終わった世界の夕焼け。雪代と海原
世界が紅く染まっていく。海原は緩く吹く風に目を細めた。
あの静かな物置き教室で妙な時間つぶしを行なった後、海原は屋上広場へ到着していた。
この場所は校内を見下ろす事ができる。向かい側には第2校舎の建物が見受けられる。屋上には海原しかいないようだ。
「はー、疲れた」
海原は屋上の中心に何個か置かれている椅子に腰掛ける。プールに置かれていそうな軽いプラスチックタイプのものだ。
背もたれに深く腰掛け、海原は大きく息を吐いた。
椅子の中に疲れが溶け落ちて行く。先程読んだあの感想文の読み疲れもあった。
「なんで女のちょっと、とか少しだけ、とかはよー。こーんなにも長いのかねー」
背中から倒れてしまいそうなほどに仰け反りながら海原はぼやく。夕焼けが目に沁みた。
屋上が、世界がいよいよオレンジ色に染まって行く。夏の日の夕方は何故こんなにも濃い色になるのだろうか。
海原は屋上から見通せる山々の狭間に差し掛かる遠い夕日を片手でひさしを作りながら見つめ続けた。
真っ赤に染まる夕日が少しづつ、少しづつ山際に触れて行く。ぽかりと浮かんだ雲が時折夕日を覆って包み隠す。
空は遠くなれば遠くなるほどに、人間の浮き出た静脈のような青紫色が混じって行く。
海原は口を僅かに開けて、間抜けな顔をしながらゆっくりと変わっていく夕焼け空をただ、ただ眺め続けていた。
心臓が緩やかに、呼吸が軽い。頭の中は澄み渡り、何かを始めたくなる。
ああ、やはりこういうのはいい。
一人でぼんやりと空を眺める。ここに辛めの炭酸飲料があればもう言う事なしだ。
海原は次回の探索では必ず炭酸飲料を持ち帰ることを心に決めていた。ついでにお気に入りのおやつも欲しい所だ。
ドラッグストアに置いてあるのだろうか、あのハニーバーは。
海原があの蜂蜜をこれでもかと練りこんだ甘ったるいパサパサの生地の食感を思い出していたときだった。
「ああ、やはりここにいたのですね。海原様」
聞き慣れた声。しかし海原はそれがまるで久しぶりに会う人間のもののようにも聞こえた。
「随分長い昼寝だったな。雪代」
海原は椅子から立ち上がりもせず、かと言って振り向きもせずに空を眺めたまま背後からかけられた声に返事をした。
「ふふ、意地悪な方……。ええ、貴方様のお陰でゆるりと休めましたわ」
鈴を鳴らす、その女が言葉を紡ぐ度にその場の空気が僅かに揺れる。海原はそんな錯覚を覚えた。
「それと、雪代……だなんて、そんな他人行儀な呼び方はおよし下さい。どうぞわたくしの事は、長音と」
「雪代、お前なんでいっつも学校に戻るとそうなんだよ」
背後から聞こえた雪代の言葉を遮り海原が半ば、やけになりながらぼやいた。
屋上への出入り口は1つ。ちょうど今海原の背後にある扉だけだ。空に見惚れていたとはいえそれなりに気配には意識を向けていた。
なのに、今声を掛けられるまで海原は屋上に登ってきた人物の存在に気付く事が出来なかった。
海原は椅子に座ったまま肩越しにふりむく。
黒い髪が黄昏色を受けて、鈍く輝く。背中まで伸びる長い髪緩い風に巻かれてたゆたう。
整った顔のパーツ。いや整い過ぎだ。神様が明らかに贔屓して作ったであろうその顔立ちは見ているだけで胸を掻き毟りたくなる妙な衝動に駆られる。
薄い口元に高い鼻。それとその宝石のような眼。
着ている服装は黒を基調とした基特高校女子指定の学校ジャージ。
何のことはない色気のカケラもない姿のはずなのに、目の前の女が纏うだけで、アンバランスな色気を感じるから不思議だ。
少しキツそうな胸元がジャージの生地を押し上げていた。
「ふふ、海原様。いかが致しましたか? そんなに見つめられると、少し……恥ずかしいです」
海原はにこりとした笑いを崩さない雪代を注視した。白い肌は濃い夕焼け色に染まっている。
「ああ、悪い、これもセクハラか?」
「フフ、いいえ。女性が不快に感じなければ男性の、いわゆる視線というのはセクハラにはなり得ないものかと。あくまでわたくしの感覚ですが」
雪代が片目をいたずらげに瞑りウインクする。胸元を指差すように当てた手がぐにりと豊満なバストに沈んで行く。
海原はぼんやりとその素晴らしい光景を目に焼けつけていた。
「でも海原様、そんなに熱く見つめられるとやっぱり恥ずかしいです」
「悪い、つい」
ぶっきらぼうに海原は視線を切り頭を下げた。雪代が口元を手で押さえて小さく笑った。
「ほんと、不思議なお方ですね。貴方様は」
いや、お前に言われたくないわ。
という言葉が喉の半ばまで込み上げてきた。海原はなんとかそれを飲み込み小さく「そうか?」と返した。
「ええ、少なくともわたくし達を見る他の殿方はもうすこしなんと申せばよろしいのでしょうか。落ち着きがないというかーー」
雪代が形のよい眉をわずかに傾けて、それから頰に人差し指を当てながら微笑んだ。
困ったかのように笑うその顔を見ていると海原は自分の中の雄の部分をこねくり回されるかのような錯覚を覚える。
目の前の女をもっと、困らせてみたい。もっと色々な表情が見たい。海原の理性とは正反対の位置に存在する感情が大きな音を立てながら蠢く。
黙れ。みっともない。
雪代にわからないように唇の裏側を噛む。海原は情動を理性で抑え込む。
それが出来なければこの女と関わるべきではない。海原はこの1ヶ月でそう学んでいた。
「あら、やっぱり……」
雪代が目を細める。宝石で出来た短剣を思わせるようなその怜悧な目は怪しく歪む。
品定めされている。海原はそう感じていた。
「嫌な目だな、おい」
「あら、ごめんなさい。ご不快でしたか? あまりにも海原様が、その眩しくて、つい」
海原の目の前にいる雪代長音は、先程まで海原と外に出ていた時の雪代長音とはまるで別人のような雰囲気を持つ。
元気で活発、しかしどこか抜けている。そんな先程までの雪代長音を構成していた要素は今や陰を潜めている。
「どうか、お許しを。海原様。わたくし決して貴方様を害すつもりはございません」
にこりと笑うその美しい貌。しなやかな身体がしゃなりとこちらへ近付いてくる。
女。蛇。魔性。
そんな言葉が海原の脳裏に浮かぶ。まるで別人。だがしかしこれもまた海原のよく知る雪代長音の一面の1つなのだろう。
「なあ、雪代、毎度聞くけどよー。お前なんで学校戻るとキャラ変わるわけ?」
海原はわずかに顔をしかめながら呟く。雪代はそんな海原の表情を眺めた後に笑顔で応える。
「あら、申し訳ございません。どうしてもあの子が近くにいると思うと少し、身に力が入りまして」
「身に力が入ったらそこまで変わんのかよ」
「ふふ、海原様。今のわたくしと昼間のわたし」
雪代の笑みが深くなる。
「どちらがお好きですか?」
夕日に染まる雪代の姿。美は一定のレベルにまで達した段階で、恐怖を伴うようになると海原は理解した。
この質問は前にも受けた事がある。但しもっと間の抜けている雪代からだったが。
心臓が何故かざわめく。それは目の前の女の美しさにときめいたのか、それとも……
海原の口内で舌が踊る。言葉を選ぶとはこの事なのか。
怖い、目の前の女の言葉がとても怖い。間違えてはいけない、そんな重要なもののような気がしてならない。
焦りを見せる訳にはいかない、凡人が超人とまともな関係を続ける為に必要な事は少ない。
はったりと演技。それだけだ。
海原は唾を小さく飲み込んだ。雪代にバレないように。
「雪代長音ってよ、2人いるのか?」
踊る舌が言葉を選ぶ。もう止められない。止まらない。
「え?」
「いやだからよ、雪代、お前は2人いるのか? 昼間にいたお前とよ、今目の前にいるお前は別人なのか?」
海原はなるべく表情を変えずに言葉を紡ぐ。変わらない海原の表情と対照的にねとりとした笑顔は真顔に変わった。
「いえ、そんな事は……」
「じゃあそれが答えだ。俺にとって雪代長音は大事な相棒、探索チームの仲間だ。どっちがとかじゃあねえじゃろ」
「雪代はお前しかいないんだからよ」
立ち止まる雪代に海原は淡々とした声を浴びせる。
海原はわずかに背筋がぞわりと鳥肌立つ。このやり取りをするのはもう何回目になるのだろう。
その度に誤魔化したり、無視したりしていたが、真面目に答えるのは今回が初だった。
「ふ、ふ、ふふ、」
雪代が顔を伏せたまま押し殺すように笑う。何かに耐えるかのように体を畳みながら雪代長音が笑い声を上げた。
「ああ、なるほど。あなたたちが気に入るのも無理はありませんね。これは……」
もぞもぞと身体を揺らしながら雪代が呟く。海原はその様子をじっと見つめ続けていた。
「雪代、もう身体はいいのか?」
いまのうちにこちらのペースで話を変えちまおうと海原が問いかける。
雪代がゆっくりと顔を上げて
「ええ、春野さんのおかげで。まだ少し身体は重たいですが日常生活に支障はございません」
「そりゃなによりだ。春野さんには頭が上がんねえな」
海原が隣の椅子を指し示す。
「悪い、気が効かなかったな。座ってくれ」
「ありがとうございます。御言葉に甘えますね」
雪代と海原が並んで座る。眩しそうに夕日を眺める海原の顔を雪代は横目で見つめていた。
「眩しいですね」
「そうだな」
「夕日、お好きなんですか?」
「ああ、綺麗だろ。綺麗なモンは基本的に好きだ」
「わたくしもです」
雪代がしんしんと笑う。深夜にいつのまにか積もっている雪のように静かに微笑んだ。
「雪代」
「はい」
夕日を眺めたまま海原が呟く。雪代が静かに応えた。
「今日は助かった。ありがとう」
「こちらこそでございます。海原様が倒れたわたくしをここまで運んでくださったのでしょう?」
隣り合う2人は遠く、山際に挟まれるように沈む夕日を眺めながら呟くように言の葉を交わす。
「まあ、余裕だ。お前軽いけえな」
「フフ、逞しい方……」
雪代が柔らかく微笑む。男であればたちどころに魅了されてしまいそうなその笑貌。海原は夕日に目を眩ませて直視することはない。
「妹ちゃんとは会ったのか?」
「いえ、継音さんとはまだでございます。後でまた顔だけでも見せに行って参りますね」
「そうしてやってくれ。きっと寂しがってるだろうからな」
「そうでしょうか。あの子は強い子です。むしろ目障りなくらいなのではないでしょうか」
雪代が僅かに目を伏せる。長い睫毛がばさりとまぶたに触れる。
「案外そんな事ねえと思うけどな。あの子はただ、お前とどうやって接すればいいか分からないだけなんじゃないか」
「そう…でしょうか」
「まあ、俺が言うことじゃないか。悪い、忘れてくれ」
そう言ったきり海原はまた夕日を見つめた。隣に座る雪代の視線を感じるがもう語る事はないと言わんばかりに口を閉じる。
空は複雑に色を変えていく。黄昏時、夜でも昼でもない時間が続く。
その色はたとえ世界が終わろうが、続こうがなんら変わる事はない。
海原にはそれがまるで慰めのようにも思えた。
別に人間が大勢死のうとも終わるのはあくまで人間の世界だ。それ以外のものは何も変わらない。
空も海も大地も。朝も昼も夜も夕方も、世界自体の営みには何も影響はないんだと見せ付けられているかのような。
だからあんまり気にすんなよ。と誰かから言われているような気になって来た。
カラスが飛ばない夏の日の夕方。海原と雪代が2人。
夕日が山際に沈むまで、2人はその場に居座り続けた。
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