六原くん、筆握る。
後日、由梨絵は時江さんの元に謝罪に訪れた。胡乱な目で由梨絵と面会した時江さんは木製の杖をついていた。件のことで腰を強打し、今も痛みが遺ると言う。
後輩は必死に頭を下げた。言い訳はしなかった。ただ自分たちがしたことを悔い、誠心誠意詫びたらしい。
時江さんは最初こそ厳しい態度で由梨絵を叱りつけたようだが、最後は溜め息混じりに彼女にこう言ったようだ。
──もうよか。あんたの何倍も先輩が頭を下げたけん。本当はもうあんたが来てくれればそいで良かったとよ。
周囲の勧めもあって当初は警察に被害届を出すことも考えていた時江さんの元にやってきたのはやはり六原くんだった。姿を見せるなり、彼は膝をついて後輩の無礼を詫びたらしい。当事者でもない彼に怒りの矛先を向けるのは間違っていると判りつつも、時江さんは我慢が出来なかった。感情のまま六原くんを怒鳴りつけ、手を出しそうになるのを何度も堪えつつ、これまで溜め込んでいた憤りをぶつけた。
その間、六原くんは一度も言葉を返さなかった。ただただ時江さんに頭を下げ続け、彼女の感情の全てを受けめていたという。
怒りは呆れに変わり、そして関心となった。関係の薄い後輩のために頭を下げ続ける六原くんに、時江さんは問う。どうしてそこまでするのか、と。これで色恋などの軽薄な理由が潜んでいれば彼女は失望したのだろうが、六原くんは苦悶の表情で、こう答えた。
──無粋な真似をしました。
シンプルで端的な答えだった。けれどそれを聞いて時江さんは言葉を返すどころか笑ってしまった。
友人は粋か無粋かを基準に生きている。美大というワンダーランドの住人である僕には窮屈な価値観だけれど、六原くんらしいとも思う。要は良いか悪いか。ダサいかクールか。誇れるか誇れないか。自己満足的ともいえるゼロサムな価値観だ。
時江さんは深くを追求しようとはしなかった。六原くんの姿にこれ以上の言葉はそれこそ「無粋」と感じたのかもしれない。あくまでも僕個人の希望的観測だけれど。
夏になったら遊びに来なさい、と目を細め、時江さんは由梨絵を許してくれた。全てを許すわけではないけれど、少なくとも今回のことは水に流してくれるらしい。
その報告の為に、由梨絵は油絵専攻のアトリエにいる。因みに彼氏とは今回のことがきっかけで別れたようだ。全ての事実を語り、一緒に謝りに行こうと提案したところ、彼氏が難色を浮かべたことで失望したとかしないとか。
「先輩たちと比べてなんとガキっぽいことか!」
由梨絵はそう憤ったけれど、きっと脳内イメージの「先輩たち」は大半が六原くんで占められているだろう。
今日の彼女はリーフグリーンのスキニーデニムにコルク色のチュニックという秋らしいアーシーな姿で、この前とは随分と印象が違う。これが彼女本来のスタイルなのかもしれない。
「それにしても……」由梨絵が腕を組んで唸る。「私、今でも判らないことがあるんですよね?」
「なに?」
訊くと、彼女はなぜか僕を指差してこんな疑問を口にした。
「なんで六原先輩はあの家とぶどう園が繋がっていると結論したんですかね? 看板があったわけでもないのに」
「ああ……。それはね、実に呆れる話があるんだ」
眉根を寄せる由梨絵に、ことの次第を説明した。
瞼を腫らした彼女を最寄り駅まで送り届けた後、僕と円も同じ質問を彼にぶつけた。あの廃屋の所有者が時江さんだと判ったまでは理解出来る。しかし、あの付近に並んだビニールハウスまで彼女の所有しているものだと断定した理由は何か、彼女じゃなくても疑問に思うのは当然だ。
彼は眠たげに瞼を擦りながら、単純だ、と口早に言葉を繋いだ。
──あんな不便な場所に家を建てるには理由がある。その理由とは何か? Aビニールハウス。なぜか? A台風が多い宮崎じゃ作物の管理が大変で、天候によって見回る必要があるから。その根拠は? A庭に植樹されていたのが、巻き蔓も変色した葉も特徴があるブドウ科の樹だったから。今は? A一人手の管理は無理だから誰かに任せている可能性が高い。それはどこか? A付近に福祉施設の名を冠したぶどうの直売場があった。電話した。その結果、元の名が『赤川果樹園』だったのと敷地規模が判明した。以上、僕は少し寝る。
「……あの人の前で悪さはいかんですね」
鼻頭を掻きながら由梨絵は苦笑するが、あの人の前でなくとも悪さはいかんと思うの。
「お前、本当に反省してんのかよ?」
円が笑うと、由梨絵は「してますって!」と焼いた餅みたいに頰を膨らませた。
彼女はそこまで悪い子じゃないと僕は思う。やり過ぎた所もあるし、自分勝手な所もあるけれど、それも十代の無邪気さとも言える。ちゃんと自分の行いを悔いて涙を流し、一人で頭を下げることが出来た分だけ、まだ由梨絵は責任感がある方だ。
「来年の夏、みんなで時江さんの所にぶどう狩りに行きませんか?」
ご機嫌な提案ではあったが、どうだろう?
来年は僕達にとって卒業制作に費やす一年になる。夏頃には僕も円もここで動く屍と化しているかもしれず、真夏のビニールハウスに入った途端、天に召す可能性もある。
煮え切らない態度の僕たちに「六原先輩も」と由梨絵は食い下がった。しかし、これには僕も円も迷いなく「無理」と即答出来た。
由梨絵が目を丸くする。
ご機嫌なイベントではあるが六原くんは間違いなくこう言うはずだ。
──良いねえ。でもオリコと行くよ。
人類殺すマンと化した夏の脅威が過ぎ去り、街に色気ある秋の雰囲気が漂い出した十月の中頃、日本画専攻のアトリエでは今日も愛妻家が妻の絵を描くために筆を握っている。




