貴方の匂い
準備は整った。
片付けるべき大敵は全て奈落の底に消え、歓迎されざる来訪者との生存競争にも打ち勝った。
もはや、敵はいない。己を脅かす殺意も、己に気付く疑いも、己を止める正義も。
全て、この僕が始末した。
止められる者などいない。気付く者などいない。
幕を下ろそう。この終わった世界の中、悲劇が有り触れる素晴らしい世界の中で始めよう。
僕が僕として生きる為に。
だが、せっかくだ。ここまでやってきた報酬が欲しい。
試練には生贄が、そして勝利には報酬が必要だ。
海原、キミは僕に負けた。
全て差し出して貰おう。キミの命だけでは足りない。
鮫島、キミは僕に負けた。
己の命よりも大事なものを奪おう。それが完了してからでも遅くはない。
お楽しみはここからだ。
………
……
…
〜海原善人といも虫の化け物の交戦と時を同じく、基特高校にて〜
「……本当に大丈夫ですか、先生」
「ああ、任せてくれ。継音君。キミのお姉さんは僕が説得して見せるよ、だから安心するんだ」
樹原勇気は、空き教室の前で生徒に向けて笑顔を作る。
時刻は夜、人工の光が消えた中、校内は月明かりと僅かな、ろうそくによって一部だけが照らされていた。
なるほど、これはやはり、美しい。
樹原はその身長差から見下ろす形になる女の顔を眺めてそう思う。
手元に持つろうそくの火に舐められ、照らされる白い肌。濡れ羽のような黒い髪が片目を覆うも見えないその部分が、その整った容姿に神秘性を齎す。
ああ、美人だ。この子は美人に育つ。
樹原は身体に満ちる男としての暗い獣性を微塵も露わにする事なく、ただ静かに笑う。
この女もいずれ、手に入れよう。
樹原勇気は今、絶頂の時にあった。
もう、あの厄介な海原善人と鮫島竜樹を始末してから1週間になる。
その間、何かの間違いで奴らが生き残っているのではないかと何度も考えた。
しかし、既に1週間が経過した。ここから奴らが戻って来るであろう可能性はほぼないと結論付けていた。
加えて、外敵の始末だ。
避難民を偽り、この基特高校に巣食おうとしていたあの殺人鬼の始末も完了した。
何度か冷や汗をかいたり、悲劇の役者である手付きの生徒を数人失くしたのは手痛い犠牲だったが、今になって思えばそれはそれで問題はない。
放送委員と図書委員、校舎内の意思疎通の要と、校舎の守りの要。
それらを無くしたこの状況はむしろ、自分にとっては都合の良いものだと受け止めていた。
もはや、自分を止めれるものなど、邪魔者など存在しない。
力を持っている警備チームの生徒の人心掌握は既に完了している。田井中 誠を失った彼らは拍子抜けするほど、ただの子どもだった。
そしてほぼ成人で構成されていた探索チームも既に、己を除いて残るメンバーは1人、海原や鮫島と違い、まったく障害にならない人物のみ。
そのほかの成人といえば、後はもう体育館に籠る避難者のみ。
元より彼らはこの終わった世界を未だ受け入れる事が出来ずに、生存を子どもに任せきりの白痴の集団。
中には何人か恥を知る者もいるようだがそれらは全て同調圧力によってもみ潰される。
その程度の連中しかいない。
もはや、樹原勇気に敵はない。
羊の群れを裂く狼として、樹原勇気はこの基特高校を歩いている。
運命はたしかに今、この樹原勇気に味方している。
だからこそ、今、全てが自分の為に動いているかのようなこの絶頂のタイミングで悲劇を始める前に、アレを手に入れる。
「君のお姉さん。雪代長音さんは必ず僕が説得しよう。約束するよ、必ず連れ出してみせる」
悲劇を通してでしか生きる事を実感出来ない狂人でありながら、樹原は美を好んだ。
とりわけ、異性を、女性を。何より女体を。
その美しさに触れ、手折る事に他の男と同じように歓びを抱いていた。
それは悲劇以外で樹原が生を実感できる数少ない事柄だった。
「……分かりました。……今なら入れると思います。今日は落ち着いている見たいですから」
静かに呟く雪代継音を、樹原はにこやかな笑顔を浮かべつつ観察する。
目にはわずかなクマ、言葉の端々のトーンが下がりまるで息継ぎをしているかのよう。
なるほど、この1週間、心を閉ざした姉の世話をし続けたのはかなりこたえたみたいだ。
ああ、これは良い状況だ。弱っている女は堕とすのが随分も簡単になる。
疲れている女、傷付いている女、諦めた女。その全てにただ寄り添うだけで良い。
それを繰り返すだけで、最後には全て自分のものになる事を樹原は今までの経験で知っていた。
「わかった。ありがとう継音君。すぐにお姉さんを連れて来よう。そして3人で食事にしようか」
「……はい。分かりました、樹原先生」
樹原は無意識に、その手を継音の頭に向ける。ぽんと撫でようとしてーー
「っ……」
「おっと、ゴメンよ。驚かせるつもりはなかったんだ」
その手が継音の髪の毛を撫でる事は無い。びくりと身体を跳ねさせて継音はその手を掻い潜った。
「……いえ、その。私こそ、少し驚いて……」
「あはは。キミが謝る事じゃないよ。じゃあ行ってくるね」
がらり、教室の扉を開く。
真っ暗な光景、感じるのは冷気。冷えた闇が、肌に突き刺さる。
「……では、お願いします……先生」
がらり、ドアが外側から閉められる。樹原は手元に持つ小皿に載せたろうそくを掲げた。
「雪代さん、夜分に申し訳ない。教師の樹原です。少し、いいかな?」
教室の奥に向けて声を向ける。ろうそくを掲げて少しでも闇を祓うように、一歩先へ進む。
返事はない。だが一歩進むにつれ、人の気配を感じる。
微かな息遣い、ひんやりとした空気が更に、冷たくなる。
「雪ーー」
ろうそくの明かりが、人影に触れる。
同時に、樹原はその場に立ち竦み、息を飲んだ。
雲が流れ、その奥に隠していた月が露わになる。夜空に、光が彩られる。
月明かりが、窓から差し込んだ。そっと触れるように、初めからそこにあるかのように、月明かりは何かに導かれるように、それを照らす。
それ、女が月明かりによって満ちる。
その肌に月の光が注がれていくようだ。その髪に月の光が飾り付けられていくようだ。
切れ長の瞳、ろうそくの明かりと月の明かりがその中で混ぜられ一つの光となって灯る。
その女と目が合った瞬間、樹原の身体中の毛穴が一斉に開いた。
女には、美しい女には慣れている筈だった。恵まれた容姿、体格、能力。異性を寄せ付ける要素をたらふく持つ樹原には数々の女が集まった。
努力によって獲得した美、天性の美、後天的な成長によって得られた美。
様々な要素の美に、慣れている筈だった。
なのに、これはなんだ。
物憂げにただ、窓際の椅子に浅く腰掛け、机で頬杖をついているだけなのに。
一瞥されただけ、横目がこちらに向いただけなのに。
その美から目が離せない。
妖しさ、いや、これは恐ろしさ。容姿から感じるものではなく其の者が発する雰囲気からも隠しきれぬソレ。
魅力。人外の魅力。
雪代 長音がそこにいた。
「ーー樹原……先生?」
声が漏れ出る。薄い唇が紡がれ、言葉となる。
「っ、ああ。そうだ、樹原だよ。あはは、久しぶり……だね。雪代さん」
気を取り直す、無理矢理にでも。未だ身体の芯にしびれのようなものが残るがそれでも、樹原は雪代に声をかけた。
「久しぶり…… そっか、言われてみれば樹原先生と会うのは久しぶりだね。元気だった?」
何でもないかのように雪代が、樹原に返事をする。
「あはは…… 僕は元気さ。キミこそ……雪代さんこそ思ったより元気で良かったよ。……継音君もとても心配しているんだよ?」
「ああ、継音。そっか、あの子には面倒かけてるよね。うん、後で謝っておくね」
雪代が、笑う。
その笑顔を向けられただけで、樹原の身体の芯が震える。
なんだ、この感覚は。
興奮とも発揚とも覚束ない奇妙な熱を樹原は自覚していた。
己の内、奈落の底にいる彼女から貰った力が妙に落ち着かない。
それでもその感情を押し殺しながらゆっくり、樹原は前へ進む。
「あはは。そうして欲しい。……身体は大丈夫なのかい? 雪代さんがこの部屋から出なくなってもう、1週間が経つよ」
「1週間…… そっか、もうそんなに立つんだ。時間って早いなー」
「そうだね、もうあれから1週間も経つんだよ。雪代さんはここでその間何をしていたんだい?」
「んー? 私? そうだねー、色んな事を考えてたんだ。あの時、ああすればよかったとか。なんで、こうなったのかなーとか。色んな事をね」
呟くように話す雪代の言葉を樹原は聴く。赤いジャージ。色気も無いその姿に、目を惹きつけられる。
月明かりに照らされるその豊かな胸に、首筋に、貪りつきたくなるような衝動を抑える。
「で、樹原先生はさ、ここに何しに来たの?」
「あはは、同じ探索チームの仲間のことが心配になってね。継音君とずっと相談していたんだ。どうにか君を励ます事が出来ないかって」
「ふうん…… ごめんね、樹原先生にも心配かけちゃって。大丈夫だよ、そろそろ考えもまとまったから、私もいつまでもここに閉じこもる訳にはいかないって思ってたし」
「考え?」
雪代の話し方、言葉に違和感を感じる。
まとも過ぎる。てっきりこの教室に入った途端に拒絶され、追い払われる事を想定していたのに、まるで1週間ぶりの会話とは思えない。
スムーズな会話が逆に気持ち悪く感じた。
「そっ。考えてたの。まあ、海原さんの言葉なんだけどさ」
「海原……くんのこと?」
イラつく、その名前を聞いた途端に、黒く熱い感情が眼球から溶け出して脳みそに回る。
「うん、海原さん。あの人がさ、勝手に私の前からいなくなっちゃって。つい昨日まではもう死んじゃおうかなって思ってたんだけど」
「なっ、何を言ってるんだ! 馬鹿な事を言うんじゃない!」
ぶお。ろうそくの火が大きく揺れる。
なんだ、今の声は。僕の声か?
樹原は己の出したその声の声量に静かに驚く。
「わっ、ビックリ。ダイジョーブだよ、樹原先生、それはやっぱり辞めたから。ほら、海原さんなんかの為に私が死ぬのはやっぱりおかしいしさ」
「……あはは。なんだ、冗談かい? ごめんよ、取り乱してしまった」
「ふふ、樹原先生もそんな顔するんだね。意外な一面発見…… なんちゃって」
朗らかに、互いに笑い合う。
いける、これならーー
樹原が雪代に言葉を向けようとしたその時。
「だから、逆にね。探しに行こうと思うんだ。海原さん、弱っちいから、やっぱり私が付いてなきゃ駄目みたいだし」
「……え?」
雪代が何を言っているのか、樹原には分からなかった。
サガシニイク? 誰がダレを?
「だからさ、樹原先生。教えてよ、海原さんと最後に別れた場所とかさ。あ、付いてこなくて大丈夫だから。私1人だけで行くからさ」
初めて雪代が、樹原の方に身体を向ける。
いつのまにか爛々と輝いていた瞳、正気なのか、狂気なのか。何が灯るのかは樹原にさえわからない。
「……雪代さん、海原君は…。もう」
「んー? どしたの、樹原先生。あ、もしかして責任とか感じてる? 大丈夫、ダイジョーブ、海原さん、馬鹿で弱っちい癖にしぶといからさー、多分生きてるし、きっと寂しくて泣いてるよー」
「違う、違うんだ、雪代さん。彼は、海原君はもう、居ないんだ!!」
樹原が声を張る。
雪代の様子や、言葉に違和感は感じるものの流れの中に好機を掴んだと自覚した。
ここだ。
ここが、雪代長音を手に入れる分水嶺だ。
「……なんで、そんな事言うの?」
しんと、深夜に静かに降り積もる雪のような沈黙の後に、震えるその声が教室に広がる。
ここだ。ココしかない。
傷付いた女には、壊れた女には同じく傷を見せれば良い。
傷の舐め合いを拒む人間はいない。誰しも弱く、1人を嫌がる。それ故に同じ傷を待つ人間を拒む者などいやしない。
「ごめん、ごめんよ。雪代さん…… ずっと、ずっと怖くて言えなかった事があるんだ…… 僕は、僕は……」
ここで、しゃがみ込む。身体を小さく見せ、同情を誘う。
涙は見せない。まだ、見せる時ではない。
「言えなかった事……?」
「そうだ、言えなかったんだ。あの時、僕は見たんだ。海原君が、目の前で怪物の居る巣穴に落ちて行くのを…… 彼は、僕を庇って……」
「海原さんが…… 樹原先生を? 海原さんは、どうなったの?」
雪代が椅子から立ち上がり、樹原に近寄って行く。教室の机の隙間をゆっくりと縫う。
かかった。
あと少しだ。
「そのまま、彼は僕に、こう言ったんだ。先に行けって、お前は生きろって。僕は海原君に生命を救われた」
「……言いそう。海原さん、かっこつける癖あるから…… ねえ、先生、それからどうなったの? 聞かせて」
雪代が、しゃがみ込む樹原と目線を同じく。
甘い女の匂いに、樹原は一瞬息を飲み、それから続ける。
「彼は、笑って逝った。僕を守って、僕の目の前で勇敢に戦って死んだ…… そう、キミに伝えなくてはならない事がある。海原君がからの伝言だ」
「海原……さんからの?」
食い付いた。
もう、逃す事はない。
「ああ、忘れてくれって。俺の事は忘れて、生きて欲しいと。キミに伝えてくれと……」
「……そんな」
雪代が、首を垂れる。弱り切っている、それが目に見える。
「そして、雪代さん。僕は彼にこうも言われたんだ」
樹原が、雪代の細い肩を掴んだ。柔らかい、握り締めれば砕けてしまいそうなその儚さに、樹原はそそられる。
「え?」
「キミを代わりに守ってほしいと。自分の代わりに雪代長音を守って欲しいと僕は彼に言われたんだ」
樹原が雪代の顔を見つめる。驚愕に染められたその顔、小さな口が開き、赤い舌が見え隠れする。
今すぐそれを貪りたい衝動を、体内を弄る事で抑え、言葉を投げかける。
「雪代さん、僕にキミを守らせてくれないか? 僕は海原君と約束したんだ、この終わった世界からキミを守ると、そう約束した。頼む、僕に、友との約束を守らせてくれないか」
「私を……守る…… 海原さんが?」
「ああ、苦しみも哀しみも、その全てからキミを守ろう。キミと共に生きろと、海原君がそう言ったんだ。雪代さん、もう大丈夫、安心していいんだ」
「……安心…… いいの? 私、安心していいの? 海原さんが、そう言ったの?」
樹原は心の中で笑う。
夫や子どものいる女を堕とす時と一緒だ。
これで落ちた。亡き友から遺された約束、そういうのがお前達は好きだろう。
おくびにも出さずに、樹原はゆっくり、静かに雪代を抱き締める。
「っあ……」
「雪代長音。ぼくたちは同じ痛みを持つ者同士だ」
「同じ……者」
ぶるぶると抱き締めた華奢な身体が腕の中で震える。だが抵抗の気配は感じない。
ゆっくり、静かに、たしかに。
樹原はその身体を抱き締め、甘い匂いのする髪の中、耳に囁く。
「共に生きよう、雪代長音。逝ってしまった者達の分まで共に……」
「あ……」
漏れる吐息、その胸に抱く柔らかく細い女体から、震えが止まった。
チェックメイト。
手に入れた。
樹原がゆっくりと、身体に抱き締める女の、薄く月の光に照らされる唇を見つめてーー
「潮の香りと、薄い汗の匂い。それにお日様の匂いがいじけたような、素直じゃない匂い」
歌うような声、雪代の紡ぐ言葉。
「ねえ、1つ、聞かせて。樹原先生」
動きが止まる。声に身体が動きを止める。
「……なんだい? 雪代ーー」
「どうして?」
「ーーえ?」
「貴方から海原さんの匂いがする」
「とても、とても怒った時の。本気で怒った時の海原さんの匂いがする」
樹原の背筋に、氷柱を差し込まれたような冷たさが走るのと。
きいんと、高い音がして、耳に激痛が走るのはほぼ同時だった。
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