それでも、前へ
「う、あ」
最初に気付いたのは、暑さだ。
久しく忘れていた感覚、じっとりと肌にまとわりつくような湿った暑さ。
日本の、夏の夜だ。
「ぐっ、……何が、オッサン……」
田井中の声が聞こえて来る。海原は重たい身体を起こし辺りを見回す。
「マジかよ……」
目を見張る。
あの7日間で見慣れた砂原、輝く砂、 白磁の岩は何処にも見当たらない。
まるで夢か何かだったかのように、辺りの風景は変わっていた。
「……どこだ、ここは。砂原が……」
足元にはまだあの砂が溜まっている。円形のスペース、海原と田井中がいるスペースだけは。
しかし、それ以外は、何もかもが違っていた。
大広間。広いスペースの中心に海原と田井中はポツンと残されていた。
「マルス…… 聞こえるか、状況を、何が起きた?」
"ポジティブ アビスの階層間移動です。我々は下の階層から上の階層への脱出に成功しました"
「……俺たちだけが上に登ったのか。マルスお前知っていたのか?」
"……ネガティブ、帰還方法は予想通りでしたが、ウェンフィルバーナの行動に関しては予想外でした、しかし1つ確実な事があります。我々は彼女のおかげで、戦闘を避けて無傷で階層を登る事が出来たという事です"
淡々と響くマルスの声、今はその無味乾燥な言葉が有難い。
「オッさん…… ウェンフィルバーナは……」
あぐらをかいて座り込んだまま動かない海原に田井中が歩み寄る。
「……残った。アイツは一緒には来ない。ここでお別れだ」
「っ!! なんで、クソ!! オッさん、戻ろうぜ! あのコスプレ女はもう俺たちの仲間だ、置いてなんて行けねえよ!」
田井中の叫びが広間にこだまする。それが妙に海原には虚しく思えてーー
「……マルス、ウェンの元へもどる方法はあるか」
"ポジティブ 方法は2つ、再びこの階層内において下層への入り口を探す事、もしくはこの場にとどまり次の、階層移動の時期を待つことです"
「次の階層移動のタイミングは?」
"……周期計算からすると、およそ1ヶ月後です"
「そうか……」
絶望的な数字、海原は少しの間、目を瞑る。
カチリ、何かが切り替わるような音が、脳みその中で響いた。
ウェンフィルバーナ。
あの気高くどこまでも不器用で、美しい仲間の事を思う。
白銀を錦糸に溶いたような髪、いたずらに歪む瞳に、異なる世界の興味深い話。
「はっ…… 何を勘違いしてたんだか」
最後に交わした言葉、ウェンの表情を海原は思い出す。
そもそも、人が人の行く末を変えることが出来るなど出来る訳がない。
自分はどこか勘違いしていたのだ。
ウェンなら付いてきてくれると。仲間とか友人だとか耳障りの良い言葉を繰り返し、いたずらに期待し、理解した振りをしていた。
思い上がっていた。
この別れはきっと、ウェンの中ではとっくに決まっていたのだろう。
「馬鹿が。この勘違いだらけのクソヤローが。」
繰り返すのは自虐の言葉。自分ごときがあの誇り高い風の選択を決めれると思い込んでいた。
目を瞑ると、最後に見たウェンの表情が浮かんでくる。
お前はなんで、笑ってたんだ。海原には分からない。もう聞くことは出来ない。
なあ、ウェン。呼びかけても返事は返って来ない。
「オッさん! 聞いてんのか!」
田井中の言葉が響く。
そうだ、田井中の言う通りだ。ウェンを助けに戻らないとーー
だがしかし、喉が生み出し、舌が紡いだ言葉は自分でも意外なものだった。
「……戻る事は出来ない。このまま先に進む」
「な、なんだって……?」
口から勝手に言葉が出た。考えるよりも、前に先に。
「時間が無い、田井中。このままここを一刻も早く脱出する。俺たちは先へ進まなければならない」
これは俺の声か、これが俺の言葉か。
ああ、そうか。最初から俺はこんな人間だった。
「本気で、本気でウェンフィルバーナを置いて行くのか……」
「置いて行く。もう戻れない。アイツは選択した。俺たちを先に進めるという選択を。そして、今、俺も決めた。アイツを置いて、先に進むという選択を」
海原は田井中を静かに見つめる。ゆっくりと立ち上がり、ズボンの砂を振り落としながら告げる。
「ウェンは、俺たちの為に死地に残った。ウェンを見捨てる判断をしたのは俺だ、それでも前へ進む。俺は決めたぞ、お前はどうだ、田井中 誠」
「あんた、それで良いのかよ!! ウェンフィルバーナは…… アイツはあんたのことを本気で信じていた!! あんなに、あんたのことを…… なのに、置いていくって言うのかよ!」
「ああ、そうだ。アイツのお陰で俺たちはなんの消耗もなくこの奈落を抜け出せるチャンスを得た。無駄にする気はねえよ」
「……本気だ。あんた本気で言ってる。仲間じゃねえのか。アイツは俺たちの、あんたの仲間じゃねえのかよ!」
「仲間だ。それは紛れもない事実だ。そして、その仲間の犠牲で俺達は今、先へ進む機会を得た、これも事実だ」
感情的に叫ぶ田井中と淡々に言葉を返す海原。
田井中が一歩後ずさりをして、呟いた。
「………似ている。オッさん、その目、奴と、樹原勇気とそっくりだ」
噛みしめるように呟く田井中。海原はただ、黙って田井中を見ていた。
「あんた達は似ている…… イカれてんだ。飯を囲んで笑い合った仲間でも、関係ねえんだな……」
「……ああ、あの飯が美味かったのも事実だ。あの時間がずっと続けば良かったとも思ってるよ」
田井中との会話を続けるたびに心が冷えて行くのが分かる。
ウェンの顔が、言葉が、思い出が脳裏を駆け巡り続ける。しかし、海原はもう自分の決断に微塵も疑問を持っていなかった。
痛みすら顕れるような沈黙が互いを包む。
均衡を破ったのは当然、田井中だった。
「っ、あああああああああああ!!!!!」
地団駄を踏む子供のように、田井中が地面を踏みつける。
熱い鉄が、脈打つ。
海原は踏み抜かれた地面が歪んで、形を変えていくのをじっと眺めていた。
「くそ! くそ! くそ! くそオオオオオオオ!!!」
田井中が叫ぶ。
「分かってんだ! 分かってんだよ、俺だってよ!! ウェンフィルバーナが自分で残った事ぐらい! あの女が強いことも、助けに戻れねえのも分かってんだよおおお!!」
肩で大きく息を吸う田井中、足元にはいびつなオブジェが乱立している。
ゆっくり、ゆっくりと田井中が身体の動きを止めて、海原を見据える。
ただ、海原はその視線を受け止めるのみ。
「あんたは……、化け物だ、オッさん。俺は樹原も怖いが、あんたも同じぐらい怖い。でも、それ以上にあんたに賭けてる……」
田井中はそれまでの荒ぶりようが嘘のように、静かに言葉を続けた。
「……樹原を、化け物を殺せるのは同じ化け物だけだ。……いいさ、アンタに従う。俺も進む、前へ、前へ進んでやる」
「……田井中、ウェンを置いていくのを決めたのは俺だ。お前じゃなーー」
「見くびんな!!! 馬鹿!! 俺たちだ! ウェンフィルバーナを置いていくのを決めたのはアンタだけじゃねえ!! 俺もだ! アンタ一人には絶対に背負わさねえ!!」
海原の言葉は掻き消される。
田井中が海原を指差した。
「いいか。よく聞け、海原善人。これは責任だ。ウェンフィルバーナを置いていくのは俺達だ。勘違いするな、アンタだけが決めた事じゃねえ」
「……わかった。悪い、お前を舐めていた」
コイツは、子どもなんかじゃない。海原は己の考えを、恥じる。
心のどこかで田井中のことを庇護の対象にしかていた事を、本気で恥じていた。
「俺達は共犯だ。ウェンフィルバーナを犠牲に俺達は目的を果たす…… 目的を果たすまで、俺達はもう死ぬ事すら許されねえ」
「ああ、分かったよ、田井中、行こうか。先へ進もう」
海原は向かい合った田井中から視線を逸らし、広間の奥、道が続いている方を向いた。
足元に置いてあるナップサックを拾い上げる。ウェンの作った菓子やらがごろりと袋の中で転がった。
ゆっくりと歩き出す。田井中もそれに倣う。
ああ、何がもう二度と仲間を置いていかないだ。くそったれの嘘つきやろーが。
出来もしねえ事をペラペラ話して英雄ヅラしやがって。
なんのことはない。何のことはないのだ。
海原は忘れかけていた事実を1つ思い出す。
己がただの無力な凡人に過ぎない事をーー
凡人は進む、その足取りは決して軽くはない。
それでも止まらず、確かに1歩、それでも前へーー
"ポジティブ ヨキヒト。貴方は何も間違えていない。私にとっての優先は何より、貴方の生存です"
マルスの声は、海原にしか聞こえなかった。もう、海原だけにしか。
………
……
かつん、ざっ、ざ。
通路は次第に狭くなっていく。いつのまにか黒い泥に塗り固められていたような壁に色味が戻りつつある。
光源が見当たらないにもかかわらず、通路はそれなりに明るい。
数メートル先までは見渡せる程度の明るさが常に保たれていた。
茶色のレンガのようなものまでちらちらと。
洞窟の中というよりは、地下通路を進んでいるような感覚だ。
「マルス、マッピングを。道は合ってんのか」
"ポジティブ 問題ありません。この道を一直線に進めば、アビスと地下街の境界に辿り着けます"
海原は、頷き進み続ける。
「……オッさん。道はこれでいいのか?」
1歩後ろを歩く田井中からの言葉。広間を出発してから20分ほど、初めて田井中に話しかけられた。
「……問題ねえ。マルスにも確認済みだ」
「……そうか。便利だな、オイ。アンタの相棒は。まるでドラえもんだ」
「……やめろ、俺が怒られる。そう言えばお前、マルスのことすぐに信じたよな。言葉も聞こえねえ、見えもしねえのに」
「ふん…… なんの能力もなかったオッさんがいつのまにか、びっくり人間に変化してんだ。何かしらのわけわかんねーことが起きたのは事実だろ。アンタがくだらねー嘘つくとは思えねえしな」
「……信頼度が高そうで何よりだ。そんな田井中にもう1つ、わけわかんねー事を伝えとくか」
「あ? なんだよ」
「……情報の出所も、どうやって知ったのかもうまく説明はできねーが、もしお前、これから1ヶ月後に、またあの夜が来るって言ったら信じるか?」
ざっ。
田井中の歩みが止まった。海原も同じように歩みを止める。
「……残念だな、オッさん。信頼度が足りねえみたいだ。与太話は学校に戻ってからにしねーか?」
「……そうだな。悪かった。そう、与太話だ。……進もう。そんなに遠くなさそうだ」
ざっ、ざっ、ざっ。
2人の足音、スポーツシューズが地面を進む音が通路に響く。
互いの間に言葉はなく、海原と田井中は通路を進み続けていた。
かららん。
からららん。
音が、響いた。
何かを引きずって、それが地面に擦れているような。
「……オッさん、今」
「シッ、止まれ。田井中」
背筋、毛穴、広がる。
2人は背後を振り返り、そのまま音のした後方をじっと眺める。
目を凝らしても、そこには闇が広がるばかりで。
それでも、海原にはもう予感があった。
妙に当たるその予感、当たらなくとも良い、外れてくれと願うようなその予感。
かららららん。
その音は2人の背後から、響いていた。
また同じ音、何かを引き摺る、そう、何か棒のようなーー
金属を引き摺るようなーー
からん。
からららん。
からららららん。
かららん。
「ギィ」
嫌な予感ばかりが、当たる。
ぶん、空を切る音ともに、ぬらりと、闇の向こうに、何かが見えた。
棒、金属。
先のねじれた金属の、槍。
本当に嫌な予感ばかりが、当たる。
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