皿洗い
「よう。やってんな田井中」
「あ? オッさん、どーしたよ。ウェンフィルバーナにセクハラでもされたか」
「されるかよ。んな事。手伝いに来たんだ。ウェンが眠そうにしてたからな。少し席を外した。あとは俺がやっとくからお前も少し休め」
ジャブ、じゃぶ。泉の水が跳ねる。
青い灯に照らされた水面が僅かに揺れる。灯の届かぬ部分はまさに深淵。照らされている部分のみが人間が踏み入れていい場所であるかのような。
「あともう少しだからいーよ。それより、オッさん、アンタこそ休んでろ。さっき目覚めたばっかりだろうが。怪我人は素直に寝ろ」
「遠慮するなよ、田井中。まだ結構量あるじゅねえかよっと。改めて見るとすげえ高そーな食器だな、おい」
海原は重ねられた食器の1枚を手に取り、青い灯で照らす。しっとりとした手触りに、複雑な装飾が邪魔にならない程度にあしらわれている。
灰色がかった色味が青い灯に照らされて鈍く光る。
「つーかよお、使う機会の無い奴に限って食器とか気合い入れてる奴多いよな、オッさん」
「田井中、それウェンには絶対言うなよ。いいじゃねーか、事実今こうして役に立ってんだから」
「へっ、まあ、それもそーか。あ、オッさん、洗ったのはこっちにまとめろよ。バラバラにするとわかんねーだろうが」
かちゃかちゃと、男2人がしゃがみ並んで泉で皿を洗い続ける。
「へいへい、にしても綺麗な水だな。……地下なのにこんなオアシスがあったり、明るくなったり、暗かったり、化け物がいたりよお。まったくわけわかんねえ場所だな」
「……それでもアンタはこの場所に順応してると思うけどな。オッさん」
「……俺が?」
「なんだよ。自覚がねえの? ……まあオッさんだから仕方ねえか」
「なんだよ、それ。どういう意味だ?」
「それだよ。アンタはやっぱりあの時からなんら変わってねえ。覚えてるか? あの夜、アンタ達がよ、避難先であるうちの高校に逃げ込んで来た時のことを」
田井中の横顔を青い灯りが照らしている。こちらへ向ける流し目、うわ、こいつまつげ細っ。海原は何故かその視線から目を逸らしてしまった。
それはまるで女の裸体を間違えて見かけてしまったかのような罪悪感にも似たーー
「俺は覚えてるよ。兄貴のおかげでやっとの思いでたどり着いた体育館、どいつもこいつも辛気臭せツラしてやがったのをさ。まあ、それは俺も同じだったけどな」
「ああ、あの時か。今思うと、ほんとよく生き残れたと思うよ。日頃の行いだろうな」
「ケッ、どうだかな。なあ、アンタ、あの時自分がどんなツラしてたか本当に覚えてないのか?」
田井中の言葉に海原は首をひねる。皿についてある油を水に浸し、手のひらでこすり落とす。
「んー…… よく覚えてねえが…… まあ、酷えツラだったんじゃねえの? 雪代の手を引っ張りながら息も絶え絶えでたどり着いたわけだしなあ」
必死で記憶を探るも上手く思い出せない。とにかくしんどかったとのと、後はーー
あ、頑固な油汚れ。洗剤欲しいなあ、と海原は呑気は事を考えていた。
「笑ってたよ、オッさん。アンタは、あの夜ずっと笑ってた」
「……笑ってた? 俺がか?」
「ああ、アンタはずっと、周りの大人達がよ、泣いてるガキほっぽり出してパニックになったり、俯いて死にそうな顔してるときに、笑ってた。アンタだけは、まるで何かとてつもない楽しい事を目の前にしたように、目を輝かせて、静かに笑ってた」
ええ…… それなんかヤバい奴じゃん。海原は思わず顔をしかめる。
「マジで? あんま記憶がねえんだけど」
「俺は今でも覚えてるよ、オッさん。その白いワイシャツにべっとりと青い返り血を浴びたアンタが、あのおっかない女の隣で静かに笑っていたのを。……俺は、覚えてる」
「うわ、確かにあん時雪代と一緒にいたわ。……我ながらやべえ奴じゃの」
「はっ、確かにな。案の定やべえ奴だったしな。正直ドン引きだった…… でもよ、俺はあん時アンタの笑顔を見て、こうも思ったんだぜ、なんとかなりそうだってな」
「返り血浴びて笑ってる男を見てそんな感想出るか?」
「ははっ、自分で言うなよ。まあオッさんの言う通り普通の世の中じゃあ、あん時のアンタは即通報モノだったな。けどよ、こんな世の中だ。あんな目に遭ってまだ笑ってられる奴が居れば、ほんの少しだけ安心すんだよ」
かちゃ、かちゃ。水の跳ねる音が陶器の上を滑る。
辺りにゆるく吹く風が、青い灯に照らされた水面にわずかに皺を生んでいた。
「田井中、お前もなかなか変わった趣味してんな。お前にそう思われていたとは夢にもって奴だ」
「けっ、うるせえよ。あの女よりはマシだ。なあ、あの時アンタと一緒に居たあの女、雪代長音がどんな顔でアンタを見てたか、これは知ってるか?」
「雪代が? どーだろうな。アイツ体調とかその日の気分でキャラが迷子になるから…… まあ相当怯えてたんじゃねえの? アイツ、ビビりだからなあ」
「笑ってたぜ。あの女も。アンタの笑顔を横目でチラチラ眺めながら…… 頰を赤く染めて、溜息つきながらアンタを見て、咲ってた」
田井中の言葉がやむ。不思議と風が少し冷え始めたような気がした。
「……笑顔が多い事はいい事だよな、田井中君」
「いや、少なくとも俺は返り血浴びた男の隣でその臭いを嗅ぎながら笑う女はどんだけ美人でもゴメンだ。ご愁傷様、オッさん」
「いやいや雪代がそんな…… でも、う、うーん、たまにアイツ闇が深い事言ったりするからなあ…… ま、まあでも根はいい奴なんだよ」
「へっ、まあアンタがいいんならいーさ。なあ、オッさん。アンタが前に俺に言った事、覚えてるか?」
「前? ……えーと……」
「はあ、なんだよ、締まらねえなあ。暴走から目が覚めた後に言ってくれた言葉だよ、恐怖を焼き尽くせって奴。カッコつけたならよお、覚えとけっての」
田井中がカラカラと笑う。年相応の少年の笑顔に海原は安心した。
「おお、あれか。正直、あの時はお前の事心配してたけど、流石だな。もう大丈夫じゃねえか、昨日……えーと、もう一昨日になってんのか。怪物に囲まれた時には助かったぜ。流石は田井中だ」
海原はその笑顔に合わせるように笑いながら田井中へ言葉を向ける。
かちゃん……
田井中の食器を洗う音が止んだ。笑顔は、みるみる間に消え去り、ゾッとするような目鼻立ちの整った貌だけがそこにあった。
「……ほんとにアンタにはそう見えてんのか?」
掠れるような声、しかしそれでもきちんと聴こえている。
なんだ、急にどうした? 海原は田井中にそのまま話しかけようとしたとき、ソレに気付いた。
かた、かた、かた。
食器が、田井中の手に掴まれている食器が震えている。いや、違う。
田井中の手が震えているのだ。
「田井中…… お前、ソレ……」
「……へ。見られちまったな。……いや違うな。見てほしかったのかも知れねえ。……笑えるだろ? 見ろよ、まだこのザマなんだよ」
音もなく、滑るように田井中の手から食器が離れる。差し込まれるように静かな水面へと消えていく。
「……怪物はよ、怪物は大丈夫なんだ。アンタの言った通りだったよ、オッさん。ホットアイアンズで薙ぎ払ってやってるウチによ、すぐにビビりは消えたんだ……」
「田井中……」
「笑ってもいいぜ。なあ、オッさん、ここは暗いな……。暗い場所にいるとよ、どうしても思い出しちまうんだ。影山が死んだ時の事を、……樹原の野郎に殺されかけた時の事を……思い出す……」
田井中のチーターのようにしなやかな身体が、やけに小さく見える。
その絞り込まれた腕で田井中は己の肩を交差して抱いて居た。小刻みに震えるその身体を抑えるように。
「今でも、今でも覚えてるよ。アイツは樹原は俺を本気で殺そうとしていた。それこそ草でも毟るような気軽さで殺そうとしていたんだ…… あの目を思い出すと、まだこうなっちまうんだよ……」
乾いた笑いが水面に舞う。それはまだ高校生がしていい笑い方ではなかった。
「なあ、オッさん。俺は本当にコレを克服出来んのかな? 俺は、俺は樹原が怖くて堪んねえんだよ。あの目が怖い。人を人と見てすらいないあの目が恐ろしい。あの声が怖い、授業中に聞いていたの同じ声色で人を殺そうとするあの声が恐ろしい……」
青い灯が田井中の汗まみれになっている顔を移す。海原は黙ってじっと、それを聞いていた。
「オッさん、俺は、俺は樹原勇気が怖いんだ…… ここから出られたとして、そのあと…… その後だよ。俺は、俺たちはどうなる? また、アイツと戦わないといけないのか? 俺はーー」
縋るような目だ。濡れているようにも、見える。
海原の嫌いな目だった。
「ホット・アイアンズ。金属に触れさえすればその形を思いの通りに変えて自在に操ることが出来る能力。操る対象が近ければ近いほどその精度は高くなる。中距離が得意と思わせて遠距離にも対応可能、ならば近接戦はというと力の持ち主は全国でも有名なボクシングの選手、相手は、死ぬ」
「……あ? オッさん、何を?」
「俺の知ってる事だ、さっきの質問に簡単に答えるぞ。ーー知るか、自分で考えろ、だ。ここから出た後、俺はもうやる事を決めている。けど、田井中、お前の事は知らねえ。自分で決めろ」
「あ、え?」
「それともう1つ。お前の恐怖が消えるかどうか、これも悪いが俺には分からねえ。知らねえ。それはお前のモノだ。お前がなんとかするしか方法は、ない」
突き放すような言葉に田井中は静かに顔を伏せる。水面には何も映らない。
「はは…… だよな。悪りぃ、少し疲れてんだろうな。すまねえ、オッさん、つまんねえ事話しちまった……」
「まだ話は終わってねえ。そしてこれから話すのは俺が知っている事だ。いや、俺だけじゃない、基特高校の誰もが、そして今までお前と出会った全ての人間が、知っている事実だ」
顔を伏せた田井中に向けて、海原が静かに言葉を告げる。その手は止まらず食器を撫で続けた。
「……なんだよ、その知ってる事って?」
「お前が、忘れてる事だよ。よく聞け、田井中誠。みんなが知って、お前だけが忘れている事だ」
「んだよ、勿体ぶってんじゃねえよ」
田井中が顔を起こす。海原はその顔を見つめた。田井中が顔を逸らさないように、視線でその顔を逸らさせないように。
「お前はめちゃくちゃに強いって事だよ。警備チームリーダー、田井中 誠」
「え?」
「お前は確かに樹原の野郎に手痛い敗北を喫した。手足をちぎり飛ばされ、沈められ、打ち捨てられた。敗北だ、完膚なきまでのな。そりゃ、ビビっても仕方ねえよ」
海原は田井中の反応を待たずに好き勝手に言葉を紡ぐ。
あ、やべ。テンション上がって来た。海原は興が乗っていた。
「だが敢えて言おう。関係ねえ。その敗北はお前の強さを少し足りとも損ねたりはしていない。お前が忘れてんなら俺が言おう。お前は、田井中 誠は強い、俺は知っている、お前が一度負けたくらいじゃあ折れない男だという事を」
「お、オッさん…… アンタ……」
「お前は俺と違う。選ばれた側の、才能ある人間だ。簡単だ、お前はもう一度思い出すだけで良い。自分が何者かを、自分の立ち位置を、思い出せ。田井中 誠。お前が一体、何者なのかを」
青い灯の中。男たちの会話は続く。
「それだけで良い。それだけでお前は自分の進むべき道を見つける事が出来る、と俺は思うよ」
「……ケッ、なんだよ急に。カッコつけんならよお、最後までつけろっての……」
「こんくらいでちょうどいいんだよ、俺みたいな凡人にはな」
「凡人……ねえ。なあ、オッさん、アンタこの前言ってたよな。恐怖が嫌いだから戦うってよ。それだけでアンタはあの夜も戦ったのか?」
「……あー、恥ずいから言わないでおこうかと思ったんだがな。あの時は確か割と自分を奮い立たせたと思う。ノリノリにならねえと化け物なんか殺せねえしな」
「……どうやって奮い立たたせたんだ?」
田井中の目を見て、海原は小さく息を吐いた。誤魔化すほどのことではないか。そう、判断した。
「…私は死ぬ、私は死ぬ、私は生きる……」
唐突に海原が呟く。田井中に向けてるようで、自分にも向けているその言葉はあの夜、雪代の部屋へ突入する前に唱えた、とある異国の部族の言葉だ。
「……オールブラックスって呼ばれてたチームがある。ニュージーランドのラグビーナショナルチームの愛称でな。連中は試合の前に、全員で踊って唄うんだ、マオリ族っていう先住民族の戦いの舞踊をな」
「オールブラックス…… オッさん、それハカって奴か? オヤジが連れてってくれた日本でやってたワールドカップで見た覚えがあるぜ」
「なんだ、知ってんじゃねえか。つーか本物見たのかよ。そう、そのハカだ。学生の頃、試合出る前はいつもその歌の内容を頭ん中で再生してたんだ。生きる為に死にに行く、遠い異国の歌なんだが、妙にかっこよくてな…… 働き始めてからは忘れてたけど…、あの夜、気づいたらこの歌を思い出してた……」
海原はあの夜を思い出しつつ、田井中に向けてゆっくりと話し続ける。
皿の洗い残しがないように、手を動かし続けながら。
「私は死ぬ、私は死ぬ、私は生きる。一歩前へ、太陽の中へ。死ぬかも知れねえ戦いに赴く戦士の歌だ。怪物どもの溢れるこの世界にゃ、お似合いだと思わねえか?」
「……そうだな。生で見たアレはかっこよかった。そーいうの先に教えろよな、ったくよお」
田井中の声に、明るみが帰って来た。青い灯が揺れる。
田井中が水面に落とした皿を拾い、再び洗い始めた。
もう大丈夫そうだ。
海原は、一度目を瞑り、それから田井中に向けて声をかける。
田井中には、聞いておかなければならない事があったからだ。
「なあ、田井中。俺もお前に1つ、聞いてもいいか?」
「あ?なんだ? 教えて欲しい事でもあんのか?」
「……話したくねえ、思い出したくねえ事かも知れねえがな。……樹原の能力についてお前に聞きたい。アイツとやり合って生き残ってんのは田井中、お前だけだからな」
「……樹原の能力…」
「そうだ。あの田井中が、ホット・アイアンズが遅れを取る奴の能力について確認したい事がいくつかある。それを教えてくれ、田井中」
暫しの沈黙、2人が皿を洗う音だけが青い灯の届く範囲にだけ響いた。
ゆっくりと田井中が顔を海原に向ける。
「……いいぜ。話すよ。ただし、条件がある」
「条件?」
なんだ、それ。まあ、大抵のことならやるけど。海原はその田井中からの条件を待つ。
固まった田井中の顔がフッとほころんだ。
「ハカのこと、教えてくれよ。もう少し詳しくよ。それとオッさんの学生時代のことも聞かせてくれ。部活の話とかな。それで手を打つぜ」
頰を人差し指で掻きながら、田井中は笑う。
ああ、やはりコイツなら大丈夫。お前は強いよ。田井中。海原はしっかりと頷いた。
「ああ、勿論だ。ウェンが大量の食器を持ってるお陰でまだ皿洗いも残ってるしな。ゆっくり話そうぜ」
皿洗いの音と、2人の話し声が重なる。
結局、田井中と海原はその後1時間以上も皿を洗い続けた。
戻った時には、ウェンが仲間外れにされたといじけているのをなだめるのに更に1時間。
ゆっくりと夜に包まれた奈落の1日が過ぎて行く。
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