DAY7 最後の日。
「鮫島っ!!!」
ガバリ、海原が身体を起こす。頭皮に感じるかゆみに思わず手を持っていき、バリバリと掻き毟る。
掻き毟っている内に、先ほどまで見ていた夢が一気に霧散していく。
忘れる訳がないと思っていたその内容はいつのまにか輪郭を思い出せなくなり、あっという間に自分が夢を見ていた、という事だけしか分からなくなっていた。
あれ、なんか、凄く嫌で重大な夢を見ていたような……
「……明る」
辺りを見回すと、そこにはいつのまにか朝がやってきていた。闇は嘘のように消え、辺りの輝く砂は世界を光で満たしている。
まるで、夏の早朝のようだ。目を瞑ると鼻の奥にアスファルトの湿った匂いが一瞬、本当に一瞬だけ蘇えり、そして消えた。
「……まだ寝てんのか」
青白い焚火がまだ燃えている。火の番をするといったウェンはその真ん前でモコモコの服に身体を埋め座ったまま寝ているようだ。
ピクリとも身動きしない。
木のウロの裏側からは、スー、スーという寝息が聞こえて来た。まだ、田井中も眠っているらしい。
海原は、キャンプの朝に周りに先んじて目が覚めてしまったような奇妙な罪悪感を感じた。
もういちど、寝るか? そう思い身体を攀じる。
べとり。
うわ、気持ち悪。シャツが汗でねとりと張り付く。
ある程度泉の水で洗濯していたとはいえ、また汗をかいていたらしい。
そういえば最後に水浴びをしたのは……
"4日前です。ヨキヒト。怪物種、パックスの襲撃前があなたの最後の自発的な水浴びになります"
「マジかよ、マルス。俺、これ相当臭いんじゃね」
"ネガティブ…… 5日目、我々が活動を中止していた際にある程度田井中が、水で濡らした布で拭いてくれていたらしいですが、まあ、その衛生的に理想な状態ではありません"
「え、田井中そんな事してくれてたのか? 悪りぃ事させたな、男の身体を拭かせるなんてえげつない事を。後で謝っとかねえと」
"……いえ、それは恐らく大丈夫ですよ。ヨキヒト。ええ、本当に"
「……そうか? まあ、後で軽く言うとくわ。少し水浴びしておくか」
くんくんと海原は自分の匂いを嗅ぐ。いまいちよくわからないがなんとなく匂いが濃い気がしてならない。
「あいつらが起きる前にちゃっちゃっと浴びるか。マルス、悪いが一応周辺警戒頼む」
"ポジティブ ヨキヒト。今のところ敵性反応はありません"
海原はカピカピになっているシャツと肌着をその場に脱ぎ捨てる。所々ほつれて、穴が開いている。これまで、数多くの戦闘を経た証だ。
そういえば、スラックスの裏地とか雪代が偶に、当て布してくれたりしていたっけ。
海原はベルトを外しながらぼんやりとそんな事を考えた。
靴下は洗濯して乾かしたままだ。さわ、さわ。なんとも言えない砂の感触を素足が拾う。
つぴ。
泉に足を踏み入れる。
この泉の中に危険な生き物がいないのはほぼ日常になりつつある地下での生活の中で分かっていた。
「冷た」
"ふむ、先日の夜間期の間で地表の熱も冷めたのでしょうか? バイタルに異常はなし、許容範囲内の温度です、ヨキヒト"
それでも冷たいもんは冷たいっての。
海原は慎重にゆっくりと歩を進めていく。
ふくはらぎ、ふともも、下腹。水に浸かる面積はどんどん多くなっていく。
「あー、気持ちー」
ざばり、ざばり。腹のまで水が届く辺りで歩を止める。泉の真ん中手間ほどだ。
水を掬い、顔を洗う。
汗と脂が凝り固まって、逆にすべすべした肌の感覚。
冷たい水が皮膚を引き締める。
「あー、最高。もう友達とかいらねー」
水音すら、心地よい。身体の内に燻る嫌な熱も冷めてくる。
"感覚共有開始、ああ、この感覚。熱いシャワーとはまた違う…… いい"
ばちゃり。
水を搔きあげて、頭を洗う。騒めく水面、じっと動きを止めると澄んだ水面を通して水底が覗く。
ぷくぷくと泡が溢れてくる。下から湧いているのだろうか。
ああ、なんかいいな。こういうの。
海原は息を長く吐きながら、その冷たさに身を任せる。
「……なあ、マルス。ラドン博士の言っていた事なんだが。あの夜がもう一度くる…… あれってやっぱり本当の事なのか?」
"……内容はどうあれ、ラドン・M・クラークについて言える事はただ一つ。アレは決して嘘を吐く事はなく、また間違える事もない生き物という事です、彼が来ると言えば来ます。ええ、残念ながらそれは間違いではないでしょう"
「なるほどね…… りょーかい」
海原はそう呟き、ぼうっと泉に腹まで浸かりながら立ち尽くす。
顔から垂れる雫が、水面に沈む。余計な事ばかり考える頭が冷めていく。
まあ、たちまちここから脱出する事が優先か。田井中、田井中にもその内話しておかないといけないだろう。
ぼんやり、海原がそんな事を考えていた時だった。
「ひゃっ、あ! よ、ヨキヒト君?!」
「ん?」
そう遠くない岸の方、背後から短い悲鳴が聞こえた。
ウェンだ。
両手で目を覆いながら口をパクパクと開けている。
いや、お前それ隠せてねえよ。指の隙間からがっつり目が見えてるんだけど。
「……逆だろ、普通」
「えっ?! いや、違うんだ、ヨキヒト君、決して覗こうとか思ってたわけじゃなくて……! 明るくなったらいつのまにか眠っちゃって……その、水音で目が覚めて…… あわわ、こ、こっち向かないで」
「ん、ああ悪りぃ、見苦しいもんを。えーと、悪い。見えてる?」
「み、見てないよ!! 風は見てないとも!! そのたくましい二の腕や、膨らんだ胸筋に、薄っすらと縦に割れた腹筋になどまったく興味は微塵もないんだから!!」
「いや、ウェン。なんの話だよ。あとやっぱりお前隠せてねえよ。指の隙間からがっつりその綺麗なお目々が見えてるぞ」
「は、はぁーー? ヨキヒト君、いくらヨキヒト君でも風を男の身体を覗く痴女扱いは許さないよ! あ! わわわわ、分かった、そういう事だね!」
長い耳を真っ赤に染めたウェンが、急に開き直ったかのように叫んだ。
いそいそと、動いたと思うとそのモコモコの民族衣装のようなものを脱ぎ捨てる。
輝く半裸の美人が、半泣きの表情で近付いてくる。
いや、お前は一体何が分かったんだ。多分だけど何も分かってねえよ。
海原はあまりの事に言葉を失い、心の中でぼやく。
キャミソールのような肌着1枚になったウェンが、固まる海原を余所に、ぱちゃり。
泉のほとりに足を踏み入れた。
「ここここここ、これでいいんだろう!? ふふふふ、これで対等だよ、ヨキヒト君! 風だけが覗いたんじゃあない! キミもだ! ヨキヒト君も風の肌を覗いたことになる! つまり、これで対等だ!」
「え、ええ… なんか押し売りと強盗に同時に遭ったような気分になるな。その言葉」
ウェンの細く、それでいて長い脚に海原はどうしても目が行く。白い肌は赤く染まる、それでもウェンの歩みは止まらない。
泉をかき分け、近付いて来る。
「あ、ああ!! そうさ! もういいさ! 見たとも! 見ましたとも!! キミのご明察通り、風はキミの身体をしかと見ていたとも! ふ、ふん! 服を脱ぎ始めた時から、横目でチラリと見てしまっていたとも! 」
「落ち着け、ウェン。なんかもう色々落ち着け」
「お、落ち着いているよ! もういいじゃないか! 風はキミの胸筋や腹斜筋群を見る、キミは風のふとももやお臍を見る! もうそれでなにも要らないじゃないか!」
そのしなやかな肢体が泉の中を進む。薄くてもきちんと膨らんだ胸や、細い肩や首にどうしても目がいく。
くそ、残念バカ美人エルフが。
海原は舌打ちしながら目を背けた。
「あ、あー! ヨキヒト君、今目を背けたね! 何故だい、そんなに風の身体は見苦しいのかい?! たしかにキミのように肉付きは良くないがこれでもきちんと、部族の修練は怠ってはいないんだよ!」
「いや違う違う、痴女エルフ。色々なとこが見えてんだよ。お前の身体はフェチが多すぎる。てかどういう発想? 覗きがバレたら服を脱いで、相手も強制的に覗き犯にさせるってどんなテロだ」
「ふ、ふふふ。風は1人では滅ばない。滅ばないとも」
「やめろ、そんな座った目で俺に近付くな。てか、胸!! キャミがはだけてんだよ!! 直せ、すぐに!」
腹の辺りまで泉に浸かったウェンに海原は叫ぶ。ずんずんと近付くウェン、立ち尽くずんずん海原。両者の距離は3メートルもない。
「へ? あ、…… ふふ。ヨキヒト君のスケベ」
赤い顔をしながらそれでもニヤリと笑うウェン。
「頼むからその早く隠せ。おい、屈むな。見えるから、お前の大きさだと見えるからマジで」
「む、ふふふ。アレ、どうしたんだい。ヨキヒト君、そんなに顔を真っ赤にして。目を背けないでくれよ。少し、傷付く」
「だから、屈むな。なんでそんなキャミなのにぶかぶかなんだ。おばあちゃんの肌着か」
「む、おばあちゃんをバカにするのはヨキヒト君でも許さないよ。ほら、目を背けないでよ、ねえ、あれ、なんか楽しくなってきた。なんだろ、コレ」
「やめろ、頼むからへんな性癖に目覚めるな」
顔を真っ赤にしながらもウェンが海原ににじり寄る。泉の中で2人の距離は縮んでいく。
「っ……」
透明で澄んだ水の中、海原はついウェンの脚に目を運んでしまう。白磁で造られたような造形の脚が、水の中で屈折していた。
「ふ、ふふ。ヨキヒト君。今また見たよね…… これでおあいこ、風たちは対等だよ」
「だから、その力技を止めろ、ああくそ。地上に戻ってからが思いやられる」
何気なく呟いた一言。
ん、なんだその顔。
海原には分からなかった。ウェンが何故急に押し黙り、信じられない物を見たかのように大きく目を見開いている理由が。
「よ、ヨキヒト君、今なんて?」
「ん? いやじゃけえ、向こうでそのノリはやめてくれって」
「いやその前だよ、地上って言わなかったかい?」
「……話が噛み合わねえな。当たり前だろ。地上に戻った後の生活でよ、いちいち裸見たぐらいで逆セクハラをするなって言いたかったんだけど」
今度こそ、ウェンの身体の動き、その全ては止まった。
宇宙閉じ込めたような虹彩の瞳が、濡れたように歪む。
「……キミは、もしかして風を地上へ…… 一緒に着いて行ってもいいと言ってるのかい?」
「え、あ、うん。え、来ねえの? 嘘、俺もう普通にこのまま田井中とウェン3人で高校に戻る気満々だったんだけども」
「……でも風は人間じゃあない。キミたち人間種とは厳密に言えば種族も違うんだよ」
長い耳がぺたりと下がる。先ほどまで顔に浮かんでいた笑みも消え、代わりに愛想笑いのようなものが現れた。
なんか、ムカつくな。その顔。
海原は言葉を紡ぐ。己の心から浮き上がるモノをそのまま言葉に。
「ウェンの耳ってぴこぴこして可愛いよな。ヘソも小さくて、首や肩も細い。細可愛い。白い肌とか銀の混じった髪とか、マジエルフ。俺はお前が凄いそそる、人間の俺がそそるのだからお前もまた人間、はい終わり」
「へ……?」
「聞いてなかったのか? つーかお前、俺たちを選んでくれたろ、化け物どもの管理人じゃなくて、俺たちの方を選んだろ」
「で、でも、風は、昔……」
「ああ、その昔話もよ、俺らの基地にたどり着いたらまた聞かせてくれ。つーかこの流れでウェンが一緒に来てくれなかったら、俺は悲しい。田井中も寂しがるぞ」
田井中の名前を出したのは少し卑怯だったか。許せ、田井中。今度お前の好きなパイナップルの缶詰探してくるから。
海原が心の中で田井中へ言い訳を念じたその時、意識を逸らしたその一瞬。
泉をかき分ける音と、少し遅れて、フワリと甘い匂いの、桃のような匂いが香った。
「ありがとう、ヨキヒト君」
「え?」
気付けば、海原はウェンに抱き着かれていた。
2人の身長はほぼ同じ。ヨキヒトの首にウェンの鼻がこすりつけられる。
それよりも身体の感触がヤバかった。しなやか、しかし己の身体より何倍も柔らかい。
花と桃が混ざり合ったような脳に来る良い香り。
ウェンに、抱き締められていた。
「……え」
「……ふふ。硬い……」
その指先が、首筋に。
切り揃えられた爪が胸筋を這う。
ぞくり、背筋に走る。
「お、おい。ウェン……」
「ごめん、もう少しだけ…… もう、少しだけでいいから」
すんすんときこえる呼気の音。
「嗅ぐな、バカエルフ」
「ふふ、許せ、愚かな人間種…… 貴様から好き風が香るのが悪い…… なんちゃって」
海原の首筋に顔を埋めていたウェンがいたずらげに舌を出す。
「ヒッ」
ペロリ。
「あは、しょっぱい」
怪しげな瞳、宇宙を閉じ込め、綺羅星のような瞳が海原の黒茶の瞳と交差する。
「……からかうな。ウェン」
「ふふ、まだ睨んでくれるんだね、ああ、キミはやはり面白いな」
やばい。
こいつ、こんなに美人だったのか。怪しさに似た美しさ、魅了されそうになる心を引き締める。
あ、唇、近ーー
"止まれ、ウェンフィルバーナ。ヨキヒトに何をしている"
「……ふふ、マルス。御主人様離れが出来ていないみたいだね…… ふふ、ヨキヒト君、怖い番犬に目をつけられちゃった」
続きは、また、ね。
唇の動きがそう囁く。
海原は金縛りに遭ったかのように動けない。
頭は冷えているのに、心臓の鼓動がやけにうるさい。
「……アホか。俺は」
岸辺まで戻ったウェンが肌着のままその場に脚を伸ばして座り込み笑う。
妖精に化かされたような気分だ。
海原は一つため息をついた後、泉に顔をつけてぷくぷくと息を吐いた。
火照った顔を冷たい水が冷ましていく。
ばしゃりと顔を上げると、いつのまにか目を覚ましたらしい田井中が、岸辺に座るウェンに服を着せようと格闘している姿が在った。
奈落の生活、7日目。
最終日が始まった。
………
……
…
ありがとう。本当にありがとう。
貴方は最後まで、人として扱ってくれた。対等な友として、仲間として見てくれた。
そのことが嬉しくてたまらない。
叱ってくれてありがとう。
止めてくれてありがとう。
助けてくれてありがとう。
救ってくれてありがとう。
うん、決めたよ。
キミは、キミ達こそが未来に進むべきだ。
キミ達のいるべき場所はここじゃない。墓所にも、箱庭にもいるべきじゃない。
ここはもう終わった所なのだから。キミ達は次に進むべきだ。
奈落を征く、奈落を逃れる生存者に幸あれ。
キミ達の障害は今、全てが除かれる事が決定した。
救わなければならないのではない。
助けなればならないのではない。
ああ、こんなのは初めてだ。
救いたい、助けたい、力になりたい。役割の為じゃない。
ただ、そうしたいから、そうしよう。
弱くて優しくてそれでいて、強く甘くない人。
貴方の力になりたい。
だからね、貴方には生きて欲しい。
共に行く事が出来なくとも、共に生きる事は出来なくとも。
行って、生きて。
貴方の成すべき事を叶えてほしい。
そして笑っていて欲しい。
たとえ、そこに共に居る事が出来なくてもーー
ああ、ようやくわかった。
これ、こういうのが願いって言うんだね。
当たり前に一緒に居てくれようとしていた貴方の力になりたい。
これが始めて出来た、風の願い。
願われる、乞われるばかりだったか風が初めて抱いた祈りの形。
生きてーー
笑ってーー
例え、そこに風はいなくても、それでいい。
うん。
したい事をしたいようにするだけだ。
読んで頂きありがとうございます!
宜しければ是非ブクマして続きをご覧下さい!




