戦いの終わりに
マルスははっきりと己が焦っている事を自覚していた。
灯りが、己の宿主である海原善人の生命の灯りが消えそうになっているからだ。
周囲を確認ーー、目標、指定怪物種の反応消失。駆除を確認。シエラ0のバイタル微弱、生命維持に致命的なダメージを確認。
シエラ0が、ヨキヒトが目標を倒したことは事実だ。
本来ならば対怪物種用の装備を揃えたプロの軍人、一個分隊が最低でも必要なはずの目標に、海原善人は勝利した。
己の命と引き換えに。
くらい、暗い、昏い。光が、消える。心音微弱……、出血多量。
なぜ、貴方がこんなにも傷つかなければいけない? 身体中のエネルギーはPERKの酷使により枯渇、指は度重なる再生を経て皮膚の生成がうまくいっていない。
僧帽筋の裂傷、首筋の咬み傷。および怪物種の唾液による血小板の消失、それによる失血。
瀕死、今に死んでもおかしくない状態。
なんで、貴方がこんな目にあっているの? 貴方は何故、死にかけているのに笑っているの?
……あの女のせい?
ウェンフィルバーナ。得体の知れない正体不明の女。アレを助けようとした為に今、海原善人はこんな目に遭っている。
マルスは己の細胞の一片が熱く、発熱し始めている事に気付かなかった。
「……ゴホッ……マルス……悪……かったな……。無茶に付き合わせた……無事か?」
掠れるような声、目を閉じたままか細い声がマルスに向けられる。
'ヨキヒトっ、意識が! ダメ、喋らないで!'
「ふ……ふふ。良かった、元気そうだな……、安心しろよ、俺は大丈夫だ……、少し寝たら……また……」
海原の言葉はそこで止まり、ヒューヒューという奇妙な寝息が辺りに広がる。
死戦期呼吸。マルスの焦りは強まる。そんな死にかけの状態なのに、ついぞ海原は弱音を吐く事はなかった。
ただ、一言マルスの身を案じていただけだ。
似ている。やっぱりこの男はアリサ・アシュフィールドと同じだ。
マルスはあの最期の時を、アリサと共に奈落の底に辿り着いた物語の終わりの時を思い返していた。
ーー大丈夫? 本当に地獄の底まで付き合わせちゃったわね
あの時と同じ。奈落の底に辿り着いた傷付いたアリサをナオシタ時と同じ。マルスには今2つの選択肢があった。
ここで、海原善人を安らかに終わらせてやるのか、それとも無理矢理にでも生きる道を選ばせるのか。
ーーあたしを生かしなさい、マルス
あの時はアリサを生かした。奈落の底に眠る遺物と死にかけのアリサを繋ぎ合わせることでその命を繋げた。
その事は結果的にこの終わった世界の延命に繋がった。アリサ・アシュフィールドに過酷な運命を植えつけることと引き換えに。
今度はどうだ?
私は海原 善人をどうしたい。
マルスの身体を構成する細胞1つ1つが迷う。
生物としてのマルスにとって宿主の死とは忌避すべき自体ではない。宿主が死んだその時マルスは身体を手に入れる事になる。
マルスは、マルスになる前、大いなる一から別たれ地球の重力に囚われ姉弟とともに、世界に生まれ落ちた。
全てを支配せよーー
それがマルスのはじめの存在理由だった。
その逆らい難い生命としての衝動はラドン・M・クラークによる転生にも似た改造により薄められている。
それでも今、海原善人の死の予感に瀕したことでその衝動がわずかに滲み出ていた。
全てを支配せよーー、この星をーー
ラドンにより造られたプロトコルの内側から染み出てくるのは最初の命令。大いなる一より与えられた1つの命令だ。
私は、私は、私は。
我はーーーー
ーーゆびきった
溢れそうになる衝動を止めたのは、セーフモード、海原善人の深層心理の中で交わした2人の契約の記憶だった。
マルスをマルスとして認めてくれた人間。
ラドン・M・クラークは名前を、そして存在を与えてくれた。
アリサ・アシュフイールドは兵器だった自分を生命へと変えてくれた。
じゃあ、海原善人は?
ーーこれは俺とお前の対等な契約だ。
海原 善人はその2人に与えられた自分を、対等な存在として受け入れてくれた。
兵器としてでなく、生命としてでなく、対等な1つの存在として認めてくれたのだ。
ラドンとアリサが親だとするならば、ヨキヒトはマルスにとって始めて出来た友人だった。
ああ、だめだ。喪いたくない。
やっぱりだめだ。出来るわけがない。今更宿主の身体だけなんていらない。あんな暖かさを知った今、抜け殻で満足なんて出来るわけがない。
だめだ、貴方は死なせない。アリサが選び、アリサが救った人間。その身になんの特別な力も秘めぬ大凡なる人。
でも私にとっては唯一の人だ。
私はもう二度と私の宿主を、主人を喪いたくない。
'プロトコル Ⅱ 宿主と共に在れ'
ラドンが与えてくれた枷、私を私として定義するプロトコルを起動する。
つなぎ合った肉体を無理矢理に動かす。
ヨキヒト、貴方を生かす。安らかな眠りなんて貴方には似合わない。
'私はまだ、貴方と共に生きていたい'
やるべき事は決まった。ヨキヒトがどんな手段を使ってでも人狼を滅ぼしたように、私もどんな手を使ってでも貴方を生かそう。
それが私の生きる意味なのかもしれない。
マルスは行動を開始する。ぐちゅる、ぐちゅるるり。
海原の身体の底と繋がっている己の本体をまずは体外に伸ばす。口をこじ開けて、赤い粘液のような身体を外気に晒した。
'……プロトコルに従い、宿主の生命維持を開始……コード01を自己発行。倫理コード棄却処理開始………、倫理コード108までを消去、状況を開始'
海原の口からデロリと溢れる赤い粘液、おもちゃのスライムのようなマルスの身体がグネリと伸びる。
'うっ、あ。熱い、熱い……ネガティブ……外気による焦熱反応を確認……体が灼ける……'
粘液から煙が吹き出る。ぼとり、ぼとりと溶け落ちていく身体。
この星のものではないマルスの身体にとって例え奈落の空気といえでも地球の大気は猛毒だった。
たちどころにその粘液がぶくぶくと蒸発を始める。痛みを意思で捻じ曲げ、マルスは動き続ける。
'ヨキヒトや……アリサはもっと痛かった……この程度の…事で……'
どくん、どくん。海原が引き抜いた人狼の心臓がその手元で蠢いている。
ぱくん。粘液が未だ鼓動を続ける青い心臓を包み込んで飲み込んだ。
じゅる、じゅる、じゅる、嚥下される心臓、粘液の中でドロドロに溶かされていく。
キョロキョロと意思を持った赤黒いスライムがグネリと伸びる、近くで絶命している人狼の骸に向かう。
掛け布団をかけるように、マルスはその身体を薄く伸ばして骸を包み込んだ。じゅる、じゅる、じゅる。
繋ぎ合わせる。マルスの元々の生命としての能力。溶かして繋げる、捕食者としての機能を活用していく。
溶かされた怪物種の全ては、マルスの身体を通じて、根元である海原の身体へと流れ込んで行く。
ブルー因子、怪物種を怪物種としてたらしめるその因子を存在ごと吸収し続ける。
じゅる、じゅる、とくり、とくり。
進化した怪物種、人狼の骸はすぐさまマルスによって溶かされ生命のジュースとなって海原に流し込まれる。
人狼を飲み干したのち、マルスの身体はぐねぐねと姿を変えて行く。丸められた球のような形、静かな湖面のような滑らかさの表面が一気に泡立つ。
ぶちゅ、びちゃり。
球のようになった粘液が一気にはじけとんだ。多数の骸を並べる群狼の死骸に飛沫が飛び散る。
飛び散った飛沫はみるみるうちに大きくなり、その骸を溶かし始める。球体から伸びた管のようなものが溶かした液体をストローで啜るように吸い取っていった。
ものの、数分で海原が滅ぼした怪物種の骸は全てマルスによって溶かされ、吸収されていた。
美しい白狼も、雄々しい人狼も既にジュースとなって捕食者に取り込まれている。
ラドンが封じた本来のマルスが、怪物種を平らげる。兵器としてのマルスには本来備え付けられていない機能。
その全ての機能は海原善人を生かすというただ1つの目的の為に使用されていた。
その身を蒸発させながら命がけで骸から絞り出した生命そのものを、海原の身体に注入していく。
これはブルー因子を利用し、マルスを仲介しての進化ではない。
アリサが海原にしたような、マルスの移譲を利用した賦活でもない。
海原善人という消えかけの生命に、怪物種の生命を無理矢理に混ぜ合わせるというむちゃくちゃなやり方。
消えかけの火を維持しようとするために火炎放射器を向けるようなやり方だ。
とくん、とくん、とくん。
鼓動が弱い。
怪物種の生命を海原の身体に流し込んでいく。わずかに傷がぐじゅりと音を立てて治り始めていた。
'お願いします。ヨキヒト、答えてください。貴方はまだ死ぬべきではない……、お願い、ヨキヒト、1人にしないで…… アリサみたいにいなくならないで……'
スライムのようなマルスの身体を通して海原に怪物種のスープが届けられる。口から溢れたどろりとしたスープが、輝く砂に触れて固まった。
母親が病気の幼子を看護するように、マルスは祈りを込めながら作業を続ける。
'バイタル低下、脳波微弱……、なんで、なんで、起きないの……、ヨキヒト……お願い'
海原の意識は戻らない。出血は少しづつ収まり、顔色には赤みが戻りつつある。
しかし、マルスに伝わる海原の生命のサインはどんどん弱くなっていてーー
'嫌だ、嫌だ。もう1人はイヤ。ヨキヒト、ヨキヒト。……はかせ、ありさ……いるのなら助けてください……、ヨキヒトを助けてください…'
ぴく、ぴく。赤黒い粘膜、粘液が泡立ちその動きが止まりつつある。限界が近い……。
とくん、とくん、とくん…… 海原の鼓動はその戻らない、弱々しいままに頼りない鼓動を、今にも消えそうに続ける。
'ヨキヒト、だめ、だめ! 行かないで……、私はまだ、貴方に何も'
とくんーーー
「かーーはーー」
海原の鼓動が止まった。口から空気が抜け出て間抜けな音が鳴る。
それはまるで、魂が抜け出たような。
'ヨキヒト……?'
返事は、ない。
海原の体外に出ているマルスの身体が所々崩れ始める。限界がきた、大気に焼かれてボロクズになりながらマルスの身体が焼かれていく。
'……せめて、一緒に……、ごめんなさい……ヨキヒト…助けてあげれなくてごめんなさい……、アリサ……約束守れなくて……ごめんなさい'
海原の口を通してまだ無事な部分が体内に戻る。その死にかけの身体の冷たさが恐ろしい。
マルスはゆっくりと死に行く身体と同化する。
死が、終わりが近い、あれだけ流し込んだ生命の力でも救う事は出来なかった。
ここまで痛んだ身体だと、この後海原の身体を乗っ取るのは難しそうだ。つまり、マルスも海原が終われば終わる。
まあ、それでいいか。マルスはもう何も考えたくなかった。
化学と、外なる世界の住人の力でも死にかけ人間を救う事は出来なかった。
怪物に全ての生命を使いきって勝つ。ありふれた終わり、凡人にしては上々の終わり方だ。
海原善人とマルスはここで終わる。
横向きのままピクリともしない海原の身体をどこからか吹く風が優しく撫でていた。
風が吹く。世界を彩るように風がつむじを巻いた。
化学ではダメだった。
外なる世界の生命の力でもダメだった。
海原とマルスに打てる手は全て尽くしたはずだった。
風が吹く。徐々に強くなる風、どこから吹き付けているかもわからない風が。
マルスは考えもしなかった。化学でも外なる生命でもない、海原の紡いだ縁、3つ目の可能性のことを。
風が吹く。白銀の風、その髪色と同じ吹き付けられると目の裏にその色が浮かび上がる不思議な風が。
かつて、別の世界を理不尽に包み込んだ風が。とある者には救世主と、とある者には叛逆者と呼ばれた風が、吹き続ける。
3つ目の可能性、幻想。
風が、強く吹いている。
ひときわ大きな、爆発にも似た勢いの大風が吹いた後、巻き上げられた輝く砂の帳から人影が浮いて出た。
「……待ってくれて、ありがとう。ヨキヒト君、マルス。答えを決めたよ」
幻想の風が、異なる世界の風がその場に帰ってきた。
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