風よ、さらば
別れの痛みは、再会の喜びに比べれば何でもない。
チャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズ
1812年〜1870年
「よっし、各自準備はオーケーか? 忘れもんないよーにな」
「ああ、ねえよ。オッさん」
「ふふ、後片付けもばっちりだよ。ヨキヒト君」
水浴びを終え暫くしたのち、全ての準備は完了した。
「つーかウェンフィルバーナ。アンタ、その小さなサックに全部食器とか入れてんのか? どう考えても容量合わねえような」
「ふふん、田井中。女性には常に2つ3つほど秘密があるものさ。それを知りたければ暴く努力をするのだね」
「あ、うん。俺急にキョーミなくなったわ」
田井中とウェンのなんでもないやり取りを聴きながら海原は改めて、辺りを見回す。
水が佇む音。どこからか吹く風に揺らされる大樹の葉。輝く砂が風に攫われ、風鈴のかすれたような音が静かに聞こえる。
この奇妙な一週間を生き残れたのはこのキャンプ地を見つける事が出来たからだ。
湧き水が長い年月を掛けて作り上げた泉には生命を繋いでもらった。
地下の異なる世界で生育した大樹に抱かれて眠った。
ありがとうーー
海原は静かに目を瞑り、頭を下げる。
ここはたしかに、この7日間のサバイバルにおいて海原の家だった。
その場所に感謝を告げる。
「……お前の言う通り。水はあった。生き残れたよ。鮫島」
水を探せと教えてくれた友の名を呟く。返事はない。結局、見つける事も再会も叶わなかった。
だが、お前を置いて行く事はない。約束するよ。鮫島。
海原は、静かに心のうちで呟く。ゆらりと灯るその炎の中に強い憎悪と怒りが混じるのを知るのは、身体の奥底に繋がる寄生生物兵器だけだった。
目を開く。
目の前には仲間がいる。
「……行こう。田井中、ウェン」
「おおよ。オッさん、付いて行くぜ」
「……道案内は任せておくれ。まだ時間はあるからね。ゆっくり、慎重に向かおうか」
仲間の言葉に海原はうなづく。
ベルトを締め、シャツのシワを伸ばす。
足元のナップザックを拾い上げる。中にはウェンの作った携帯食料や、水を入れたペットボトルが入っている。
今日、ここを俺は生きて脱出する。
思えば全てはここから始まったんだ。この酷い一週間は、ここから。
「……長い7日だったな。本当に」
泉を見れば、あの時狼の化け物どもに食い殺されかけた時の記憶が蘇る。
臭い息、鋭い牙、多数の爪。それから救ってくれたあの軍人を思い出す。
命の恩人から託されたここで出会った一心同体の相棒にして、海原に齎された終わった世界に立ち向かう為の牙。
傷付いた田井中の看病とふと出会った新しい友人との語り合い。囲んだ食卓。
決着をつけねばならない樹原の落し子たる化け物との闘い、寝起きの狼の強襲。
狼の王との死闘、死との対峙、そして世界の何かを知る変態との出会い。
思えば色々な事があった。あり過ぎた。
だがそれでも海原は生き残ったのだ。
「……ありがとう」
小さなつぶやきは何のためのものか。どこへ届けるものか。海原にも分からなかった。
ただ妙に胸がキュッと締め付けられた。
「さあ、ここから大体2キロも歩かないよ。ヨキヒト君、田井中、墓所が寝返りをうつ場所に向かおうか」
ウェンが笑いながら向こうの方角を指差す。田井中は海原に目線を向けて歩き始める。
海原も同じように歩む。PERKの行使で靴底に空いた穴はウェンが化け物の皮を使って直してくれていた。
輝く砂に足跡を残しながら、3人は進む。
この場所を残し、次へと進むのだ。
3人はあっという間に、風が吹き去るようにその場を後にした。
その場所は何も変わらない。ゆるく風が吹き、大樹の葉は騒めく。泉の水は静かに佇み、また生命を潤わす。
ただ、人の笑い声と話し声だけがその場から去っていくのみだった。
………
……
…
匂いが動いた事にソレは気付いた。
獲物の摂取は完全に終わり、世界には光が再び戻っている。
今度こそ、狩りを全うするのだ。それがソレの存在理由故に。
二足の脚が、砂を蹴り上げた。
……
…
「……なあ、オッさん、たちまちここを出たらよ、何から始める?」
「とにもかくにも高校へ戻る。状況を確認して、場を整える、そうだな、1週間以内には樹原を始末する」
「へえ、意外だな、アンタのことだ。すぐに樹原をぶち殺しに行くのかと思ったぜ」
「いや、アイツの事だ。間違いなく外ヅラ良く高校のメンバーに入り込んでいるはずだ。例えば体育館にこもってる大人連中とかな。アイツはあの場所で何かをしようとしている。行動を起こすまではきっと、周囲の信頼を得るように立ち回ってるだろ。いきなり殺すのは後が面倒だ、地固めをしてからやりたい」
「樹原がそんな立ち回りをしてるとかよ、なんでそんな事がわかる?」
「俺が奴ならそう立ち回るからさ。人間を使って何かをするときにまず必要なのは信頼だ。奴はその辺をきちんと理解してやがる」
物騒な会話をしながら、海原たちはその地点を目指していた。
道案内はウェン、たまに海原はマルスと地形データの確認をしつつ進んでいく。
「そろそろつくよ、2人とも。時間もちょうど良いくらいだね」
先行していたウェンが立ち止まる。
もう着いたのか? 海原は辺りを見回す。
上に脱出するルートの筈なのに、ここはまだ砂原の真っ只中。
ただ1つ、奇妙な事は所々クレーターのようなすり鉢状の窪みが散見される事だ。
まるで何かに掬い取られたようなーー
「ここか? いやでもウェン、どうやって上に戻るんだ?」
「ふふ、大丈夫。風に任せておくれ。そろそろ始まるからね」
"ポジティブ 問題ありません、ヨキヒト。地形データ適合、ランディングポイントは、ここです、……私とアリサはこの地点から脱出しましたから"
帰り道を知る2人がそう言い切る。
なんとなく嫌な予感がする。
海原はウェンの方を見つめて
「なあ、ウェン。 もしかして、自分の足では登らない系か?」
「ふふ、それはまあ始まってからのお楽しみかな」
喉を鳴らすようにウェンが笑う。
「ああ、安心してくれ。今風達が立っている場所、ここが中心だ。問題はないよ」
くるりと振り返ったウェン。
その顔はいつもと変わらない表情。薄い笑みをたたえた美術品のような貌。
でも、なんだ、何かが……
「……なあ、ウェン」
何を言おうとしたのだろう。何を伝えようとしたのだろう。
何を、聞こうとしたのだろう。
海原は永遠にその答えを得る事は無かった。
「ギィイ」
運命が、耳障りな音ともに現れる。
「っは」
心臓が跳ねる。
頭皮の毛穴が一気に開き、ピリピリと痺れにも似たかゆみを感じた。
「……野郎」
「ギィイ、ギィイ」
砂原の向こう、いつからいたのだろう。あの耳障りな声が、聴こえてーー
「……オッサン」
すぐそばで田井中が低い声で呟く。
わかってる、ここで終わりだ。ここで、終わらせる。
姿、はっきりと。
その手に握るはねじれた槍、人間の為の道具をその化け物は当たり前の如くその手に備える。
筋肉質な身体、彫刻のような人間の体にいも虫のような頭を持つ化け物。砂原の向こうから此方へ歩み寄る。
一歩、それが近づくたびに首筋がピリリと痺れる。
海原は膨れ上がる感情を必死に抑えながら、仲間へと言葉を向ける。
「ウェン…… 田井中、悪いが力を貸してくれ。ここを脱出する前に、やらねばならないことがある」
手段は問わない。なんとしてでもアレを滅ばさねばならない。
「……ああ、任されたぜ。オッさん、やろう」
じり。
海原は一歩前に、田井中は半歩後ろへ。
前衛が海原、遊撃に田井中、そしてーー
「ウェン、手筈通りだ。俺と田井中のバックアップを頼む。射線には被らねえようにするからーー」
キャンプ地で話し合った通りの行動を海原が指示する。
やれる、このメンバーなら。自分が前衛で引きつけ、ウェンが飛び道具で攻撃、田井中の高威力のホット・アイアンズで叩けばーー
海原は体制を低く、うちに棲まう相棒に交戦の意思を伝えようとーー
「うん。わかったよ。ヨキヒト君。でもその前に、一歩、いや二歩ほど下がってくれよ」
ウェンが海原の隣でそう、呟いた。
なぜ、と問おうと唇を開いた刹那。
「ああ、やっぱりいいや。風が行けばいい話だね」
ウェンが、海原の隣から一歩、二歩と前へ進んだ。
ふわり、香草の香りが漂う。その細い腰に備えた矢筒から、紫色の矢羽を持つ矢が短い弓に流れるように番られる。
は?
ウェン、お前は後衛だろ。何で、前にーー
その疑問を口に出すよりも先にそれか始まった。
「吹き塞げ、風よ。汝が主、ウェンフィルバーナ・ジルバソル・トゥスクの命である」
轟音。
ウェンに向けた疑問の声は、突如地面から吹き荒れた風によりかき消された。
「なんだ……これ」
「こりゃあ…… どういうことだ」
海原と田井中の口から漏れたのは驚愕のつぶやき。
吹きすさぶ。吹き荒れる。
風が地面から生えるように吹いている。
轟々と吹く風は、海原と田井中を囲むように真上へと吹き荒れる。
まるで、そう、これは風のドーム。
「チっ、ホット・アイアンズ!!」
田井中が地面に手を触れる。途端に地面からうねりながら、突起物が現れる。
「ぶち破れ!!」
その先端が風の壁に伸びて、そして。
ベキん。
「おい、嘘だろ?! 金属だぞ!?」
悲鳴のような田井中の叫び。ホット・アイアンズで形成された金属の杭が風に削り取られ、すぐさま崩れ落ちた。
「田井中!! 大丈夫か?!」
「俺ぁ、問題ねえ!! それよりオッさん、これやべえぞ! 出られねえ!」
突如として吹き現れた風のドームのうちに海原と田井中は閉じ込められた。
こんな真似が出来るのは、俺たちをここに閉じ込めたのはーー
「ウェン?」
この風の外に居る、ウェンフィルバーナだけだ。異なる世界の異なる生命である、彼女だけだ。
フッ。風の轟音が止む。その距離は数メートルもない。目の前にウェンの背中が、決して届くことのない細い背中があった。
「お、おい、ウェン。これ、お前…… 何してんだ?」
声が、震える。わからねえ、分からねえ。なんでウェンがこんな真似してるのかがわからねえ。
海原は思考を整えようと努力する。指先が痺れ、心臓が鳴り続ける。うまく、出来ない。
声が上ずる。
「ダメだよ、ヨキヒト君。その風の壁に触れたら。音はもうしないけどまだ吹き続けてるからね。怪我しちゃうから」
くるり、ウェンが朗らかに笑う。その手には既に、紫色の矢羽の矢と、弓が備えられていて。
海原がその笑顔に向けて叫ぼうとした。
「ギィイ!!」
背後の海原へと顔を向けたウェンの隙を狙っていたのか。
奇声とともに、身体をねじりながらいも虫の化け物がウェンへと飛び交かる。棒高跳びのように槍を地面に突き刺したその反動で、高く、鋭く、化け物がーー
「ウェーー」
海原の叫びよりも早く、化け物がウェンへと中空からその槍を向けて振り降りて来てーー
「風とヨキヒト君の会話を邪魔するな、下等生物」
更にそれより早く、ウェンの手元から放たれた矢が化け物の胴体を穿った。
「ギィいいいいいいおおおお?!!」
錐揉みしながら、化け物が吹き飛ぶ。
矢が放たれたその瞬間、矢と同時に剛風が吹き荒れた。その名の通り虫けらのようにいも虫の化け物が宙を舞い、吹き飛ばされた。
「……すげえ」
その瞬間だけ、忘れた。ウェンの意味不明な行動や、化け物に対する殺意とか、その他諸々の感情は色を失った。
あるのは、台風一過の瞬間を目の当たりにしたかのような感想。
風に揺れる白銀の髪とその主人の姿にただ、ただ、見惚れた。
「1つ…… 嘘をついた。ごめんね、ヨキヒト君」
「う、そ?」
すぐ向こう、手を伸ばせばその華奢な肩に手が届きそうなのに。
「うん、嘘さ。中心に、墓所の寝返りが起きる場所に立っているのは風達じゃない。キミ達だ。キミ達の立っている、その風の壁で区切られている場所こそが、本当の中心的なんだ」
振り返ったウェンがにこりと笑う。
こいつ、何を、何を言っているんだ。それじゃ、まるでーー
「おい!! ウェンフィルバーナ!! 何のつもりだ! 笑えねえぞ! この壁は何のつもりだ?!」
田井中の怒号すら、海原には遠くで鳴り続ける波音のようにどこか現実感のないものとして聞こえた。
「ふふ、田井中。そう怒るなよ。……楽しかったよ、キミと語らう時間は。まるで弟ができたような、そんな気がしてた」
「お、お前何言って……おい、おい! いいからよ! 早くこの風の壁を消せよ! 聞いてんのか! ウェンフィルバーナ!!」
田井中が壁に駆け寄り悲鳴のような叫びをあげる。何かに怯える、焦っているかのような声。
熱い。汗が、額から噴き出るのが分かる。
田井中が壁にてをのばそうとするのを、海原は制した。
「お、オッさん?」
不安そうな声をこちらに向ける田井中に視線を傾ける。
「……ウェン、なんのつもりだ。何をしようとしている?」
「……ヨキヒト君、キミはその答えを知っている」
「……お前は、お前は結局、役割を選ぶのか。そんなもん、そんなもんないってわかってくれたもんだと、俺は……」
「違うよ、ヨキヒト君。風はね、やらなければいけないからするんじゃない。やりたいからするんだ。これは自分で決めた事だよ」
不可視の壁、風の防壁を隔て、2人は静かに言葉を躱す。
声は、声は震えていないだろうか。それだけが海原は心配だった。
自分がこれ程までに、荒れ狂う感情に飲まれそうになっているのに、目の前の友人はどこまでも何処迄も、ただ美しく、そして凪の如く静かだった。
それが、とても悲しくてーー
腹が立つ。
ぎり。
奥歯が、軋んで音を立てた。
「マルス」
"コピー PERK ON 鉄腕"
ガキイイイイン。
振りかぶるは右腕。鉄の如く硬化した右腕を風の壁に打ち付ける。
数多の怪物の皮を、肉を裂いてきた海原の牙はーー
「ダメだよ、ヨキヒト君。怪我するよ」
「ぐっ、オッ?!」
そのまま弾かれ、尻餅をつく海原。
音もなく吹き続ける風の壁に遮られた。突き立てる事も、傷をつけることも能わず。
壁の外に微笑む友の顔に翳りをもたらすのみ。
ゆっくりと、ウェンが尻餅をついた海原に視線を合わせるが如くその場に、しゃがむ。
その眼差しは優しく、そして綺麗なものだった。
「ヨキヒト君、キミの風を見るその眼が好きだった。風を、ただ1人の無力な個人として認めてくれる、その眼が本当に好きだった」
「……お前、何を言って……」
みしり。地面から音が、そして、振動を感じる。
「キミの唇が好きだった。キミの心の中から生まれた言葉を伝えてくれるその唇が好きだった」
細い指が、細い腕が海原に向けて伸ばされる。届く事はない。
ウェンの手が海原に触れる事は、もう無い。
「キミの歪さが好きだった。ただの人間、それでもキミはまるで英雄かの如く、風を救ってくれた。救うだけの筈の風を、キミが今度は救ってくれた」
ジリ、ジリ。
地面から音が、本格的に鳴り始める。
「お、オッさん、これ……地面が浮いて……!! あ……おい! ウェンフィルバーナ! 早く来い!! 風の壁を解け! 早く!!」
田井中が何かに気づいたようだ。ウェンに向けて怒鳴る。
ズズズズズズ。
気付けば、少しづつ、少しづつ。ウェンと海原の目線の高さがズレていた。
ウェンが下に、海原が上に。
2人の位置がズレていく。
「……残る気か。ウェン」
「ああ、そうだよ、ヨキヒト君」
尻餅をついたまま、海原がポツリと呟く。同じようにウェンも零すように小さく、言葉を。
「これはね、初めて出来た風の願いなんだ。キミ達に進んでほしい。笑って未来を迎えて欲しい。うん、自己満足というやつだね」
「……そこにお前はいないんだぞ。ウェン」
「ふふ、ああ、怒ってるね。素敵だ、怒った目も、怒った声も好きだよ、ヨキヒト君…… うん、構わない、風がその未来に居なくても構わないよ」
ウェンの眼はどこまでも、どこまでもまっすぐで。
深い海の底を覗き込んだような感覚に海原は襲われる。見るだけで脱力してしまいそうになる。
「なんでだ…… なんで1人で決めちまうんだ…… なんでお前が残らないといけないんだよ」
ダメだ、もう。
声が、上ずるのを止められない。それはウェンが本気で残る事を既に決めていると理解したからだろうか。
「……泣かないで、ヨキヒト君。風はこれから風がやりたい事を終わらせに行く。キミ達の世界を終わらせはしない。アリサの……英雄のやり残しを、片付けに行くね」
「……一緒に、一緒にやればいいじゃねえか。お前はまたそうやって1人で!!」
「ダメだよ、キミにはほかにやるべき事があるだろ? それに、キミはこれから地上に何が起きるか知っているだろう? 大丈夫、そんな事はさせないよ」
「お前何をしようとしてるんだ?」
ウェンは笑う。海原は笑えない。
ズズズズズズ、また地面が高くなる。
風に区切られた空間、海原と田井中のいる半径7メートル程の円形のスペースだけが、切り取られたように、徐々に、浮いていく。
「ギ、ギィイ、ギイイイイイイイイイ!!!」
遠くから響くのは怨嗟の声。聴き忘れるはずもない仇の声。
「ああ、やはり死んでないか。次は彼方まで消し飛ばしてやろう。安心して、ヨキヒト君。キミを狙う障害も、風が始末しておくからさ」
「だから! 待てって!! これじゃ、これじゃああの時と同じじゃねえか。いやだ! いやだいやだ! 俺はもう、もう二度と仲間を置いていけねえ!! 置いていかないでくれ!! 一緒に、一緒に……」
四つん這いで海原は風の壁に縋る。鉄とかした腕で何度も、何度もその壁を、殴り続ける。
何も変わらない。ただ、地面だけが少しづつ、少しづつ上に。
「……キミは生きる意味を探していたね、ヨキヒト君。キミの友の言葉通りに」
「は、なんだ、なんで今そんな事…… 今はそんな事……」
「安心しなよ、ヨキヒト君。キミはとっくに己の生きる意味を知り、その意味に従って生きている。後は、それに気付くだけさ。キミはその答えを既に持っているんだからね」
何を、何を言っている、ダメだ、ダメだダメだ。
海原の脳裏に、鮫島との別れの瞬間が浮かぶ。
また、なのか。
「ギイイイイイイイイイ」
砂原の向こうから、敵が、海原が滅ぼすべき敵がかけて来るのを見下ろす。
既に、海原達のいるスペースは宙に浮く浮島のようになっていて。
「ウェン!! 来い! 一緒に! もう1人になるな!!」
「ヨキヒト君、進め、例え共にいれなくてももう風は1人じゃあない」
伸ばした手はとどくはずも無い。人が伸ばした手を、風は掴む気すらなかった。
「俺は……俺は……」
浮島が更に浮き始める。既に海原の目線はウェンの頭の天辺を覗けるほどに。
でもそれでも、まだ手を伸ばせば、互いに手を伸ばせば届く距離でいてーー
「頼むから……」
泣きだしそう海原、対照的にどこまでもウェンは朗らかに笑っていて。
「誇ってよ、ヨキヒト君。キミの在り方はこの風を、ウェンフィルバーナ・ジルバソル・トゥスクの呪われた在り方を変えてくれた」
伸ばされた海原の手に向けて、ウェンの手が伸ばされる。
「嬉しかった。そうやってキミは風を大切にしてくれる。キミのその当たり前の善意が本当に嬉しかった」
伸ばされた手がひらひらと、別れを告げるようにーー
「だから、誇って。ありがとう、善き人、またね」
その手が、最後まで触れる事は無くーー
「ウェン!」
「ああ、やっぱり。キミに名前を呼ばれるのが好きだなあ」
泣き笑いのようなウェンの表情。
ダメだ、やっぱり、置いてーー
思考が続いたのはそこまでだった。
「っぐ?!」
突如、浮島が一気にロケットのような勢いで真上に射出された。
何のことはない、納得も、理解も充分な別れの言葉も無く。
ウェンの姿はもう、遥か下方。
すぐさま見えなくなり。
「がっ、オッ……さん」
"警告…… 強烈なGを、感知…… 対G PERK無し…… 血流の、操作を……クソっ、ヨキヒト……"
「っ、ぐ、?!」
過度にかかるGにより海原の視界は真っ黒に塗りつぶされていった。
ウェン……なんで……。
その思いは言葉に、ならなかった。
………
……
風の壁はきちんと彼らを守ってくれただろうが。
無事にキミ達が進む事をただ、祈る。
「ギイ」
眼前の化け物、それを睨む。
ああ、ヨキヒト君にはもう1つ嘘をついてしまったな。
でも言えないよ。この化け物を斃す為に残ったなんて。
あんな言い方しないと、キミはきっとどんな方法を使ってでも逃げてくれないだろうからね。
初めから、勝ち目が薄い事は分かっていた。
今の自分に全盛期の力はとうになく、あるのはおばあちゃんの作ってくれた弓と矢。己に付き従う僅かな風達のみ。
ああ。
成る程。
「ギィイいお」
「醜いね、どうしたらお前のような生命が生まれるのだろうか」
やはり、風の、私の考えは正しかった。
コレは、ダメだ。
目の前にて、立つその生命を眺める。
コレを、彼と、海原善人と戦わせてはならない。
きっと彼はコレを討ち亡ぼすだろう。しかしその時彼はきっと、どんな手段をも厭わない。
あの外なる生命を宿す彼が、手段を選ばないとなると末路は1つ。
アリサ・アシュフイールドと同じ路だ。
彼を、海原善人を英雄にするつもりはない。
彼はただの人間、ただの善き人としていて欲しい。
だからこれは、自分のわがままでもあるのだろう。
「ぎひ、ぎひ、ひひひひ」
「ああ、臭い。臭いな。お前人間を喰ったな」
目の前の化け物から良くない風が香る。甘く熱く冷たく辛く、ありとあらゆる香りが集う匂い。
人間の臭いだ。
「……誰を喰った、答えろ。貴様もまた青き血のモノならば、このウェンフィルバーナの令に答えよ」
「ぎひ、ギヒヒヒヒヒヒ、う、ううう、ウウウミミミミハラアアア」
嗤うその化け物を見て、私は感じた。
コイツだけは、海原善人に合わせてはダメだ。
彼とコイツの衝突は、残酷すぎる悲劇になる。
彼に相応しいのは未来だ。過去に彼の邪魔はさせない。
海原 善人の未来の邪魔はさせない、この命に代えても。
全力の風をぶつけて吹き飛ばしたに関わらずコイツの体には文字通り傷1つ、ない。
槍をゆっくりと、にへらにへらと笑いながら構える。
コイツだけは、ここで始末する。
手足が重い。連続で使い過ぎた力は反動となり身体を蝕む。
気を抜けば崩れ落ちてしまいそう。
でもなぜだろう。何処からか力が湧いてくる。折れそうになる足を、下ろしてしまいそうになる腕を、その力が支える。
こんな気持ちははじめてだ。
例えここで、死ぬとしても。もう二度と会えぬとも。共にいる事が出来ぬとも。
あれだけ空っぽだった私の胸に、こんなにも沢山の思いが詰まっている。
名前を呼んでくれる声が好き、見つめてくれる眼差しが好き。
例えもうそれが自分に向けられる事などなくとも、キミを守る為なら、キミの為ならばーー
こんなにも力が湧いてくる。
「ああ」
溢れる吐息、こんな時に思い出した。元いた世界の最期の日を。
誰も知らない歴史を決めるあの日のことを。
どれだけ叩き潰しても立ち向かって来たあの冒険者、いやーー。
彼も何かを守る為に私に立ち向かって来たのだ。
今、ようやくわかった。最期の敵、君の強さの理由がようやくーー
「こんな気持ちだったのか。まったく強い訳だよ。タンサクシャ」
気付けば私は笑っていた。
紫の矢羽、一族の伝統工芸品を番える。弦を引き、片目を瞑り、狙いを絞る。
願わくば、願わくば。
あの善き人に、幸いをーー
ただ、涼やかで暖かな風だけが彼の背中を押してくれますように。
私は、矢を放ったーー
「ギイ」
化け物が、迫るーー
読んで頂きありがとうございます!
宜しければ是非ブクマして続きをご覧ください!




