悲劇の中で 久次良 慶彦の場合
「キミの成長を嬉しく思う。だがそれは結果的にキミの寿命を縮めただけだ」
頭が浮いているようだ。
久次良は月を見上げながら、ポツリ、ポツリと降りかかってくる声を聴く。
「面白い能力だった。これは単純に灰ゴブリンを使役するだけの能力ではないね。もっと、規模の大きなモノに干渉する能力だ」
樹原の声。昔、教室で聞いていた時と同じ穏やかなそよ風のように届く声。
「彼女のチカラでも再現出来ない怪物種がいくつかある。灰ゴブリンもその1つだ。キミの能力は、もしかすると彼女にも何か関係があるのかもしれないね」
彼女……? なんのことを、誰のことを言っている?
気になる言葉も久次良はもう深く考えることが出来ない。
足音が聞こえる。それは久次良にとって死のカウントダウン。
距離が縮まる、縮まればーー
「ぐっ、み、みんな……」
「無理に起き上がらない方が良い。肩とはいえ血管をたくさん抉っている。キミはあまり身体が頑丈なほうでないだろう?」
激痛が昇る、それに耐え身体を起こす。誰がお前の言う事など聞くものかと奮起しながら。
痛みに霞む視界の中映るのは、己と縁を紡いだ誇り高き一族の惨状。
散らばる骸、砕かれた鉈、一瞬で。
「キミの能力は素晴らしい。だがそれまでのものだ。勝ったのは僕だ、久次良君」
「あ、あ、あああ……」
久次良はその光景を見た。あまりの恐怖に吐息とともに声が間抜けに漏れ出る。
樹原のその姿が月の明かりに照らされていた
。
人間じゃあない。
ゆらゆらと揺蕩う、タコの触手を鋭くしたような器官が腕から生えている。
肌の露出しているところは所々におよそ人間には持ち得ぬだろう外骨格、甲殻が浮き出る。
その眼だけは変わらない。水底のような見ていると吸い込まれそうになる眼。
「……ば、化け物め」
「あはは、酷いなあ。普通の人間からすればキミも充分に化け物だよ、久次良君」
身体を起こし、肩で息をする久次良。右肩が上がらない。
ああ、やはり。
久次良は己の負傷を認識した。
「この触手の本来の持ち主、グモン蛸はね、水中と陸上の両方で狩りをするそうなんだ。粘液には血小板の活動を阻害する効果があるから、その傷は治らないよ、久次良君」
「……知らなかったな…… アンタが生物の先生だった事は」
「あはは、久次良君。本当に彼等とよく似てきたね。その目、その言い草。懐かしいな、今となっては」
触手が、再び閃く。
音もなく、久次良の右脚、靴を貫き足の甲に突き刺さる。
冗談のように血がまた漏れ出る。
「うっ、グっ。あ、あああああアァ」
「だから、こんな目に遭うんだ。キミがキミのまま成長なんてしなければ、この痛みも味合う必要はなかった」
痛みにもがく久次良に対し、樹原の声が淡々と降りかかる。
「人の成長とは、己の過去と向き合いそれを乗り越える事にある。キミは確かに今日、過去を乗り越えた」
もう一度、同じ場所に同じ傷口に触手が刺さる。ただ、ただ、痛みを与える、それだけのために。
「あ、ぎゃっ?! ……あ!」
「だが過去を乗り越えた先にあるのは終わりだ。痛みだ。キミの成長した先にあるのは、死だ。ああ、可哀想な久次良君、キミは成長なんてするべきじゃあなかったんだ」
ぐち、ぐち。傷口を抉られる痛みが脳天に駆け巡る。久次良は、呼吸のやり方すら忘れそうな痛みの中にあった。
「キミにとっての悲劇は、あの2人と出会った事自体だ。何も知らなければ良かった、何も目指さなければ良かった。キミがキミのままいる事を選んでさえいれば、こんな事にはならなかったんだよ、久次良君」
樹原がゆっくりと両手を開く。月夜を仰ぎ久次良を見下ろした。
「キミはこれから死ぬ。ただ死ぬだけじゃあない。僕が考え得る限りの苦痛を味わいながら、生まれた事すら後悔する程の苦しみの中で死んでいく」
殺す為の傷ではなく、苦しめる為の傷。同じ所に何度も、何度も。久次良の短い悲鳴が何度も、何度も。
樹原は顔色1つ変えずに作業的にそれを繰り返した。
「このまま、このままコレを続ける。キミが命乞いをしようと何をしようとキミが衰弱死するまで続ける。誰も助けには来ない」
「か、あ、ギャッ?!」
右肩の大きな傷口に触手が突き刺さる。肉の中の骨を舐めるように繰り出されるその一撃。
「痛いだろう、苦しいだろう。それがキミの死、キミの終わり。ここで独りで死んでいくのがキミの成長の結末」
悲鳴の中、樹原の声だけははっきりと響く。言い聞かせるようなその声色はどこまでも優しい。
ズン、チュ。
決して急所は狙わない。既に空いた傷口や大きな血管を避けて久次良の身体を触手で抉り、削いでいく。
久次良がその場から立ち上がり逃げようとする。しかし、足を触手で絡め取られ、また刺される。
「あっ、グ、ぎゃあああ、あああああ?!」
月に悲鳴が塗りたくられる。
ただ、ただ、久次良は苦しめられ、傷付けられる。
すぐには死なない程度の傷をずっと、ずっと。
「だが1つだけ、キミがこの苦しみから逃れる方法がある。久次良君、それをキミに教えよう」
「ぐ、あ……うう」
うつ伏せに倒れる久次良へ向かい樹原が声を向ける。
「間違いだったと認めるんだ。僕に立ち向かった事自体が間違いだったと。海原や鮫島に付いた事が自分の過ちだったと認める。ただそれだけでいい」
嗜虐の手を止め、代わりに差し出したのは屈服を求める取引だ。
「それだけでキミはもう苦しむ必要はない。約束するよ、キミを痛めつけはしない」
「あ、ああ…… 本当に? 本当に、見逃してくれるんです……か?」
うめき混じりの久次良の返事を聞き、樹原は緩く笑う。
「ああ、そうだね。考えるとも。キミがきちんと言葉に出してくれさえすればね」
「あ、ああ…… ああ」
うつ伏せになったままの久次良を樹原は眺める。
動きやすい灰色のジャージはところどころが裂けて、赤く血が滲む。
無傷な所など1つもない満身創痍。樹原には久次良の今の気持ちが手に取るように分かる。
人は苦痛から逃れる生き物だ。理念も決意も覚悟も、苦痛の前では薄ら寒いハリボテに過ぎない。
「さあ、答えて。久次良君。キミ自身の言葉で、口に出すんだ。楽になるために。」
優越感、樹原は今、久次良という存在をそのまま掌に乗せているような感覚を得ていた。
己の胸先三寸で他者の生死を決めることが出来る。生命としての優越感。
その答えを、決まりきっている答えを樹原は待った。
「さあ、久次良君ーー」
樹原が言葉を、同時に久次良がうつ伏せから顔を上げる。
「っーー!!」
息を呑んだのは樹原だった。喉を鳴らしたのも樹原で、瞬時に口の中に湧いた唾を嚥下したのも樹原。
眼。
その眼はーー
樹原は満身創痍の久次良と眼を合わせた瞬間、ほんの一瞬、動きを止めた。
その眼を知っている。その眼をする人間を知っている。
感情の無い、それでいて賢く、残酷な肉食の水生生物にじっと眺められているような不気味な眼、それは鮫島竜樹の眼だ。
仄暗い水の底、夜の海底から見つめられているような得体の知れない眼、それは海原 善人の眼だ。
あの2人、樹原が始末したはずの2人の敵。
その敵と同じ眼で、久次良慶彦が己を見つめていた。
そのことに、樹原は動きを止めた。完全に一瞬ではあるが、樹原勇気は動揺した。
殺した筈の人間が、目の前に現れたような。
「王様」
死臭、甘い血の匂いが濃くなる。
骸の山が、灰ゴブリンの積み重なった骸が膨らみ、弾けた。
同胞の骸の中、息を潜めてその機を待っていた牙が、月夜を裂く。
「おオオオオオオオオオオ!!!」
「な、にっ?!」
振り向き、迎撃。
奈落の力が自動的に、牙を防がんとーー
「遅いよ、樹原」
ずぷん。
触手を、灰色の牙が掻い潜る。身体を回転させ、その力を凝縮した鉈の一撃が樹原の肉を、骨を絶った。
「あ? れ」
くるくる、くるくる。ぼしゃ。
間抜けな音を立てて、斬り飛ばされたそれが地面に堕ちる。
腕、右腕。
触手ごと、王の一撃は樹原から腕を奪い取った。
樹原がたたらを踏み、よろめく。そのままバランスを崩し、仰向けに倒れた。
「同盟者!! 」
王の小鬼、灰ゴブリンがそのまま倒れ伏す久次良を抱えて、その場から離れ、樹原から距離を取った。
「……王様、最高のタイミングだったよ。作戦通りだ」
「……貴殿の、己の身を呈したその胆力と勇気のお陰だ。我は始めて、我らの部族以外の存在に敬意を抱いたぞ」
久次良をフェンスに寄りかからせながら灰ゴブリンが語る。
久次良はその言葉に小さく頷き、眼前を見据えた。
狙い通り。
樹原の性格、欠点を知る久次良だからこそ成し得た一撃だった。
「あれ、あれ?……」
叫ぶわけでもなく、片腕を斬り飛ばされた樹原はただ、小さく呟いていた。
「済まない、首を狙ったのだが器用に躱された。次は、仕留める」
「うん、王様、やろう。全て片付けよう」
王の灰ゴブリンの獣性が久次良に、久次良の覚悟が灰ゴブリンに。
互いが結んだ契約が、互いを強く結び付ける。
灰ゴブリンの後悔は久次良のものだ。
久次良の後悔は灰ゴブリンのものだ。
仄暗い感情が共鳴する、今ここに、久次良の才能は完成した。
樹原という大敵によってもたらされた死の実感が生存本能を刺激し、新たなる進化の呼び水となる。
「同盟者よ、傷を見せろ…… ふむ、酷いな」
灰ゴブリンが腰蓑に下げたポーチから緑色の藻のようなものを取り出す。短い手指で器用に取り出した藻を久次良の傷口に塗りたくる。
「……ありがとう、王様。でもこれ匂い凄いけど大丈夫?」
「大丈夫だ。本当なら母様や、クルメクが得意なのだがな」
両者がふっと笑う。顔の作りや身体の作りは違う生命なれど、互いに笑っている事がわかる。
「あー、見事だ、見事だよ、久次良君、今のは驚いた」
のんべんだらり。樹原の声が唐突に。
己の腕から噴き出した血溜まりの中で仰向けの樹原が声を上げる。
「トドメを刺してやる、似姿め。今度こそ、そのクビに我が鉈の刃を食い込ませてやる」
「待って、王様、何か変だ」
勇んで突撃体勢を取る灰ゴブリンを、久次良が引き止める。
片腕を斬り飛ばした、普通の人間ならば致命傷、出血によるショック死すら狙える攻撃。
だが、久次良は知っている。
相手はあの、樹原勇気だ。普通の人間ではない。
「あはは、あはは、あはは。痛い、なあ。まさかキミにここまで追い詰められるとはね。素晴らしいよ、久次良君」
ひょこり、よろめきながらも隻腕の樹原が血溜まりの中立ち上がる。
その様子を見た久次良は眉間に皺を寄せた。既に出血が止まっている。
「色々考えていたんだ。この場所、基特高校に相応しい終わりを、悲劇を」
片腕を無くしているというのに、樹原は既にそのことについてなんとも感じていないように見える。
淡々とした言葉が続く。
「夏山のように、1人1人殺していく恐怖による悲劇も考えた。でもそれじゃあ勿体ない。ここ、基特高校には一種の希望がある、それはキミたちのような特別な才能を持つ人間達だ、基特高校にはキミたちのような希望がある」
久次良はその言葉を聞く。隙だらけのはずなのにその不気味さに動けない。
「キミ達は、残された人々に希望をもたらす。避難所に籠る無力な人々の生きる理由にすらなり得る」
片腕を無くしているのに、もうなんの動揺も見えない。
「そこで僕は考えた。その希望を全て押し流してやろうと。終わった世界の中でも生きていける、そんな光を消してやろうと。久次良君、キミは光だ。とても強い、受け継がれた光」
樹原を月明かりが照らす。周りに散らばる樹原から生まれた生命の骸、灰ゴブリン達の骸の中1人立つ。
「あの目障りな2人から、キミは何かを受け継いでいる。ああ、認めよう、キミは試練だ。キミという存在は僕にとっての試練、乗り越えるべき試練だ。試練は殺す、必ずね」
「……アンタがもう何かを乗り越えたりすることはない、ここで終わりだ」
「あはは、それはキミの決めることじゃない。幕間劇を閉じよう、キミという試練に敬意を。遊び無しで始めるとしよう」
久次良の言葉に、樹原が答える。
隻腕、負傷、攻め時には間違いない。灰ゴブリンに塗られた藻のおかげで身体の痛みは薄れている。
ならばーー
久次良が灰ゴブリンへ力を込めようと。
「悲劇を、始めよう」
樹原の穏やかな声が、月夜に溶けた。
そして、
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
月に、吼える。
真上を向き、解き放たれた咆哮が夏の夜を砕く。
ぶわり。久次良の全身に鳥肌が立つ。
人間の、いやこの世のものとは思えない異様な音。
それは眼前の男、樹原から噴き出した叫びだった。
「何を……」
久次良が怖気を感じつつ、声を漏らした。
「……まずい、同盟者、これはまずいぞ」
灰ゴブリンの押し殺した声に久次良が意識を向けた時、同時に
オオオオオオン、オオオオオオオオオオン、おおおおおおおおおおおおおおおん。
らああおおおおおおおおおおお、、オオオオオオオオオオン、フラ青オオオオオオオオオオン。
ヘエエエエエエエエエエエ、陽オオオオオオオオオオン。
「これ、まさか……」
「まずい、まずいぞ、同盟者、すぐに、飛車と角、せめて金と銀を戻さねば、対抗出来ない……」
外、外から樹原の叫びに呼応するかのように、咆哮が轟く。
それは終わった世界の中、夜のヒロシマ市内を震わせる。
廃墟の中から、崩れた道路から、ありとあらゆる場所からやまびこのように声が。
基特高校の外から、その咆哮は轟いた。
「あはは、終わった世界、アポカリプスを迎えたこの世界の支配者はキミ達ではない。彼らだ。子守君の障壁が無い今、キミ達が頑張るしかないね、これは」
「樹原…… アンタ、まさか」
「あはは、その通り。これこそ僕の求める悲劇、さあ、久次良慶彦、小規模ではあるが、もう一度あの夜を始めよう。ぼくたちの世界が、終わったあの夜、怪物達の夜を」
おおおおおおおおおおおおおおおおおん、
ウオオオオオオオオオオン。
基特高校の外、終わった世界、怪物達の世界が揺れる。
その声は次第におおきく、おおきく。
「不思議に思わなかったかい? 何故、子守君の障壁がない今、怪物達の襲撃がなかったのか? いや、子守君の障壁があったとしても基特高校が何故、まだ人のコミュニティとして機能できていたか」
「……」
久次良の沈黙を薄い笑みで受け止め、樹原が言葉を続ける。
「この基特高校には怪物達でさえ恐る力が3つあった。キミも知っているだろう? 生徒会長、東雲仁と警備チームリーダーの田井中誠。彼ら2人の才能は、怪物達をすら寄せ付けない凄まじいものだったんだ」
だが、この僕が始末したんだ、2人とも。小さく樹原が呟いた。
「縄張りだよ、獣がより強い獣の縄張りを避けるように、怪物達はこの場所を避けていたんだ。でももう今は、彼らは無く、そして最後の、3つ目の縄張りを維持していた力が許可を出した」
「許可……だと?」
「ああ、そうさ。縄張りを維持していた最後の1人はこの僕自身、正確に言うのなら僕の中に宿る彼女の力だ、その僕は今、彼らにメッセージを届けた」
月夜に雄叫びがこだまする。嵐の夜の風音のように温い風に叫びが溶けた。
「号令だ。ここには極上の餌がある。存分に狩り、殺し、喰らい尽くせ……」
オオオオオオオおおおおおおおおおおおおおおおん。
があああん。
「今のはっ……?!」
「ああ、もう第一陣が来たみたいだね。あはは、彼等もずっと狙ってたのだろうね」
一際大きな、いや近い咆哮の後、何かが砕けるような音が久次良のいる屋上にまで届いた。
「あはは、校門がもう破られたみたいだね。警備チームの子達はもう気付いている事だろう。体育館の避難民はパニックになる頃かな? あはは、面白くなって来た」
「アンタが、怪物を呼び寄せたのか!」
「あはは、どうする、久次良くん。まだまだ沢山の怪物達がこの基特高校目掛けて殺到しようとしている。無力な人々を守る為に一体何人の生徒達が死ぬのだろうね」
なんて事のないように樹原が呟く、片腕を失ったそのシルエットは現実感のかけたオブジェのような。
「キミ達はこれから、守る事の難しさ、無力な人間の傲慢さを知る事になる。人の本来の姿は本当に追い詰められた時にしか見えないからね」
「樹原…… アンタは何がしたい、何のためにこんな事を」
「あはは、キミに理解してもらえるとは思っていないよ、今更ね。それよりもいいのかい、久次良くん。キミの能力ならこの事態に協力出来るんじゃあないか? 校内に力を張り巡らせて、少しでも多くの人を救えるのじゃあないのかな」
樹原の諭すような声、その通りだ。久次良の力を使えば、 灰ゴブリン達をすぐにでも体育館へ向かわせれば、怪物達が押し寄せたとしても守り切る事が出来るかも知れない、だがーー
「同盟者、それではコイツを逃してしまう…… 我らの力を集結させねば時間稼ぎすら出来ないぞ!」
王のゴブリンが久次良に対し具申する、それもまた事実。能力のリソースには限界がある。
捜索と護衛と戦闘、今でさえ久次良の能力は3つの用途にそのリソースが分かたれている状態だ。
これ以上、力を分散させてしまえば樹原に対抗出来なくなるのは当然だった。
「さあ、どうする、久次良慶彦。キミは何を捨てる? 己か、人々か。キミは何を選ぶんだい?」
薄くどこまでも穏やかに樹原が笑う。在りし日に教壇で浮かべていた笑顔とまったく変わらず、生徒達に囲まれ浮かべていた笑顔とまったく変わらずに。
「……がって……」
「ん? すまない、良く聴こえないな。ゆっくりでいいよ、久次良君」
久次良の絞り出すような声に樹原が反応ーー
「舐めやがって、舐めやがって! 舐めやがってよぉ!」
響いたその怒声は一瞬、周囲に響く怪物の咆哮を上書きした。
「どこまでも舐め腐りやがってよお! クソ野郎がぁ! 選ぶだと? 捨てるだとぉ?! もう、僕はよぉ、とっくの昔に選んでんだよ、クソがぁ!」
おとなしめの口調を捨て、久次良が声を荒げる。身体の傷を気にせず、フェンスを掴みながら立ち上がり、樹原に吠えた。
「僕がここに立つと、アンタに背くと決めた時からよぉ! これまで、どれだけ捨てて来たと思ってやがる!? 夏山に子守さんや多喜さんが殺された時もよお、選んだんだ! 春野さんだけを選んで、助けた!」
指を指す、同時に久次良の足元に侍る灰色の小鬼、王が呼応するかのように鉈を構えた。
「何を捨てるか、選ぶかだってぇ?! 決まってんだよ、んな事はよお! 樹原ァ! てめえだ! 僕の選択はてめえとの決着だけだぁ! 能力は、解除しない! 校内には広げない! ここだ、ここで使う!」
ず、ず、ず、ズズズ。
叫ぶ久次良の身体から、何かが這い出る。空気のようでいて、水のようでもある何か。決して可視化出来ずともそれは確かに、ここにある。
「樹原ァ、勝負だァ。僕はここで決着を付ける、僕はもう、選んでる。例え誰を見捨てようとも、お前だけはここで殺す!」
久次良から漏れ出たナニカは、物言わぬ灰ゴブリンの骸達へ流れ込んで行く。
「おお、おお、おお! 同盟者よ、それでこそ、黄泉路の光、我らが部族の同盟者!! おきろ、皆! 狩りを全うしようぞ!!」
ぬろぬろ、骸が起き上がる。樹原に裂かれた灰ゴブリンの骸が、黄泉ガエル。
「へへへへへ、ホホホホホホホホホ 、アッハあああああ!!」
「アー、死ンダ、死ンダ、ぶっ殺スゾオオオオ!」
口々に騒ぎながら再び、王の部族の影が生まれる。それはもう二度と戻らぬ、彼の郷愁。
久次良の力と王の悔恨が産んだ幻影の生命。
彼らが再び力を集める。
「驚いた、いやまったくキミには驚かされてばかりだ。久次良君。わかったよ、キミは人々を見捨て、己の私欲に走る訳だ。うん、それもまた人の道だろうね」
「てめえみてえな化け物がよお、人間の道を説いてんじゃねえよ、クソ野郎がよお」
「……あはは。その話し方、その眼、その威勢。彼らが乗り移ったようだ。はっきり言おう、僕はキミが恐ろしい。始末したはずの大敵が再び蘇ったようなたちの悪い冗談を目の当たりにしている気分だ」
蘇った灰ゴブリンの群れに後方を、久次良と王のゴブリンに前方を挟まれた状態で、まだ樹原は口調を崩さない。
「人は死ねば全てそこで終わりだ。遺志を受け継ぐなど、そんな言葉は子供だましのただの戯言。キミのような存在が、居ていいはずがない。彼らの遺志を継ぐなどそんな事があって良いはずがない…… だがもしーー」
月夜、夏の夜、台風の風音ではなく、化け物の咆哮が遠く響く夜の中、かつての師弟が語り合う。
「もしも、キミが海原と鮫島の遺志を受け継いでいるのだとしたなら、僕は僕の全身全霊でキミを滅ぼす。キミを滅ぼす事で、今度こそ完全に、海原と鮫島という敵を消し去る」
膨れる、樹原の中に押し込められた歪な力、仮初めの生命が沸き立つ。
「……同盟者、我らは死力を賭けてアレと戦う。だが生き残る保証はない、約束してくれ、我が死んだ瞬間に、外に出している飛車、角を必ず呼び戻すことを。貴殿は生き延びなければならない」
樹原の圧に、その筋肉を膨らましながら王のゴブリンが声を絞り出す。
「……わかった、王様。でも、でももうしばらく辛抱しておくれ。捜索はギリギリまでーー」
「ゴ報告! ゴ報告! ゴ報告ウウウウウウウウウ!!!」
久次良の言葉を遮るのは、蘇った灰ゴブリン達の奇声。10はくだらぬ戦士が一斉に同じことを叫んだ。
「角、飛、我ラ、役割ヲ果タシタリ!! ゴ報告! ゴ報告! イザナギ、オルフェウス! 死出ノ旅路の帰還者と合流セリイイイイイイイ!! クリカエス!! イザナギ、オルフェウスウウウウウウウウウ!!」
「っ、同盟者! これは!!」
王のゴブリンがはっきり高揚し、久次良に声をかけた。
「っ、アハッ、アハハ! やっぱり、やっぱりだ! よっしゃあああああ!!! 勝った、賭けに勝った!! そうだよ、死ぬわけがない! 帰ってこない訳がない!」
「角、飛、我だ! 火急! 疾く帰れ! 同盟者の危機だ! 我らの力を全て集結する!」
途端にはしゃぎ出す久次良と王のゴブリン。奇声を上げて了解の意を伝えるゴブリンの群れ。
樹原はわずかに首を傾げた。
「……何を言っているんだ、キミ達は。状況が理解出来ていないのか?」
「アハハ、誰がお前に教えるものか。僕は賭けた、たった1つの可能性に。僕は賭けただけだ」
久次良が笑う、もうその顔には絶望の色は無く、悲劇の中にて久次良は笑う。
「ラウンド2だ、樹原ァ。悪いけどよお、死ぬ気で時間を稼がせてもらうよ。アンタはそれで終わりだァ」
「ふむ、訳が分からないな。久次良 慶彦、キミにはもう勝ち目などないのに」
「ああ、それで良い。僕に勝ち目がなくてももう問題ない。あの人達が、あの人がタダで帰ってくる訳がないからなぁ。覚悟しとくんだなぁ、樹原ァ」
「……可哀想に、恐怖は時に頭をしぼませるからね。おやすみ、久次良君」
「言ってろよぉ、変態野郎がよお」
灰ゴブリンが、一斉に飛びかかる、。王のゴブリンが地を駆ける。
樹原との殺し合いが再開する。
久次良の勝利条件はただ1つ。始めからたった1つだけだった。
悲劇の中にて前を向く、すなわち諦めない。
久次良は数多のモノを失って、失って、喪って、ようやくここにたどり着いた。
〜同時刻、久次良が笑い出す1分前〜
〜ヒロシマ市中区、中央ストリート、地下出入り口付近にて〜
「見ツケタアアアア、ミツケタああおあああ!! イザナギイイイイ!! オルフェウスウウウウウウウウウ!」
「……うっわ、なんだこの化け物。襲って来ねえくせにまだ騒ぎ立ててる。どうする、オッさん」
少年が1人、己の力で溶かした金属の紐でぐるぐる巻きにして捕まえた2匹の小人を見下ろし呟く。
「あー、もしかしなくてもソイツ、日本語話してるよな。なんか普通の化け物とは違うよーな…… どう思う、マルス」
"ポジティブ ヨキヒト。眼前の怪物種から不可思議な反応があります。ブルー因子が……安定していない? これは…… まるで"
少年に話しかけられた青年が首を傾げながら独り言をつぶやく。
その独り言は彼にしか聞こえない返事を持って受け入れられる。青年の中に巣食う遠き世界の生命に。
「ゴ報告!! ゴ報告ウウウウウウウウウ!! 海の香りヲミツケタアアア!! クジラ、クジラアア ウミヲミツケタアアアアア!! イザナギい、オルフェウスウウウウ」
交互に叫ばれる奇声。
それを聞いた青年、奈落からの帰還者、海原善人が目を丸くする。
その奇声のなか、聞き慣れた名前がーー
合流、久次良の執念は、久次良の賭けは的中していた。
悲劇の中にて、それを掴んでいた。
悲劇を殺す最高の刃を。
久次良は知っていた。今ここに、己の最も信頼する仲間の1人が帰った事を。心強い仲間と素晴らしい成長を果たし帰ってくる事を。
樹原は知らない、今ここに、己の忌むべき天敵が考え得る限り、最悪の成長を果たし帰還したことを。それが己を殺しにやってくる事を。まだ、知らない。
進む、悲劇。繰り返されるあの夜。
その中でようやく、海原と田井中は地上への帰還を果たしていた。
悲劇の中で、彼らが為す事はもう、決まっていた。
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