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VS雪代

 

「がっ…… あっ?!」


「ねえ、樹原先生、答えてよ」


 何が、起きた?


 樹原はその場から尻餅をつきながら机を押しのけて退がる。


 月明かりに、照らされた雪代がゆっくりと立ち上がる。


 こちらを見下ろすその目は、今まで見たことない人間の目だった。


「なんで貴方から海原さんの匂いがするの? どうして嘘をつくの?」


「ぐっ、あ、あはは。嘘、嘘なんて」


「嘘だよーー、海原さんが、貴方に私を任せるなんて言うはずないもの」


 たぱぱ。赤い斑点が、白いタイルを汚した。


 ぬるりと右耳から熱さと共に何かが滴る。咄嗟に樹原が耳に手を当てるとぬめりと錆び臭さが鼻についた。


 耳たぶが、抉られてーー


「あ、はは。酷いな。何を……根拠に僕が嘘をついてるって言うんだい? それは、勘違いだよ、雪代さん」


「ーー嘘だよ」


 取り繕う樹原の言葉が雪代のつぶやきにより上塗りされる。


「嘘に決まってる。だって、()()()()()()()()()()()()()()。他人なんかに任せたりしない」


「……なんだって?」


「聞こえなかった? 海原 善人は雪代長音を愛している、だから貴方に私を任せるなんて言うはずないもの」


 あの人、独占欲強いから。雪代がくすりと、嗤う。


 イかれている。この女……


 樹原は自分がどんな存在に手を出してしまったのかを、今、ほんの少し理解し始めていた。


 樹原は知らない。海原善人がその非才、凡庸さ故にどれだけ気を遣って目の前の女と接していたのか。



「ねえ、樹原先生」


 深い雪が、降り積もるように。樹原へと向けられたその言葉。


「貴方は、海原善人の行方について何か重要な事を知っている…… それを私に教えてくれるだけでいいの。今度は嘘をつかずに正直に」


 どく、どく。


 消し飛んだ耳たぶから血が漏れる。ジュクジュクとした痛みが脳みそに響く。



 甘く見ていた。


 この女を、雪代長音という存在を軽く見ていた。


 樹原勇気は身体の一部を消し飛ばされ、ようやくその事実に気付いた。


 海原。貴様はとんでもない置き土産を残していったものだ。


 気付くべきだった。妹の雪代継音にあのような強大な力が備わっている時点で、考えておくべきだった。姉の雪代長音にも同様の力があると言う可能性を。


 海原、お前の仕込みか。雪代長音と常に行動していた海原がこの事を知らなかったはずがない。


 隠していたのだ。恐らくは海原の判断で。そしてその判断に、雪代長音は従っていた。


 そして今、雪代長音がその力を隠そうともしていないという事はーー


「だんまり? ダメだよ、樹原先生。私はね、貴方にお願いしているわけじゃないの」


 来るーー。

 五感のどれでもない感覚がその力の余波のみを感じて。


 ぐちん。


「っ、っぐううううう?! ゆ、指?!…」


 樹原の右手、人差し指と親指が通常ではあり得ない角度にねじ曲がる。


 関節が逆方向、手の甲側に折り畳まれたかのように。


「私は貴方を脅しているの。落ち着いて状況をゆっくりと振り返ってみて?」


 人を傷付ける事になんの動揺も怯えも、その声色からは感じられない。



「貴方がこれから私の質問にすぐ答えなかったり、嘘をついた場合。1本づつその指をへし折ります。答えてよ、樹原 勇気」


「……あ、はは…… 雪代さん、君にも力があったとはね…… っうあ?! また、指っ

 ?!」


 次は小指。折り畳まれた小指の付け根が真っ青に腫れ上がる。雪代は樹原に指一本も触れていない。にもかかわらず既に、樹原の指は3本、ネジ折れていた。


「貴方と私の話が終わった時に、まともな指が残っているのを祈ってるね。さあ、先生。続けようか。海原さんは? 私の男はどこ?」


 制御を外れている。正気じゃない。


 そうか、なるほど。海原、お前がこの女の枷であり安全装置でもあった訳か。


「ああ、海原さん海原さん海原さん。ようやく手がかりを見つけたよ。待っててね、すぐに迎えに行ってあげるから。貴方は私がいないとダメなんだから」


 そして、今その枷は外れている。雪代長音は暴走状態にあるわけだ。


 樹原は頭に昇る激痛に耐えながら冷静に考えをまとめる。


 どんなトラブルや試練も全て乗り越えて来た。これも同じ事だ。


 既にプランは練った。この得体の知れない力、素晴らしい。益々欲しくなったよ、雪代長音。


 樹原は笑い、声を張り上げた。


「っぐあああああああ?!! や、やめてくれ! こ、殺さないで!! 」


「……指、残るかなあ……」



 突如、悲鳴をあげた樹原。その様子を雪代は興味なさそうに見つめる。


 雪代の細い指先が樹原に向けられた。



「姉さん! なんの音?! 今、樹原先生の悲鳴が!!」


 がらら。勢いよく教室のドアが開かれる。


「ああ、継音。大丈夫、なんでもないよ。少し樹原先生とお話ししてるだけだから」


「お話しって…… 何を。っ、樹原先生?! 大丈夫ですか?」


 狙い通り。


 樹原の悲鳴に反応して外で待機していた雪代継音が教室のドアをあげた。


 地面に這い蹲り、手を震わせる樹原に対して駆け寄る。


「……先生、それ…は?! ひどい怪我……まさか、姉さん! 何をしているの!?」


「継音、今、樹原先生と大事なお話しの途中なんだ。また後でお話ししない?」


「先生……その怪我は、姉さんに?……」


 長音の冷たい視線を受け止めつつ、継音が樹原に確認する。


 小さく樹原は頷き


「あはは…… ごめんよ、継音君。少し、誤解があってね……雪代さんは興奮しているだけなんだ。僕は大丈夫だから…」


「信じられない…… 姉さん、貴女自分が何をしたのか分かってるの?」


 継音が樹原を庇うように立ち上がり、長音をにらみつける。


 似た美、成長途中の美と、完成された美が互いに相対する。


 狙い通り。樹原は心の中でほくそ笑む。もともと雪代継音は崩壊前の世界において、樹原の受け持ちクラスの生徒だ。


 感情の起伏が少なく、まだモノにはしてなかったがそれなりに信頼されているはずだ。


 ここは、1つ姉妹ゲンカを利用させてもらおう。樹原は継音の体の影に小さく身を潜めた。


「どいてよ、継音。先生にはまだ聞きたい事がたくさんあるんだから」


「どけない……。樹原先生は私の探索チームの仲間。今の姉さんは何をするかわからない」


 パキン。


 継音と長音、両者の空間の中で音がなる。氷が軋むような音。


 部屋の温度が下がり続け、夏の夜が冷える。


 気付けば、継音と長音の立つ足元には、うっすらと霜が降りていてーー



「っはあ……わかったよ。継音、私の負け。お友達の想いの妹を持てて嬉しいよ」


 長音の放っていたプレッシャーが緩む。張り詰めていた空気が撓み、教室に広がる。


「……姉さん。貴女……」


「でもね、継音。すこーし落ち着いてゆっくりと鼻に意識を集中してみて?」


「……何を言ってるの?」


「ふふ、私達の、ユキシロの血の力の訓練だよ。継音にはこういうのした事なかったものね」


「姉さん……貴女、話し方が昔に……」


「ふふ、海原さんがね。言ってくれたの。全部私だって、わたしも、わたくしも、私も、我も全部、雪代長音だって、言ってくれたの」


 朗らかに姉が妹に笑顔を向ける。月明かりに満たされる教室。


 美しい姉妹の横顔が照らされる。


「継音、私は海原さんを探したい。貴女が庇ってるその男は何かを知っている。継音、ゆっくりあの人の匂いを思い出して。そのあとは貴女が決めなさい」


「あの人の、匂い……? 海原善人の?」


 継音の動きが止まる。長音もゆっくりとただその様子を眺めるのみ。


 樹原はわずかに場の空気が変わり始めた事を察し、


「あはは…… ありがとう、継音くん、お陰でーー」


 樹原の言葉が止まる。


 こちらを振り向き、見下ろす継音の視線に、細胞が揺れて、一瞬体の動きが止んだ。



 なんて、冷たい眼ーー



「……ほんと。あの人の匂いが、あの人の悲しんでる時の匂いが、する」


 その眼は先程までの継音が樹原に、生徒が教師に向ける眼ではなかった。



「……先生。なんで、貴方から海原さんの匂いが、ううん、海原さんだけじゃない。一姫によく似た匂い、これは鮫島さん? どういう事?」



 樹原を庇うように立っていた継音がゆっくりと身体の向きを変える。


 見下ろし、言葉をふりかける。長音が歩みを進めて、継音と並んだ。


 月の光に照らされた2人の雪代が、樹原を見下ろし問い掛ける。



「説明してよ、樹原先生」


「….…貴方は何かを隠しているのですか? 先生」


 鋭い冷たさが、息が詰まる圧迫が。その両方が樹原に向けられた。











 素晴らしい。是非とも欲しい。



「The Sailor Who Fell from Grace with the Sea[午後の曳航]


 雪代の問い掛けに返した言葉は、己の力の名前だった。


 えぐれた耳たぶの傷に、白い米粒のようなモノが湧く。怪物種41号 血食いウジ虫。生まれた生命が樹原の傷口を食いつぶし、出血を止めた。


「あはは。素晴らしい、素晴らしいよ。雪代の姉妹。その殺気、美しさ、力。君たちは極上の女だ」


「……先生…… いや、樹原勇気。貴方、何者なの?」


 継音が静かに、言葉を向ける。


 樹原は嗤い、立ち上がる。


「僕の名前は樹原 勇気。基特高校の教師であり、奈落の底の彼女に選ばれた存在。あはは、おめでとう、雪代さん達。キミたちは、キミ達の仇の目の前にいる」


 力が身体中を駆け巡る。人知を超えた奈落の世界に蔓延る生命の力が、樹原の身体に宿る。


「そうだ、僕が始末した。東雲 仁も、鮫島 竜樹も、影山 勉も、田井中 誠も、夏山凛音も、そして」



 それは雪代達の持つ古き血の力と比べても遜色のない異質な力。


 嗤う、嗤え。


 樹原の肉付きの薄い唇が、半月のように釣り上がる。その表情は既に、優しい教師のものではない。


「そして、海原善人もね。僕の前に立ち塞がる試練は全て殺した」


 へちゃげた指を見せつけるように翳す。月明かりがそれを照らした。


「この痛みは、この指の痛みはしばらく治さないでおくよ。キミ達をみくびった事への戒めとしてね」


 認識を改める。この姉妹は今まで堕として来たどんな女よりも、極上で厄介で恐ろしく、そして素晴らしい。


「キミ達をなんとしてでも手に入れる。それこそが僕の勝利。僕の悲劇の始まりとなる。力づくでもね」


「気持ち悪い、独り善がりの愛ほど虚しいモノはないね。半殺しにしてでも貴方には海原さんの場所を教えてもらうから」


「……残念です。貴方はとても良い先生だった」


 樹原は笑う。目の前の試練、目の前のトラブルを笑う。


「あはは、良い。誰がキミ達に相応しい雄なのか、その身に刻んであげるよ。安心しなよ、海原達みたいに殺しはしないから」



 雪代長音の顔に青筋が浮かぶのと、その力によって樹原の身体が吹き飛ぶのはほぼ同時だった。










 …………

 ……

 …



「……TSWG…… 音食い虫を解除しろ」


 樹原が、息も絶え絶えに能力への命令を発する。


 その足取りは重い。顔の右半分はまるで雪山に遭難したかのように霜がまぶりつき、赤く腫れ上がって、凍傷を負っている。


「更に……、ともしび蛍、無痛ヒル、傷を覆え……」


 折れた指に、ヒルのような小型の化け物がまとわりつく。粘液が皮膚にまとわりつき、痛覚を麻痺させていく。


 凍傷を負った部分には、小さな光が灯る。じんわりと暖かな光が凍り爛れた皮膚の痛みを癒して行く。



「……まさか、ここまでとはね。古き力……彼女の力にすら比肩しうる恐ろしいものだ……」


 ボロボロのポロシャツ姿で樹原は歩く。


 その足取りに力はない。片足を引きずり、教室のドアに手をかける。



「だが、それでも」


 がらら。折れていない指を使いドアを開く。倒れるように、教室を後にする。


「それでも、勝ったのはこの僕だ。恐ろしく、美しい、雪の女達よ」



 樹原が教室を後にする。


 ボロボロの身体が、倒れこむように扉をくぐる。


 その背後の教室は、激しい戦いの跡が生々しく残っていた。


 かつて、生徒たちが勉学を共にした机や椅子は飛散し、教室が教鞭を振るう黒板は、砕けたまま凍り付いていた。


 教室の中央、ぽっかりと空いたスペースに折り重なるように倒れる人影。


 長音が継音を庇うようにうつ伏せに倒れ、その下敷きの継音も同じく目を瞑る。


 2人の四肢には床から生えたタコの触手が絡まり、意識のないその身体にまとわりついている。


「扉を塞げ、僕以外誰も入れるな」


 教室のドアに樹原が軽く触れる。滲み出るように教室の出入り口から黒い泥が現れ、あっという間に教室を塞いだ。


「……あ、はは。……これで良い。次は……」


「樹原……先生?」


 体の動きが止まる。能力の使用を一瞬で停止、ダメだ、見られた。誰だ、この声ーー


 樹原はゆっくりと振り返る。表情を象り、仮面をかぶる。他人から奪った笑顔を貼り付ける。


「……やあ、春野さん。どうしたんだい、こんな夜中に」


 振り向く、振り向く。


 そこにいるのは不安そうに腕組みをして、こちらを見上げる少女。


 右手に持つ小さな蝋燭の火が、少女の顔をわずかに照らす。


 小さな顔に、アーモンド型のクリクリとした瞳、頼りない火がその瞳に映る。


 ダボダボの白衣に、膝小僧が丸見えの白衣姿。


 基特高校生徒会、保健指導。


 春野一姫がそこに居た。


「わ、私は雪代さんを探しに…… 樹原先生とお姉さんのところに行くって」


「ああ、なるほど。それなら心配は要らないよ。今、ちょうど姉妹水入らずでお話しをしている所だからね。僕もさっきまで一緒に話をしていたところなんだ」


「そ、そうなんですか…… え、でも先生、それ、教室のドアのところ…… 何かが浮いて」


 まあ、当然見られているか。ああ、もう、何か疲れたな。


 誤魔化すのも、面倒だ。


「ああ、これね。なんだと思う? 春野さん」


「……わ、わかりません。それより、先生、それ、怪我ですよね……? え、でも、雪代さんたちとお話しをしていて……? え?」


 ここまでだ。


 春野一姫はもう少し、時間をかけて終わらせたかったが仕方ない。


「と、とにかく治します!! そこに座って下さい、先生」


「ああ、ありがとう、春野さん。お願い出来るかな」


 その場に座り込んだ樹原に、春野が駆け寄る。手をかざすと、ポワリと橙の光が夜闇に浮かぶ。


「……文字通り、生き返る気分だ。春野さん」


「大丈夫ですか? 先生、でもなんでこんなに傷だらけに……」


 善い子だ。樹原は春野を見つめ単純な感想を抱いた。何故、こんな傷を負っているかを問い詰める前に、治療をなんのためらいもなく行う。


 そこに、樹原への疑問はあれど、疑いや恐れはない。


 何故傷を負っているのかよりも、早く治してあげないとの方がこの少女にとっては大切なのだろう。


「……良いご両親、良い友人に恵まれたのだね、春野さん」


「え? あ、はい。ありがとうございます? どうしたんですか? 急に」


 じわ、じわ、春野の手のひらから漏れ出る光が傷を温め、癒して行く。肉がひとりでに治り始める。


「なに、鮫島君が事あるごとに君の話をしていたのを思い出してね。自慢の姪だといつも言っていたよ」


「……叔父さんは、身内には甘い人ですから。でも、そうですね。いつも、気恥ずかしくて言えなかったけど、もし、もしも無事に生きてて、帰って来たら今度は素直に褒められてみようかな、なんて」


 たはは、春野が笑顔をつくる。雪代の姉妹の人間離れした美しさとはまた違う種類の美。手元に置いておきたくなる、小さな花のような美しさ。


「あはは、そうか。でももう、鮫島竜樹は帰ってこないよ」


「……それでも私は、叔父さんが帰って来ることを、信じてます」


 それを手折る。樹原は春野の腕をぐいと掴み、その軽い体を己の胸へと抱き寄せる。


「せ、先生?」


「ああ、違う、違う。僕が始末したんだ。邪魔だったからね。彼は優秀過ぎた、絶対に帰ってくる事はないよ」


「………は?」


「ああ、その顔、よく見せてくれ。鮫島竜樹だけじゃない。今回帰って来なかった人間はね、影山 勉、田井中 誠、海原善人は全員、僕が殺したんだ」


 春野の手のひらから漏れ出る光が、明滅を始める。それは乱れた心音のように不安定で。


「ああ、ダメだよ。落ち着いて。まだ言いたい事は沢山ある。僕の名前は樹原勇気。キミ達生徒の前では良い教師をやらせてもらっていたが、ほんとの僕はこうなんだ、よく見てよ、春野さん」


「な、なにを、言ってるんですか、先生……? 叔父さんや海原さんを……? 嘘…」


「いいや、嘘じゃない。キミの叔父、鮫島竜樹はキミ達のように僕を信頼しなかった。ずっと僕を見張り、監視していた。だから、殺した」


 だきよせた春野の身体が、小動物のようにびくりと震えるのを感じた。己の胸から離れようとするその小さな身体を、樹原は力づくでとどめ続ける。


「いや…… いや! 離してっ、下さい!!」


「いいや、離さない。キミの叔父さんの最期はね、恐らくだが、僕が生み出した怪物に喰われたんだろう。泣き叫び、許しを請いながら、鮫島竜樹は死んだ。きっと、死の瞬間に、キミに会いたいと思いながら、死んだ」


「うそ、うそうそうそうそ…… やだ、怖い、怖いよお……」


「嘘なもんか。キミは既にこれが真実だと知っている。僕が能力を使用しているところを見ていただろう? あれはね、雪代の2人を閉じ込めてたんだ」


 震える春野の身体を抱き寄せ、その耳に囁く。樹原が声を掛けるたびに、春野の肢体が、びくん。びくんと痙攣する。


 それでも、春野の治療は止まらない。


 雪代に負わされた傷を、春野の力が癒して行く。


「雪代長音と、雪代継音はね、僕の真実に気付いた。でも殺す事はないよ。アレは僕のものにすると決めたからね。全てが終わるまではこの教室に保存しておこうと思ったんだ」


「雪代…さんに? やだヤダやだ、お願い、離れて、離れてよう……」


「あはは。良いね、春野さん、とても良い子だ、ほら、次は僕の指を治して、雪代に根元からペシャんこに折られてるだろ?」


 樹原が春野の手のひらを強引に、手のひらで絡める。みるみる間に、指の骨が繋がり、神経が繕い合う。


「やだ、もう、怖い…… やだ、やだやだやだ な、なんで、先生がこんな事を」


「そういうのが好きなんだ。キミが誰かを治すことや癒す事に喜びを感じるように、僕は誰かが悲しんだり、傷付いたり、苦しんだりするのを見るのが好きなんだ」


 樹原は、ゆっくりと、恋人に語るような優しく、低い声で綴る。


「何かを守ろうとした人間が、それを守れずに死ぬ。何かを得ようとした人間が、それを得ずに死ぬ。愛し合う2人が、互いを無くす。絆がほつれ、壊れる。弱者が全てを奪われる。そういう、悲劇がとてつもなく、好きなんだ」


「……やだ、嘘、先生はそんな、そんな…… だって、遠果やコモリンにあれほど信頼されてた先生が、そんな」


「ああ、多喜さんに、子守さん。彼女達は残念だったね。夏山凛音を確実に葬る為に敢えて、彼女達は助けなかったんだ。本当に、残念だ。今のキミみたいに、来るべき時に本当の僕を教えてあげたかったのに」


「……は? 今、先生、なんて?」


「ん? あの2人の事かい? いやいや、僕が手を下した訳じゃないよ。ただ、助けなかっただけさ。……そういえば、キミも夏山に襲われたんだね、あはは、よく生き残ったものだ」


 心底面白そうに、樹原は喜色を孕んだ声で紡ぐ。


 雪代の魔性に煽られた獣性がむくりと、起き上がる。


「うそ、やだ、先生、怖い…… あなたは、あなたは誰……?」


「……僕の名前は樹原勇気、キミの大切なものを踏みにじるものであり、キミを害する人間だ。……誰も助けには来ないよ、春野さん」


 ぎゅう。


 抱き寄せたその身体をさらに強く抱き締める。春野の抵抗の上から強く、強く、潰れても構わないというふうに。


「あ……っ、痛い、痛いよ! やだ、やだ、離して、離してくださいっ、先生! 痛い!」


「いいや、ダメだね。決めた、キミは今ここで壊す。その顔をよく見せて、よく聞いて。誰も助けには来ないからね」


「やだ、やだっ、先生怖い、怖いよう! だれか、誰か、助けて!! 」


「誰も来ない。キミはここで、静かに僕に殺される」


 泥り。


 樹原の首元からその皮膚を突き抜けて、何かが生え出る。


「ひ、ひぃ! 、なにそれ、ヘビ?!」


「怪物種。アオサイショウ。安心して、毒性はない。人間の雌の肉が好きでね。だいたい3日間かけて消化していくらしいよ」


 樹原の首元から抜け落ちるやうに生まれたヘビがとぐろを巻きながらどんどん大きくなる。


 チロチロと舌を出しながら興味深そうに、樹原とその胸に掴まる春野を交互に見つめる。


「やだやだややだやだ!! そんな、うそっ、離して、離して先生! 食べられちゃう!!」


「あはは、そうだよ、今からキミは食べられるんだ。生命は廻る、その回転の中にキミは戻る」


「やだ、本当にやだ!! 助けて、助けて! お母さん!! 叔父さん!! 食べられなくない!! やだあ!」


 暴れる春野を、樹原は器用に胸の中で、抱きすくめがしりと、羽交い締めにする。


 ゆっくり、ゆっくりと大ヘビがその頭を下ろし、口を広げ始めた。


「やだ、やだやだあ! 死にたくない、しにたくないよう! ! 叔父さん、たつきおじさぁああん!!」


「鮫島は死んだ。死んだ者は全てを奪われる。大切な者も全てを奪われる。死はね、終わりなんだよ。もう、鮫島がキミを助ける事はない」


「うそ、うそうそだ! たつきおじさんがあなたみたいな人間に負けるわけない!! 絶対、絶対に助けてくれるもん!」


「助けない。彼は死んだ。死者にはなにも出来ない。死者が生者に残すことができるものなど、ない」


 ヘビのよだれが、春野の黒い髪に、ポタリと落ちる。


「ひ、や、だぁ。お、おじさん…… お母さん…… 助けてよお……」


「……1つ、キミが助かる方法がある」


「え?」


 樹原がポツリと呟く、同時にヘビの動きが止まる。


「今ここで、鮫島竜樹の存在を否定するんだ。おじさんなんて要らない。必要なかったと言葉にしてご覧。そうするだけで、キミを殺すのは辞めるよ」


「……え、なにそれ、あなたなにを言ってるの?」


「そのままさ。なに、心の底からいう必要は無いよ。言葉にするだけ、言葉にするだけでいいんだ。鮫島竜樹は必要ないとね」


「言葉に、する……」


「そう、それだけだ。ほら、急いで、急がないと、時間がないよ」


 ヘビの動きが、再開する。


 春野の身体が恐怖でこわばるのが分かった。


「ひ、や、」


「ほら、急いで、鮫島竜樹は要らない。必要なかった。無駄に生きて、無駄に死んだと。ほら、早く」


「あ、あ、ああああ…… さ、さめじま、たつきは……」


 涙をこぼしながら、春野が言われた通りに言葉をこぼし始めた。


 これで完成する。


 鮫島竜樹から全てを奪うことが。その生命だけではない。尊厳も理由も全てを奪うことが出来る。


 あの目、今思い出しても、面倒だった。


 ああ、今自分はイラついているのか。あの厄介な銀行員に。


 だが、このイラつきもこれでやっと、終わる。鮫島の一番大切なモノに、鮫島の存在を貶めさせる。これでやっとーー


「早く、言え」


「さめじま、たつきは、…… たつきおじさんは……」


 ヘビが、ゆっくりとオオクチを広げ、



 ぐい。春野の身体が力強く、跳ねた。樹原の拘束を解くことはなかったが、その小さな身体が上を向き


「おじさんは、要らない人なんかじゃ、ない!! 鮫島竜樹は、必要な人、大切な人!! 無駄に死んだなんて。私は絶対に信じない!!!」


 吠えた。吼えた。


 あれほど、怯えていた女が、力強く、今にも己を一飲みしようかと言う大蛇の口の中に向けて、吼えた。


「……あなたみたいな人が喜ぶことなんて、私は絶対にしない。雪代さんを傷つけ、おじさんをみんなを傷つけた人なんかに、私は負けない」


 力強く、見上げる春野の瞳には光が見えた。死を覚悟し、受け入れた者に宿る光。


 先程まで怯えきっていた少女はそこにはいない。


 ああ、やはり、キミもか。探索チームの人間はやはり、厄介だ。


 悲劇には向かない人間が多すぎる。


「あなたは、おじさんをバカにした。おじさんの尊厳を私を通して奪おうとした。それで、わかった」


「……なにをだい?」


「おじさんは、あなたなんかに負けていなかった…! たとえ命を奪われようとも、おじさんは、あなたに負けなかった。あなたはおじさんに勝てなかったんだ、だから、姪の私にあんなことを言わせようとしたんだ!」


 春野が大きく声を張り上げる。


「絶対に、あなたなんかに負けるもんか!! あなたなんて、おじさんが必ずやっつけてくれる! たとえおじさんがいなくても、おじさんの友達が、きっと、あなたをーー」


 ここまでだ。樹原はその先の言葉を聞く気は無かった。


「もういい。死んでくれ。食え、怪物」


「っ、おじさん!!」


 ヘビの頭が、ブレる。春野の身体を飲み込まんと、がパリと口を広げ、そしてーー



「びじゃあ??」





 蛇の頭が、飛んだ。


 続けて、その断面から青い血が噴水のように噴き出て、樹原と、春野を染めていく。







「え?」


「……なんだと」



 2人とも目を疑う。


 蛇の首を切り飛ばしたのは、春野でも、ましてや樹原でもない。




「ジ、ジジジジ、攻撃ヲ感知シマシタ…… 護衛対象ヘノ攻撃ヲ、感知…シマシタ」



 春野の肩の上、いつのまにか、何かが立っている。


 小人、ずんぐりとした体系に、ヨレヨレのとんがり帽子、ボロボロの腰蓑に、腕には小さな鉈のような獲物。



 火に照らされたその身体の色は、汚れた煤色。


 灰色の小人が、春野の肩に。


「ジジジジ、反撃ヲ、開始シマス…… イ、イチバンショオオオオブ、ヨーオ!」



 トン、軽やかに飛ぶ小人が樹原めがけて、その鉈を振るった。












 ….……

 ……

 …




「続けろ、捜索を。必ず見付け出せ。どちらかは必ず生きている」


 少年が1人、暗い教室の中呟く。


 ぱち、ぱち。


 駒を並べる。もう向かい合って、共に打ってくれる相手はいなくても、それでも少年は駒を並べる。


「僕は賭けた。たった1つの可能性に。続けろ、探せ、探せ。あの2人がいて、2人とも死ぬなんてあり得ない。どちらかは、必ず生き残ってる」


 ぱちり、ぱちり、ぱち。


 淀みなく、暗闇の中泳ぐように動いていた駒を並べる動きがとまる。


 少年は、それが始まった事に気づく。


 己の能力が、隠し続けて来た牙が、敵に食い込んだ事に気付いた。


 少年は、嗤う。


「海さん、鮫さん。アンタ達の遺したものは僕が、守る。アンタ達が戻るまでは僕が守るから」


 少年は折りたたみ式の将棋盤をその場に残し、立ち上がる。


「さあ、一番勝負だ。樹原勇気……」


 少年は教室を後にする。闇夜の中と言うのにその足取りは、軽く、まるでなにがどこにあるのか、全てを()()()()()()()()()()ーー


 がらら。


 教室が空になる。探索チームの拠点を、最後に三人で晩餐を囲んだ教室を少年は後にした。


 闇の中、ポツンと、たたみの上に置かれた将棋盤と、ちゃぶ台がただそこに残っていた。


読んで頂きありがとうございます!


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