六原くん、把握する。
風はその強さを増していた。
ワーゲンバスに乗り込もうとする六原くんに、円が「夜にまた来るってマジ?」と訊く。
戻る途中、六原くんが宣言したのだ。闇に佇む黒い家を想像すると泣きたい気持ちになったけれど、彼は一人でもここに戻ると言って譲らない。
僕にはこれ以上何か収穫があるとは思えなかった。本当にゾンビに遭遇しようとしているわけでもあるまいし。かと言って彼一人を残して帰路に着くわけにもいかず、数度の押し問答の末、円と二人、渋々付き合うことにした。いくら季節外れの肝試しに興が乗らなくとも、薄情な真似は出来ない。
市街地まで戻ったところで今後の方向性を決めようということになり、適当にコンビニを見つけ駐車場に乗り入れた。夜を待って再訪するのはこの際良いとして、それまでの時間をどうするのか。時刻は十五時を過ぎていた。
コーヒーを買いに出た六原くんが戻るのを待って会議を始める。戻ってきた彼の提げる買い物袋には三本のコーヒーが入っていた。
「夜までどうすんだ? まさかネカフェで時間を潰すわけでもないだろう。言っておくが、この街にはそんなもん無えぞ?」
微糖のコーヒーを受け取りながら円は言う。
すると、六原くんはブラックのコーヒーを僕に渡しながらさらりと言った。
「黒い家を誰が管理、所有しているのか調べくれ」
まさかの発言に、円はコーヒーを噴き出してしまった。薄手の白いパーカーに悲惨な染みが出来る。しかしそんなことは大事の前の小事なのか、彼は咳き込みながら口元を拭い「おれに言ってんじゃねえよな?」と気にする素振りも見せない。
六原くんはカフェオレを舐めるように飲みながら「お前だよ」とさも当然の如く頷く。「ローカルのお前以外に誰に頼むんだ?」
「アホか! どうやったらおれが他人の土地情報なんか入手出来ると思うんだ?」
「やるべきことをやりゃいいし、お前の人脈を活かして話を聞いてくれと言ってるんだ。それに祖父さんだって、まさかこの時間からは酔っ払ってねえだろ?」
「そりゃそうだけど。でも、だからと言って……。ちょっと待て」
円は何かに気付いて言葉を飲み込んだ。まさか、そんな、と自分でも戸惑っているようだ。彼は恐る恐るといった具合に六原くんを見つめた。
「黒い家は単なる霊スポじゃないってことか?」
六原くんはゆっくりと頷いた。驚愕、というわけでもないけれど車内の空気が変わるには充分だ。彼は人差し指を立てる。
「霊スポだろうがなんだろうが、土地と建物がある以上、必ず所有者はいる。それどころか、あの家は間違いなく誰かが管理している。それも割とまめに足を運んでな」
「待って待って、どういうこと? 完全に廃屋然としてたじゃん」
我慢出来なくなり口を出した。現場を見た限り、誰かが管理をしている様子は見られなかった。当然、僕と六原くんとでは物の見方も思考の回路も全くの別物、別ジャンル、別次元なのは重々承知している。けれど目につくものがあれば僕にだって痕跡の一つぐらいは見つけられたはずだ。
六原くんは気怠そうに、縁側、と口にした。
「あそこのガラス戸は割られ、出入り出来るように蔦が除去されていた」
「肝試しに来たやつが切ったとか。それにテレサさんたちが行った時に例の由梨絵って子が……」
「その可能性は大いにある。けどな、虹郎。お前が指摘するように他の弾けたやつらが蔦を裁断して侵入したのなら、室内にその痕跡があるはずだ。割れたガラス、フローリングに積もった埃に残る複数人の足跡、タバコの吸殻、壁に落書きをするやつだっていたかもしれないし、残された家財道具なんかを物色したやつだっていたはずだ。浮浪者がいたなら生活の跡があってもおかしくはない。けど、あそこにそんな痕跡があったか?」
無い。僕は黙って首を左右に振った。そして、室内を覗き見た時に覚えた違和感の正体にやっと気付いた。
綺麗すぎるのだ。当然床に薄く積もった埃なんかは視認出来たし、リビングと思われる室内の奥、キッチンとを繋ぐ引き戸のガラスが割られていたのにも気付いてはいた。しかし裏を返せばその程度なのだ。十年以上も前だ。十年以上も前に住人を失った家に積もった埃が薄いか? もっと、それこそ雪国の遊歩道程度には白く厚く積もるはずだ。割れたガラスの破片だって目にした自信が無い。肝試しに来た人間がわざわざガラス片を片付けて帰るはずもないだろう。
僕は眩暈にも似た衝撃を受けていた。胸の鼓動が早い。さっき見て来たものはなんだったのか。あれは廃屋だ。確かに廃屋だった。それは間違いない。しかし、誰かが管理している廃屋なのだ。それが世間では心霊スポットと認知されている。そんな話があるか。僕は自分の中にあった概念を根底から覆され、頭をガツンと、まるでアクリルファイバー・レジンの塊で殴打されたみたいに感じた。
「六原くんは気付いていたの?」
唖然として、訊いた。
「言ったろ?」鼻を鳴らす。「中には入れそうにないって。僕にはあそこが霊スポの廃屋というよりは誰かの留守宅に見えたんだ」
彼の考察が起因となってか、本腰を入れることにした。最初はゾンビの有無や心霊スポットの調査なんてそれこそ暇つぶし程度にしか感じていなかったけれど、今や雲行きが変わりつつある。黒い家が単なる廃屋や心霊スポットではなくなった以上、あそこには何かがある。僕たちがしゃしゃり出る必要性だとかの問題はさて置き。少なくともテレサに報告出来る程度のことは調査する義務があるだろう。何せ、代価となるタバコやハンバーガーやチョコレートをこちらは既に受け取っているのだ。
円は先ほどから何本もの電話をかけていた。詳しい会話の内容は判らないけれど、黒い家の情報を集めているのは確かだ。会話の節々に何人かの知らない名前が出てくるから、人脈を辿っているのだろう。市役所なんかで登記のコピーが見られれば確実なんだけれど、他人である僕たちにはまず不可能だ。
暫くして通話を切ると、円は僕たちに向き直って「ここから別行動だ」と言った。
「ここはおれの地元だし、何人かと会うからその方が動きやすい。六ちゃんたちはどうする?」
「僕たちは図書館に向かう。ちょっと調べたいことがあるからね。待ち合わせはそこにしよう」
六原くんが言うと、円は静かに頷いて車を降り、脇に延びる小径へと駆け出していった。
これまでナビを務めてくれた彼がいなくなり、僕は道案内のプロを起動させた。タッチパネルに「小林市立図書館」と打ち込む。すぐにルートが提示された。拍子抜けするほどに現在地から近い。ナビに指示を任せて駐車場からジムニーを国道へと出す。
「円、大丈夫かな?」
助手席に移動した六原くんに横目で尋ねる。彼は窓を数センチ開けてタバコを吸っており、独特の甘い香りが車内に漂っている。確か、亡くなった祖父オリジナルブレンドの手巻きタバコだ、と言っていたっけ。
「あいつのこれまではお前も見て来たろ? 僕はなんの心配もしてないよ」
確かに。彼に言われ僕は小さく笑う。
平素の円はお調子者でむっつり助平で口も悪い。けれど、時に友人である僕たちですら目を見張るスーパープレーで驚かせてくれたりもする。僕が最も円を尊敬し羨ましいと感じるのが「思い立ったが吉日」を地でいく抜群の行動力なのだ。
小林市立図書館は二階建ての平たい造りの建物で、タイル貼りの外観のせいか巨大なOSBボード製に見えた。隣接するのが味気ないコンクリート製の建物ばかりだからか、そのビスケット色のレトロな外観は周囲でも目立つ。
外に出た六原くんは、図書館を見て「ビックリマンチョコみたいだな」と言って僕を笑わせた。確かに色合いやタイルの模様がウエハースチョコに見えなくもない。ジョークを口にしたつもりでもない彼は、突然笑い出した僕を不思議そうに眺めていたけれど、敢えて理由は語らないでおいた。
入ってすぐに交通量調査の学生が持つようなカウンターが三つ。手前には、子供、学生、大人、と書かれた木札がそれぞれにはめられてあって、僕は「大人」のカウンターを押し、六原くんは律儀にも「学生」のカウンターを押す。二十歳を過ぎれば自然に自分を「大人」にカテゴライズしそうなものだが、彼は正確な情報を優先する。
中は大学の図書館よりも狭かった。奥行きはそれほどなく、横に長い。正面に雑誌コーナーと新聞のコーナーがあって、長椅子が二脚と会議室なんかにある長テーブルが置かれている。左手には児童書コーナー、右手に一般書のコーナーがあって、縦横にドミノみたいに並ぶ書棚の横に小さな書見机がいくつかあった。図書館というよりはアップグレードさせた図書室といった感じ。
六原くんは必要な情報以外に興味は無いらしく、足早に貸し出しカウンターへと向かった。カウンターの奥には髪を一つに束ねた女性司書がいる。年嵩はいくらか上だろうか。胸元のプレートには「泊」と氏名が記されてある。
「十八年前十一月の宮日新聞を閲覧したいのですが。保管はされていますでしょうか?」
ピンポイントな年代の新聞を求めたことに僕は面食らってしまった。それに気付いた彼としばらく無言で見つめ合ったが、ため息を吐かれてしまう。「マジか?」と呆れてるようでもあり「後でな……」とあしらっているようにも見える。
十八年も前の新聞を閲覧したいという六原くんに、泊さんは特に理由を尋ねるでもない。
「十八年前の十一月の宮日新聞ですね?」穏やかな笑顔で「何日付の号でしょうか?」
「十一月分全ての号をお願いします。家族へのちょっとしたサプライズプレゼントの為に調べたい事があるので」
まあ、嘘である。
しかし泊さんは、そうですかあ、と眩しいものでも見るように目を細めていた。きっと彼女の目には彼が家族思いの好青年に映っていることだろう。例え鳥の巣頭で冷めた目をしていてもだ。
僕ならそんな前の新聞を閲覧して何を調べるんだと訝しみそうなものだが、余計な詮索をしないのも司書の仕事なのかもしれない。そう考えた所で、そうでもないなと苦笑する。彼女がチラリと六原くんの左手を見たからだ。時として、結婚指輪は男の自立性と信頼性を判断する重要なファクターとなるようだ。残念ながら、僕にはあの指輪を通す予定は無いし、その相手もいない。
レファレンスを終えると、泊さんは二階へと上がっていった。古い新聞は二階の郷土資料室に保管されているらしい。
暫くして戻って来た彼女から新聞の束を受け取り、手近な書見机に腰を降ろす。
六原くんは束の半分を僕に渡した。
受け取って彼の隣に腰掛け、先ほどの疑問を口にする。彼は一日付の新聞を開きながら「カレンダーが掛かってあったろ」と声を落とした。
「十八年前、十一月のカレンダーだ。あれが壁に貼ってあったってことは火事はその月のどこかで発生した可能性が高い」
捲り忘れたという可能性は無いだろうか? 僕の実家では両親共にカレンダーを捲り忘れて、誰かが気付くまで時が止まっている、なんてことが頻繁にある。
しかし、六原くんはその可能性をきっぱりと否定した。
「子どもの絵を思い出せ。あの、家族を描いたクレヨン画だ」
確か飛行機の絵もあった気がする。
「二枚とも破ったカレンダーの裏に描かれてあった。薄く、九月と十月の赤い文字が透けてたよ。つまり、あの家族は毎月ちゃんとカレンダーを捲る習慣があったことになる」
「それじゃ納得出来ない。気紛れってこともある。なんせ子どもの絵だよ?」
「もう一度言う。子どもの絵を思い出せ」彼は藪睨みに近い目を僕に向ける。「九月のカレンダーに飛行機、十月のカレンダーにピースサインの家族の絵だ。順番を考えろ。お前なら飛行機に乗った興奮を絵に残した後に何を描く? 僕なら旅先の家族の肖像だ。『はい、ピース!』と二本指を立てるポージングがマストだろう。ではその次は何か……? 可能性はいくつかあるが、まとまった休みを取りにくい農家の子どもにとって家族旅行の思い出は特別なはずだ。きっと旅先の名所を描くだろう。憶測に過ぎないのは判っているが、自由帳よりもサイズの大きなカレンダーはカンバスみたいなもんだ。絵が好きな子なら必ずときめく。僕やお前がそうだったように」
自分の思い出とリンクする。幼い頃、近所だった祖父母の家に遊びに行くと破ったカレンダーが僕の為に保管されてあった。不精なくせに両親が我が家に採用したのは日捲りカレンダーだったから、自由帳よりもスケッチブックよりも号の大きい月捲りのカレンダーは幼い僕にとっては魅力的だったからだ。同級生に自慢する為の自由帳にはドラゴンボールやワンピースのキャラクターばかりを描いていた。クラスメートに褒められるのは快感だったけれど同時に息詰まりも感じていて、その反動かカレンダーの裏にはまるでマスターベーションのように衝動的で好き勝手な絵を描いた。お気に入りの絵は壁に飾ってもらい自画自賛をしたりもした。運動も勉強も苦手とする僕にとって、絵は唯一の自慢であり自己肯定の術でもあったのだ。それが美大に進み、絵の神童たちに囲まれて自分には才能が無いと痛感するハメになるとは夢想だにしなかった。
なるほど。独り言ちる。僕の祖父母がそうであったように、絵を得意とする我が子の為に両親が毎月カレンダーを捲る習慣があったことは想像に難くない。
「もう良いか?」
黙って頷いた。彼は相変わらずの観察眼である。それに比べて僕は相変わらず観察眼が無い。
静かな館内に頁を捲る乾いた音だけが響いていた。最初はどこを読めば良いのか慣れずにいたが、号を消化していくうちに段々と必要箇所が見えてくる。宮崎日日新聞の場合、県内の主だった記事は序盤の方にまとめられていた。後半はほとんど全国ニュースになるから記事を探す範囲はそこまで広くない。それでも日を追って各号に目を通すのは骨が折れるから、六原くんが時期の特定をしてくれたのは本当に助かった。
該当記事を見つけたのは二十二日付けの号を確認していた時だった。
記事を読んだ瞬間、我が目を疑った。それは想像すらしていなかった内容だったからだ。『放火による火災によって四人が死亡』という見出しで、扱いとしては大きなものじゃない。
十八年前の十一月二十一日。放火による火災が原因で四人が死亡した。そこには放火犯の中村みつ、亡くなった赤川悟志、美奈子、美世志、そして放火にあった家主である赤川時江の名前が載っていて、近隣トラブルを動機にした放火だったのではないかと簡単な推論がそれらしい語彙を用いて掲載されていた。しかし、この記事が本当だとすると……。
余計な感情を抑えて六原くんに新聞を渡す。
彼は無表情で受け取り、紙面を見るや眉間にしわを寄せた。
それからは早かった。
まず図書館を飛び出した。後を追うと、彼は通りまで出てスマホを耳に当てていた。
近寄ってみる。口振りから判断するに電話の相手は円ではないらしい。「南西部」だとか「山合い」だとかの単語が彼の口から発せられる。口調は丁寧で穏やかだが表情は険しかった。
今度は僕のスマホがポケットの中で鳴った。相手は円だ。
「もしもし?」
「六ちゃんが通話中でさ」
「今、凄い顔面で誰かと話してるよ」
「そうか。じゃあお前があいつに伝えてくれ。まず、あの家は六ちゃんの予想通りちゃんと管理されていた。それで、現在の所有者は……」
円の弾むような声を僕はどこか遠い位置から聞いているようだった。うまく頭が回らない。脳が痺れているみたいだ。
「虹郎?」
六原くんの怪訝な顔が目の前にあって、我に帰る。なぜかは判らないけれど、僕は自分のスマホを彼に向けていた。
訝しみながら受け取った六原くんがモニターに表示された名前を確認して耳に当てる。
僕は導かれるように愛車へと足を向けていた。あれだ。あれを取って来ないと。
ロックを解除して後部席を覗く。目的のものは無い。そうだ、彼は席を移動したんだ! すぐさま助手席を確認した。それはドリンクホルダーに当然のように差し込まれてあった。
手に取って六原くんの元に走る。
彼が通話を終えこちらを向いた瞬間、それを宙に投げた。
放物線を描く板チョコレート。
六原くんが左手で掴み、その場で封を開け、前歯で割った。
その瞬間、世界が周り始めた。
きっと彼の頭の中で
木星を周回するガニメデのように。
游教科書体の文字列が渦を巻き、飛び回る。
僕は傍に立ってその情景を思い浮かべる。
一枚絵みたいなホログラム。浮かび上がって、ゆらゆら揺れる。
ホログラム。
テレサが、僕が、円が映る。
ゾンビ。SNS。腐臭。車窓。農道。シャッター。茶畑。ビニールハウス。
黒い家。樹木。室内。新聞記事。
ホログラムは次々に切り替わる。
游教科書体が六原くんへと吸い込まれていく。
悪意。興奮。趣好。胡乱。憐憫。悲憤。黒い影。
得た情報。不必要な情報。取捨選択し、組み上げる。
出来上がるパズルはきっと、僕の理解が及ばない白磁の一枚。
「虹郎」
六原くんが僕を真っ直ぐ見据えていた。
だから僕も彼から視線を外さなかった。
不思議だ。次に彼が口にする言葉が手に取るように判る。
「バニラシェイクで了解してやる」
僕は鼻を鳴らす。六原くんは目を丸くした。けれど、すぐに意味を理解して微笑してくれた。
「チーズワッパーには最高の組み合わせだな。ただ、冷めちまってるのが残念だけど」
「冷めてても、ホットさ」肩を竦めてみせる。
「違いない」彼は短く笑って財布を取り出した。「好きなだけ飲め」
「これからどうするの?」
財布を尻ポケットに差しながら訊くと、彼は悲しそうに微笑んで応えた。
「やるべきことを当たり前にやるだけだ」