気を孕んだ声で静かに呟いた。
「姉さん? どうしたの?」
それには継音は気づかなかったようだ。キョトンとした顔で雪代に語りかけた。
「いえ、なにもないございませんわ。それにしても樹原先生に東雲会長、いづれは彼らを探しに出ねばならないのでしょうね」
雪代が紙コップの水で口を湿らす。こくりと小さく音がなる。別室の野郎とはやはり所作がまるで違う。
悪口の槍玉に挙げられていた粗野な男とその悪友はちょうど同じ頃、年下の友人に咎められながらもそのままペットボトルをラッパ飲みで飲むようになっていた。
「姉さん、その事についてなんだけど。話がある」
「話、とは?」
雪代 長音は妹からの告げ口に耳を傾けた。みるみるうちにその笑みが静かに、そして冷たいものに変わって行く。
ナイアガラの滝すらも凍ることがある。滝のように表情を変えるはずの雪代の顔は深い笑みをたたえたまま凍りついていった。
「なるほど、あの方はまた。そんなことを考えていたのですね……。継音に言うと言うことは本気で隠すつもりは無かったみたいですが……」
「……姉さん…私止めようとしたら、やかましい、ガキは黙ってろって怒られた」
継音が若干、事実を脚色して告げる。
「まあ、なんてこと。よろしい。身体を充分に休めたらわたくしがあの方を懲らしめて差し上げます」
「姉さん…… 無理してない?」
「ふふ、あと3日も休めば力の方は問題ないでしょう。あの方を懲らしめた後に、どんな方法を使ってもついていきますとも。あの方は特別ではないのですから」
ふふんと雪代が胸を張る。継音はそんな姉の様子を見て僅かに微笑んだ。
それからも会話は続く。結局姉妹の会話は、日が完全に落ちて月が真上に登るまで続いた。
それからは仮眠室から持ち込んだ敷布団を敷いていつものように2人で眠り始める。
昨日までは会話なく、布団も部屋の隅と隅として離れて眠っていた2人だが、今日はなぜか人間1人分のスペースを空けるのみとなっていた。
その距離はまるで、3人が一緒だった頃と同じ距離、継音と長音、その間に末の妹、結を挟んで寝ていた姿と寝ている。
例え、末の妹との邂逅は未だ出来ていないとも、2人はほんの少しづつ姉妹の姿を取り戻していた。
おやすみと、どちらからともなく声がぽっと浮いて、暗闇に溶けていく。
2人は眠る。当たり前の朝を迎えるために。しばらくしたのちに、よく似た寝息が交互にすー、すーと響き始めた。
そして朝が来る。
雪代長音の力は未だ戻る事はなくーー
その日はやって来る。
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