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悲劇の中で 雪代 継音の場合。

 私の家は古くから続く、少し変わった家らしい。


 本邸は古めかしいお屋敷のような場所。


 小学校に上がるまで家で着物で過ごす事は珍しい事なんだという事にも気付かなかった。


 お父さんは病院を経営していて、お母さんは弁護士さん。


 生まれた時から、不自由な想いをした事がない。


 周りの人達は私達がする事を咎めたりもしないし、怒られた事もない。


 ともすればロクな大人になる事が出来ない環境で生まれた私だったけどどうにかこうにか、お金持ちの家の子にありがちな勘違いをせずに大きくなる事が出来た。



 誰のおかげか。


 姉さんのおかげだ。


 私の姉さん、雪代 長音のおかげだった。



 私には姉さんがいる。


 雪のように真っ白な肌、濡れた鴉羽の艶やかな髪。大きな瞳に、小さなお顔。


 綺麗で、優しくて、それでいて格好良い。


 強くて美しい姉さんがいる。


 そんな姉さんにずっと憧れていた。大好きだった。一緒にいると心が暖かくなって、1人じゃないって思えた。


 姉さんと私と唯。


 三姉妹、周りの大人達は私たちを雪白の三姉妹って呼んで、持て囃してた。


 それでも姉さんはいつも言っていた。


 私達は特別でも優秀でもなんでもない。


 偶々、ただの偶然で雪代として生まれただけ。


 決してほかの人を見下したり、感謝の心を忘れてはならない。


 大人が教えてくれなかった事は全て姉さんが教えてくれた。


 姉さんはいつも正しく、美しく、かっこいい。


 私はそんな姉さんに憧れた。


 男でも女でも、あの人に惹かれる。その貌、その身体、その言葉、あの人を構成する全てのものが、人を引き寄せる。


 大きな火。まるで、羽虫を寄せる大きな火のように。



 あの人が望めば、おそらく多くの人たちが自分の大切なものを簡単に差し出すだろう。


 鬼に未たない力と書いて、魅力とは良く言ったものだ。



 凡人の私とは違う、優れたる存在。


 雪代継音は、雪代長音に魅せられていた。



 姉さんみたいになりたい。憧れは模倣を促す。


 姉さんがしていた勉強やトレーニングお稽古ごと、姉さんみたいに上手く出来なかったけど、全部真似した。



 真似して、真似して、真似し続けて。


 ようやく姉さんの後ろ姿が見え始めた頃。



 じゃあね、継音。



 姉さんは、家を出た。雪代の家を、捨てた。



 私達を捨てた。


 最後に見た姉さんの瞳は、氷付いているように冷たいものでいてーー



 ああ、私、きっと始めから姉さんに嫌われてたんだ。


 姉さんにとって、私も唯もその程度の存在でしかない、姉さんを引き止めれるような存在ではないんだ。


 その日から全てが変わった。


 私は笑わなくなった。代わりに末の妹の唯はよく笑うようになった。


 私は姉さんと唯の考えている事が分からなくなった。途端に彼女達が少し怖くなった。


 私は焦がれるほどに姉さんに憧れていた。姉さんのようになりたかった。



 でも姉さんにとって私はきっと、そう、割とどうでも良い存在だったのだろう。



 私は、その事がとても、とても、悲しかった。



 そうしてその悲しみに暮れているあいだに、気付いたら世界が終わってしまった。



 終わった世界で、私は姉さんと再会した。


 もう二度と、この縁を離さない。


 今度こそ。






 ーーて!


 うるさい。


 ーーきて!


 暖かい。


 きて! つぐーー


 だれ、だれ、だれ。


 私を呼ぶのは




 誰?




「起きて!! 継音さん!」


「っ…… い、ちひめ……?」


 雪代継音(ゆきしろつぐね)は焦点の合わない視界の中、聞き慣れた友人の声を聞いた。


 普段は穏やかさを湛えるその口調が今は焦りに染まっている。


 だんだんとぼやけた焦点が合ってくる。


 ああ、やっぱり一姫だ。継音は自分を見つめる春野のアーモンド型の目に溜まる涙を眺める。春野 一姫(はるの いちひめ)、継音の数少ない友人。


 自分とは違う、本当に優しい女の子。


 その優しい友人が今にも泣き出しそうな眼でこちらを見下ろす。


 ああ、今私、倒れてるんだ。ようやく継音は自分の状況を理解する。




 体に力を入れて、起き上がろうと。


「痛っ」


「ダメだよ! 継音さん! 今やっと治り始めめるんだから!」



 動けない。仰向けのまま身体が固まっている。


 起き上がれない。


 なにが、なにがあったんだっけ? 継音は霞のかかって頭を必死に回す。


 思い出す、確か、確かーー



 ーーなにも心配しなくていい。安心するんだ。継音君



 ーー君達を手に入れる。手荒な真似をしてでもね。


 ーー継音っ! 伏せて!



「っ!! 姉さんは!!」


 思い出すのはあの優しげな声。そして、その身体に纏っていた海原善人の死臭。


 それと一緒に戦った姉さんに庇われた記憶。


「だから、落ち着いて!! 継音! もう大丈夫、治してるから!!」



「姉さん、どこ?! 一姫! 姉さんは?! 」


 首は動く、継音は身をよじりながら辺りを見回す。


「だから落ち着いて! 継音! 大丈夫! お姉さんも生きてるから!」


 もがく継音の身体を春野が抱きしめて止める。


「えっ…… あ、ああ、思い出した……姉さん、私を庇って…… あ、ああああ!」


「大丈夫、大丈夫だよ、継音さん。私がいるから大丈夫。お姉さんももうすぐ目を覚ますからね」


「はあっ、はあっ、……ふ、ふう……」


 錯乱する継音を、春野が宥める。


 荒い呼吸が少しづつ、少しづつ落ち着いて行く。


 継音の頭に回された春野の手のひらからオレンジ色の光が灯る。


 それはじわじわと継音の身体に広がる。


 暖かい、一姫の心に触れているような。


 継音はしばらく目を瞑ってその心地よさに身体を任せた。


「……ごめん、一姫。ありがとう…… もう、大丈夫」


「……落ち着いた? いいの、継音さんが無事で本当に良かった」



 互いに見つめ合う。白衣を羽織った健康的な少女と、皺だらけの制服に身を包んだ華奢な少女が、ぼうっと教室に届く月明かりに照らされて。


「……えっと、ごめんなさい。一姫、介抱してくれてありがとう」


「ううん、大丈夫。ほら、そこにお姉さんも、長音さんもいるからね。今はただ眠ってるだけだから」


 継音は再び、ゆっくりと身体を動かす。春野に支えられながらようやく、上半身を起こす事が出来た。




 居た。すぐ近くに。姉さんが。



「……スウ……スウ」


「よかった…… 姉さん」


 継音は規則的に繰り返される長音の寝息に心底、胸を撫で下ろす。


 長い睫毛、整った鼻、桜色の唇。自分と良く似た、それでいて違う寝顔に目を奪われる。



 継音が、そっと、長音の額に手を伸ばす。


 恐る恐る伸びる、しなやかな指先、わずかに震える。



 すんでのところで、指先は止まる。しばらくの間逡巡するように。


 結局。継音はゆっくりと手を引っ込めた。



 雪代 継音が、雪代 長音に触れる事は無かった。




「……継音さんよりもお姉さんの方がダメージが大きかったの。……何が、あったの?」


 継音は春野の問いかけにすぐ答えることが出来ない。


 覚えているのは、凍りつくような怒りと、自分の能力が通用しない焦り。


 そして、樹原 勇気の一撃から自分を庇う、姉の後ろ姿だけだ。


 なんて説明する? 全て樹原の仕業だと言うのか?


 樹原 勇気。


 終わった世界において、能力がないにも関わらず外に出ることを志願した探索チームの数少ないメンバーの1人。


 そして、自分達の教師でもある男。基特高校の生徒、とりわけ自分の受持ちのクラスの生徒からは絶大な信頼を寄せられている人間だ。


 事実、継音自身も、長音に気付かされる瞬間まで、疑いもしていなかった。



 今でさえ、自分と姉を傷付けたのが樹原であると頭で理解しているはずなのに、まるで夢を見ているかのようだ。


 春野 一姫になんと説明すれば良いのだろうか?


 この子は私の事を信じてくれるのだろうか。


 継音はただ、単純に怖かった。


 友人がどちらを信じるのかが、分からない。


 そもそも、樹原 勇気の脅威に気づいたのは姉だ。


 雪代 長音の才覚が、妄執とも呼べるだろうとある男への感覚が気付いただけ。


 姉によって呼び起こされた雪代の血が、囁いただけだ。


 それをどうやって、この優しい子に説明すればいいのか。



 静かに口の中に溜まった唾を飲み込む。


 そして口を開いた。



「一姫」


 それでもこの子には、春野 一姫には説明しないと行けない。継音が友人の名を呼ぶ、その時だった。






「オオオ! ヨカッタのオオオ! お姫様の御友人がゴブジでエエエエ」


「アラアラ、ヨカッタワネエエ! お姫様の御友人がゴブジでエエエエ!」



 人あらざる声。継音が反射的にその声のした方へ力を放つ。


 空間から温度が奪われる。熱が消え、空気中の水分が凍りつく、真夏の夜に。



「ウッヒエエエ!! ヤメテオクレええ!! トシヨリをイジテンデエエ!」


「ヒヨエエエ、お助けエエ!」


 躱された。天井部分に逃げられた。


 継音が再び力を集中させようとした、その時。



「わわ! 待って! 待って! 継音さん! その子たちは違うの! 私たちの味方よ! 攻撃をやめて!」


 春野の声に反応し、継音は攻撃の準備を止める。


「……どういうこと?」


「えっと、私も詳しいことはわからないんだけど…… 金ちゃんと銀ちゃんが守ってくれたの。樹原……先生から」


「樹原……! 貴女も何かされたの!? 怪我は?!」


「だ、大丈夫だよ! 危ないところだったけど、見ての通り怪我なんてないよ!」


 春野の身体を継音は眺める。確かに服装こそわずかに乱れているものの、身体に傷は見られない。


「ヒョヒョ、姫さまのオオオオオ、御安全は我らガアアア、守るウウ」


「ヒヒヒヒ、我らが王とマスター、クジラのご命令ダカラノオオオ」



 いつのまにか近くの机の上に正座している灰色の小鬼が好き好きに話す。


「一姫…… これは?」


「んー、良くわかんないだけど…… でもこの子達が助けてくれたの。多分だけど、久次良さんの指示みたい」


「久次良さんの? 待って、でも彼はーー」


「ヒョヒョ、御友人ンンン。ユルシテオクレエ。我らがマスターは隠してオイデだったンジャ」


「ヒヒヒヒ、ソウヨオオ、クジラは隠してイタノヨオオオ。我らという牙ヲ」


「「キハラ ユウキのクビを狩る、この時のタメに」」



 良く似た、ともすれば瓜二つの灰色の小鬼の言葉が重なる。継音が目を凝らすと、銀色の眼窩、それぞれの瞳の黒目が歪んでいる事に気付く。


 目に刻まれたそれは継音にも見覚えのあるものだ。


「金と、銀?」


「うん、金ちゃんと銀ちゃん。凄く強いんだ。この教室に来るまでもなんども助けられちゃった、ありがと、金ちゃん、銀ちゃん」


 春野に微笑みかけられた灰色の小鬼が2匹で手を組んで踊り出す。よほど嬉しかったのだろうか。



「一姫、話して。何があったの?」


「……うん。私もまだ信じきれないのだけれど」


 継音と春野は静かに、言葉を交わす。



 お互いに樹原 勇気と対峙した事、行方不明の探索チーム、そのほとんどに樹原 勇気が関わっている事、今、探索チームの久次良 慶彦と樹原 勇気が戦っていること、そして。



「叔父さんも…… 海原さんも、みんな、死んだって…… 始末したって言ってた」


 春野の言葉が崩れる。鼻声、グズグズと啜り泣きのような。


 継音が身体を起こして、ゆっくりと自分よりも華奢な身体を抱き締めた。


「……大丈夫、一姫。大丈夫」


「うっ、うっ、グスッ、良かった、良かったよ、継音さんとお姉さんが無事で…… 怖かったの。この教室を開けたら2人とも倒れてたから…… 2人とも……2人まで死んじゃうんじゃないかって」


「大丈夫、一姫。貴女のおかげで私も姉さんも生きてるもの。誇ってよ、貴女の力は誰かを救う、とても優しい力なのだから」


 堰き止めていたものが崩壊するように、春野が泣き崩れる、雪代 継音は数少ない友人を出来る限り強く、それでいて優しく抱き締め続けた。



 ぽかりと浮かんだ月が、傷付いた少女達を照らす。その瞬間、その空間には嗚咽と、背中を摩る音だけが満ちる。


 終わった世界が、遺された人間に与えたほんの欠片ほどの休息。



 少年の力で招ばれ、護衛を命じられた灰色の青き生命は静かにそこに侍るのみ。



 そして、休息が呆気なく、終わる。












 オオオオオオオオオおオオオオオオオオオおおおおおおおおおおおおおおおん!!



 右オオオオオオオオオおおおおおおおおおおん。



 ギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャ。




 ビリビリと教室の窓が震える。台風が窓を打つかのように叫びが窓を震わせたのだ。



「今のは……?」


「ま、また…… 怪物の声だ」



「どう言う事、一姫」


 継音が春野に声を向ける。



「ごめんなさい。継音さん、私、もう行かなきゃ!! みんなが危ない! 警備チームのみんなを助けに行かないと」


 継音の腕の中から春野が抜け出し、立ち上がる。


 月の明かりが照らすその表情、涙の跡だけが、彼女の悲しみの印、それ以外はもう先ほどまでの弱気はどこにも探せない。


「一姫?」


「継音さん、無事でよかった。お姉さんもあともう少しで目を覚ますから。そしたら、この教室から出ないで」


「待って、一姫、説明をして。貴女、何をしようとしているの?」


 足早に立ち去ろうとする春野を継音が引き止める。



「……校舎の壁を、田井中くんが作ってたバリケードを、外の怪物が壊して、入り込んでるみたいなの」



 継音は目を見開く。


「へへ、ホントは継音さんには教えないでおこうって考えてたの。ほら、継音さん、責任感強いから、ぼろぼろでもなんとかしようって無理しちゃうと思うからさ」



「当たり前、それより、私もいく。そんな状況、見過ごせない。私がなんとかしないとーー」


「ダメだよ、継音さん。貴女がここから出たら、お姉さんはどうするの?」


 春野の優しい瞳に、継音の動きが止まる。


 規則的な寝息を繰り返す目を覚まさぬ姉を、視界に入れた。



「継音さん、貴女はここでお姉さんを守ってあげて。それは貴女にしか出来ない事だから。私は、私にしか出来ない事をしに行く」


 迷うように継音はなんども、なんども長音と春野を交互に見やる。


「ダメ、ダメよ、一姫。危ないわ。貴女には戦える力はない」


「あ! ヒッドーイ、シンジツとは時に残酷なんだよ、継音さん。……ししっ、でも大丈夫、頼りになるボディガードさんが2人もいるもん。ねっ、金さん、銀さん!」


「ホホホホホオオオ!! 眩いノオ、クジラと同じ、正しい事をしている人間の光じゃア」


「ヒョヒュヒョ、姫さまの命と心を守れ。それが我らがマスターの命令。金と銀がイノチにカケテお守りしますぞ」


 春野の足元に灰の小鬼が集う。


 春野がニヤリ、笑う。


「みんなが戦ってるの。戦えない人達の為にみんなが、友達が戦ってるの。……それをよォ、見過ごす事なんて出来るかよぉ。ふふっ、叔父さんの真似、あの人ならきっとそうするから」


 あ、ああ。


 眩しい。



 夜なのに。


 この世界を今照らすのは、月のあかりだけのはずなのに。


 継音にとって、春野の笑顔は夜明けと見まごうほどに眩しいものだった。



「じゃあ、行くね。またね、継音さん!」


「あっ…… 待って!!」


 継音は立ち上がり、手を伸ばす。


 伸ばした手は届かない。笑顔のままに春野 一姫が教室を去る。春野の後ろを守るように二体の小鬼が軽やかに飛び廻る。


 一瞬で、春野 一姫はこの場を去った。


 雪代 継音が追いつく事の出来ない速度で。



 ひとりぼっち、いや目を覚まさぬ姉と2人きりの教室で、継音はその場に座り込む。


 窓を震わせる怪物の叫びは止まらない。それどころかどんどん大きく、増えていく。



 まるで、()()()()()()()


「ダメ、ダメだ。一姫、危険すぎる…… これは普通じゃない」


 継音は理解していた。この夜、この事態、ただ事ではない。


 何が大きな動きに呑まれて、巻き込まれていくような。



 雪代の血、古い血がもたらす五感以外の感覚が警鐘を鳴らし続ける。


 それは死の予感。自らだけではなく、周りの多くの人間全てにもたらされる予感が、身体中の毛穴を開けていく。



 どうすれば、いい。


 どうすれば。


「ダメだ、このまま一姫を、1人にしてはいけない…… ダメだ」


 ふらり、ふらりと継音が教室の出口に向けて歩き出す。春野の残穢を追うように、しかし、すぐに足を止める。



「スウ、……スウ」


 眠る姉。その続く寝息を聞く。



 置いていくのか? 意識のない姉を、化け物の侵入した校内に?



「出来るわけが、ない、そんな事出来るわけがない」


 継音はすぐさま、眠る姉の方へ戻る。フラフラ、フラフラ。その様は振り子のようでいて。


「姉さん…… お願い、目を覚まして……」


 継音が眠り続ける長音へ語りかける。


 静かに、しかし力強く、言葉をかけ続ける。


「姉さん、姉さん、姉さん。ここは危ない。起きて安全な場所へ行かないと。私は姉さんを()()()()()()()()()()



 遠くから化け物の叫びが聞こえる。どんどん近付いて来る。


 時たまに聞こえる妙な叫びを聞いた途端に、身体中に鳥肌が立った。


 頭で理解する前に、身体は理解した。


「今の……」


 人間の叫び声、悲鳴だ。


 化け物の叫びよりも大きく、鮮明に、残酷に聞こえた。



 だれかが、襲われている。だれかが、叫んでいる。


 この基特高校の中で、だれかが、助けを呼んでいる。


 死にたくない、そう聞こえた。



「私は、私は、私は…… 姉さん、私、どうしたらいいの? 貴女を置いて行くことなんて出来ない…… でも、すぐに行かないと、一姫が、危ない」


 長音に話しかけ続ける、返事はない。



「選べない、選べないよ、姉さん。貴女も一姫も……みんなも…… 私は風紀委員なのに、あの人の、あの人達のリーダーなのに、何も、選べない……」


 無力感が、継音の身体を押しとどめる。


 一姫は、あの優しい子は選んだのだ。


 皆の助けになる為に、危険へ飛び込んで行く事を。


 あの子の力は、戦う為の力じゃない。何かを傷付ける力でも、自分の身を守る事の出来る力でもないのに。


 それでもあの子は選択した。


 ーー叔父さんなら、きっとそうするから。


 春野 一姫の言葉が、継音の意識に残る。


 叔父さんなら、鮫島 竜樹ならどうするか。


 継音は、目を瞑る。あの目つきの悪い年上の男を思い出す。


 ああ、間違いない、間違いなく、ぼやきながら、悪態をつきながら、きっと、自分に助ける力もないのに、行くはずだ。


 考えるまでもない。


「それで、きっと、当たり前のように海原さんや、久次良さんが鮫島さんについていくんだ。お互い、軽口叩き合いながら…… 怖くても、貴方達は、行くんだ」


 かっこういいなあ。貴方達は。


 私とは違う。私は、選べない、姉さんを喪うのが怖い、ここで姉さんを置いて行って、また喪うのが怖い。


 せっかく紡いだ縁を、再び近付けたあの声から離れる事が出来ない。



「……ごめん、なさい…… ごめんなさい、鮫島さん… 海原さん、久次良さん。私、こんなに弱いのに…… 私……」



 恐怖が、継音の身体をがんじがらめに縛り付ける。


 あんなにカッコいい大人達が、リーダーと呼んでくれたのに。


 自分よりも弱い春野 一姫が、大切なものを喪ってもまだ、前を向いて進んでいるのに。


「私は、進めない…… ついて行く事が出来ない」


 奇しくも、数年前。同じ台詞を呟いた少年がいた。継音はそれを知る由もない。



 雪代 継音がその場にうずくまり、小さく啜り哭く。


 情けなくてしょうがなかった。出来る事を、自分に出来る事すら出来ない、やらないその性根が情けなく、どうしようもなく悲しかった。


 雪代 継音は、悲劇の中に居た。


 それは別離、それは喪失。


 失いたくないと強く願うが故に、結局最後に全てを失う。


 悲劇の中にて、雪代 継音は歩みを止める。


 頭を垂れてーー











 とんっ。


「えっ?」


 すすり泣きながら頭を垂れかけた継音が急に体制を崩した。


 驚きの声、まるで、後ろから優しく背中を押されたような。


「……姉さん?」


 とんっ。


 返事の代わりとばかりに、再び、背中を押される。態勢が崩れるほどではない、優しく諭されているかのような。


 とんっ、とんっ。


 継音の目線の先には、教室の出口がある。


 先に進んだ友人、春野 一姫が開けっ放しで飛び出た出口が。



 とんっ、とんっ、とんっ。


 見えない力が、継音の背中を押し続ける。


 行け、行け、追いかけろ。そう言わんばかりに継音を外へ外へと押し出していく。


「待って、待って! 姉さん、ダメ、今貴女を1人にしたら、またーー」


 ーーさようなら、継音。


 あの時、家を出て行く姉の表情がフラッシュバックする。また、また別れる事になる、今、この教室を出れば、また。


 とん、それでも優しく、確実に背を押され続ける。



 言葉はなくとも、そこには意思があった。


「行けっていうのね…… 姉さん」


 先に進め、恐怖が足を止めたなら、再び歩き出せ。


「何よ…… こんなことするぐらいなら目を覚ましてよ…… バカ……」


 継音が、ゆっくりと悪態をつきながらも、立ち上がる。


 ーー雪代 長音と仲良くしてくれ


 海原 善人に言われた言葉がなぜか、思い出される。



「うるさい、貴方なんかに言われなくても私たちは仲が良い…… 姉さんはこんなにも、私の事を思ってくれているもの」




 とんっ。


 見えない力が継音を押し続ける。倒れそうになる身体を、止まりそうになる足を、前へ、前へ。



 基特高校、生徒会、風紀係。雪代 継音が向かうべき場所へと促すように。



 進め、進め、進め。



 あの日、姉が家を出て行った日の記憶が蘇る。



 ーーさようなら、継音。


 離別の言葉。あの冷たい目、冷たい声。それに押されてその次の言葉を忘れていた。



「また、会える……」



 ーーやるべき事をやりなさい。その先できっと、また会えるわ


 思い出す、あの日最後に届いた姉からの言葉を。


 あれは一方的な離別の言葉ではなかった。


 再会する為の約束の言葉。


「やるべき事を、やる…… 為すべき事を為すだけ」



 歩みが始まる。


 雪代 継音がふらつきながらも立ち上がり進み始める。



 一度、振り向く。姉の寝姿を。地べたに仰向け、豊満な胸が上下しているのは見て、息を吐いた。



「……わかったよ、姉さん」



 雪代 継音が、その血に刻まれた呪縛を振り切る。


 より完成され、オリジナルに最も近い雪代 長音のバックアップ。


 血の呪いに刻まれた、雪代としての役割を投げ捨てる。


「私は、一姫を助けたい。高校のみんなを助けたい」


 バックアップ、長音の影を追いかけ続ける無意識のループを振り切る。


 雪代 継音は、雪代 継音として歩み始めた。



 教室の扉をくぐり、勢いよくドアを閉める。


「誰も貴女を傷付けないように、誰も貴女に触れないように」


 ビシ、ピシ。


 ドアが、教室の出入り口が凍り付く。まもるものの居ない姉を、せめて己の冷たい力が守ってくれるようにと祈りをこめた。



「行ってくるね、姉さん。また……」



 化け物の咆哮が響く校内を雪代 継音が進み始める。


 悲劇の中、継音は走り始めた。


 自分のやりたい事を、自分として行う為に。


 また一際、大きな咆哮が身体中の毛穴を拡げていった。





読んで頂きありがとうございます!


宜しければ是非ブクマして続きをご覧下さい!

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