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現代短編

五郎さん、ごめんなさい

作者: コーチャー

「五郎さん、ごめんなさい。こんな場所まで案内してもらって」


 早苗は疲れた笑顔をこちらに向ける。僕は彼女に「そんなことはない」、といったが彼女はなにかを考え込んでいるらしく答えてはくれなかった。ここ裏野ドリームランドは彼女にとって幸福な時代の思い出が詰まっている。だが、いまの裏野ドリームランドは朽ち果て錆びた金属片やガラス片がいたる場所に落ちている。


 もし、彼女が踏みつけでもすれば、と思うと僕は気が気ではなかった。


「こっちだよ」、と僕は彼女の手を引いて歩く。彼女の目は光以外何も見えていない。だから、僕は彼女の杖であり、そして彼女を守るナイトなのだ、というと少し言い過ぎだろうか。





 僕が早苗さなえと初めて出会ったのはいまから三年前、彼女が十五歳になってすぐのことであった。


「五郎、今日から君が早苗の助けになって欲しい」


 彼女の父はそう言って僕に頭を下げた。


 その顔には難病に苦しむ娘の将来を心配する父親の苦悩が現れており、僕はただ雇われたからではなく。純粋に彼女の助けになりたいと思った。彼女は網膜色素変性症もうまくしきそへんせいしょうという先天的な病を患っていた。


 この病は、網膜の視細胞がだんだんと正常な働きをしなくなるために視野が狭くなる。それに伴い視力も落ちていく。視覚が完全に奪われることは稀であるが、光を認識できる程度の視力しか残らないことも多い。彼女の場合は、まだ物の輪郭を判別することができたが、視野は極端に狭くなっていた。


 僕が彼女に挨拶をすると彼女は「あなたが五郎さんですね」と、いって僕の手を探るような手つきで握り締めた。彼女の手は少し冷たかったが、彼女の通った鼻筋や笑窪は可愛らしく僕は仕事を抜きにしても彼女のことが好きになった。


 僕の仕事は、常時そばにいられない彼女の父に代わって早苗を助けることだった。彼女が街を出歩くときに信号を無視して飛び出さないように見張ったり、障害物や人にぶつからないように誘導したり、そういう生活の小さな助けをするのである。


 早苗の父は、彼女に目を病んでいてもできるだけ自活できるようになって欲しい、と僕に語った。だから僕にも過度な手助けはやめてほしい、と言った。そうだろう。僕は雇われているに過ぎない。いつまでも彼女のそばにはいられないのだ。


 幸いなことに彼女の家は裕福であった。それに彼女は聡明な女性であった。学校こそ盲学校ではあったが学力は並以上であり、大学にも十分手が届くレベルであった。このころの早苗はちょっとしたことにも笑う明るい性格をしていた。


 学校の友達とくだらない話で大笑いして、たまに喧嘩して怒ったり泣いたりしていた。僕は彼女の表情がころころ変わる姿を見て「忙しないものだ」、とつぶやきながらも嬉しい気持ちでそれを見ていた。


 彼女はよく僕に子供の頃の話をした。


 それはまだ彼女の視力が今ほど悪化していない小学生のころの話だ。普通の子供よりは視野が狭いもののまだ物を見ることができた。父と遊びに行った裏野ドリームランドの思い出だ。


 ジェットコースターは怖かったが、頬を撫ぜる風や浮遊感があって楽しかった。とか、メリーゴーランドに一緒に乗った父親が少し恥ずかしそうだった、なんていうものだ。なかでも彼女は父に手を引かれて入ったミラーハウスがお気に入りだった。


 視力の弱い彼女にとってミラーハウスはまさに光の国だった。反射する光が彼女の眼のなかではさらに乱反射し宝石のように光り輝いて見えていた。父親はそんな彼女の手を引きながら鏡に頭をぶつけたり、「こっちでもない。あっちかな」、と普段見せない困惑した顔で彼女をエスコートしたという。


「もし、目が治ったらもう一度ミラーハウスに行きましょう。そのときはお父様だけじゃなくてあなたも行くのよ、五郎さん」


 早苗は屈託もなく笑うと、僕に断る間さえ与えてはくれなかった。


 だが、僕はそういう彼女の勝気でわがままなところも好きだった。彼女の願いがあるならなんだって叶えてあげたい。彼女のために自分に出来ることは何か。僕はずっと考えていた。


 僕はこんな生活がずっと続くものだと思っていた。だが、僕が早苗に仕えるようになって二年が過ぎた夏だった。彼女の父親が死んだ。交通事故だった。早苗は知らせを受けたとき、ただ泣くばかりで僕がどれだけ慰めても泣き止んではくれなかった。


 葬儀は、父親の弟。彼女から見れば叔父が取り仕切った。早苗は形ばかりの喪主として涙を流していた。

 式が終わると、彼女には現実的な問題が待っていた。彼女の父親が残した財産は、十七の少女が受け継ぐにはいささか多すぎた。また、法律的にも未成年である彼女には後見人が必要であった。いろいろな親族が名乗り出たが、最終的に葬儀を取り仕切った叔父が後見人となった。


 僕はこの叔父が嫌いであった。


 でっぷりとした腰周りに常に浮かべた笑み。早苗に対して猫なで声で語りかける気持ち悪い声。なによりも早苗を見る眼が気に食わなかった。だが、僕は彼女の家に雇われているだけで口を挟める立場ではない。もし、口を挟んで首にでもなれば僕は早苗と一緒にいられなくなる。


 それだけは嫌だった。


「兄さんの会社なんだけど少し負債があるみたいなんだ。早苗ちゃんのために遺産から補填してもいいかな」

「早苗ちゃんのために勉強環境をもっと良くしてあげたいんだ。家庭教師を雇うからまたお金を引き出すからね」

「早苗ちゃんのために家をもっとバリアフリーにしようと思うんだ。君も何かと不便だろう。で、金なんだけど」


 彼女の叔父は何かにつけて彼女の遺産を食いつぶしていった。それらはすべて「早苗ちゃんのため」、という枕がついていたが早苗のために使われたのはわずかであった。叔父の腕についていた安物の腕時計は外国製のきらびやかな時計に。ボロボロの軽自動車は、ピカピカと光る高級車へと姿を変えた。傾きかけの彼の家はいつの間にか撮り潰され、全く違う場所に新築の一軒家が建っていた。


 それらは早苗の盲いた眼には映らない。


 彼はそれを知っていて笑っていた。僕にはそれがどうしても許せず、ぎっと睨みつけると彼は彼女に見えないことをいいことに煙たそうに手を振った。それでも僕が恨めしげな目を向けていると早苗に「少し、五郎を借りるよ」、と言って僕を部屋の外に連れ出した。


「なにを生意気な目を向けてるんだ。ああ!」


 彼は僕の腹を蹴り上げた。彼の足は短いが流石に痛い。


 僕は決して悲鳴をあげなかった。もしあげたりすれば早苗が心配する。彼女は父親が死んでからずっと防ぎ込んでいる。もし、僕に何かあったと知ればどうなるか。それに、表面上は早苗に何もしないこの男が早苗に手を出すようなことになれば、と思うと僕はただ殴られるしかなかった。


 暴れて息が切れた彼女の叔父は、床に倒れた僕に吐き捨てるように言った。


「まったく気持ち悪い奴だよ。忠義ヅラして僕は忠犬です。お嬢様、褒めてくださいってな顔しやがって。いいか、お前を早苗から引き剥がすなんてのは簡単なことなんだよ! それがわかったら分をわきまえろ」


 散々に蹴られて殴られた僕はしばらく動くことはできなかった。


「五郎さん! 五郎さん、どこですか」


 早苗が僕を呼ぶ声がした。僕は痛みに堪えてフラフラとした足取りで彼女の元へ向かった。彼女のそばに立つと僕は何事もなかったように彼女の手に触れた。それに安心したのか彼女は「五郎さん、だけはどこへも行かないで」、と言った。


 僕はこのとき何があって彼女から離れないでいようと決意した。


 それからも叔父は彼女の遺産を使い込んだ。そして、それは一年後には多くの人に知れ渡ることになった。あれだけの金を使い込んだのだ、周囲の人から見れば一目瞭然だったに違いない。ただ、目の見えない早苗だけが叔父の変化に気づくことができなかった。


「あなたの叔父さんは、後見人を罷免されました。ただ、言いにくいのですが使い込まれた遺産の多くは回収できない状況です。あなたの家も抵当に入れられており……」


 弁護士と名乗る男は早苗にそう言って同情を示したが、覆水を戻すことはできなかった。早苗は一年で父の遺産を失った。彼女と父親が過ごした家は、あと数日で他人の手に渡る。そんなときだった。早苗は言った。


「五郎さん、私はもう一度裏野ドリームランドに行きたいの。連れて行ってくれませんか?」


 僕は少し黙り込んだ。


 裏野ドリームランドは数年前に倒産していまは廃墟となっているのである。それに裏野ドリームランドには変な噂がある。メリーゴーランドは無人のまま回っている、とか園のシンボルであったドリームキャッスルには拷問部屋がある、なんていう荒唐無稽の噂が飛び交っている。


 なかでも、彼女の思い出で鮮やかな光を放つ、ミラーハウスは入ったものが入れ替わって出てくる、なんていうとても事実とは思えないウワサ話が語られている。


「お願いです。五郎さん、お願いします」


 彼女は僕の手を強く握り締めて懇願した。僕は、嫌々ながらも頷いた。


 本当はそんな場所へ彼女を連れて行きたくない。


 だが、僕は彼女の願いを叶えよう、と思った。


 彼女の手を引いいて電車の乗り継ぎ、たどり着いた裏野ドリームランドはかつての華やかさは消え失せ、錆び付いた赤錆の色とアスファルトの隙間や地面から吹き出した雑草や蔦の緑で染まっていた。人工物が自然に飲み込まれてゆくその姿は、どこか不気味で日中だというのになかに立ち入るには気が引けるほどであった。


 僕が迷っていると早苗が言った。


「お願いします。入りたいのです」


 彼女にお願いされると僕には拒否権はない。おそらく、肝試しに来た人間が開けたと思われるフェンスの穴を見つけると僕は慎重に彼女を園内へと導いた。早苗はおそるおそるという具合に園内に入ると僕に「ありがとう」、といった。


 僕は彼女を外へ連れ出したことが良いことであった、と思った。あのまま家でこもっていても良いことなどなかったのだ。外へ出て体を動かして気を紛らわせるほうがきっと彼女の精神にもいいに違いない。僕は自分にそう言い聞かせた。


「お父様と行ったミラーハウスはどこかしら」


 見えない目で園内をきょろきょろする彼女を僕は愛しいと思った。そして、彼女の手を引くと障害物を避けてミラーハウスへと導いた。ミラーハウスは閉園からの月日によって鏡は砕けてはいたが、建物自体はしっかと建っていた。


 僕は少しだけホッとすると彼女の父親の代わりに彼女と一緒にミラーハウスに入った。


「五郎さん、私もこの遊園地の変な噂は聞いていたんです。でも、どうしてもここへ来たかったの。お父様との思い出があるここへ。そして、ここにくればあの時と同じように光に満たされるかと、少しだけ思ったの」


 彼女は埃っぽいミラーハウスの中で微笑んだ。


「五郎さん。ごめんなさい」


 だが、その微笑みにはしっかりと疲れと今後の不安が写されていた。彼女の眼が見えていれば彼女も自分がどんな表情をしているかわかるだろう。だが、それは叶わないことなのだ。僕がどれだけ彼女の目が見えて欲しいと願ってもかなわないのと同じように奇跡などないのだ。


「何もかも変わってしまったのね。優しいお父様はもういない。楽しかった遊園地もなくなった。そして、明後日には家も他人の手に渡る。そして、私の視力ももうない。もう、すべて私の手からこぼれ落ちてゆく」


 彼女は崩れ落ちるように、膝から座り込んだ。


 床に落ちていた鏡の破片が彼女の脚に刺さる。僕は慌てて彼女のそばに近づくと真っ赤な血を拭った。


「いいのよ。五郎さん。もう、私はこれしかないの。だから、五郎さん、ごめんなさい」


 そう言って彼女は床を素手で探ると大きな鏡の欠片を掴んでいた。その手からは血がこぼれ落ちている。僕は彼女を押し倒してでも止めようと、飛びかかった。彼女の手にした欠片に僕と彼女が映り込む。


 そして、僕たちはそのまま倒れ込んだ。


 体中が痛かった。僕は立ち上がろうと脚を動かすがうまく動かない。それに視界がぼやけて光しか見えない。僕は早苗を守らなければいけなのに。僕がじたばたしていると足元にふわふわした柔らかいものが触れた。それが僕には何か分からなかった。


 だが、僕はそれをよく知っている気がした。


 そして、聞き慣れた鳴き声がした。


 犬の鳴き声。いや、僕の鳴き声だ。


 なら、僕は一体なんなんだ。


 僕は前足をゆっくりと動かしてみる。するりとした体毛のない肌。長い後ろ足に器用に動く指先。なによりも光しか見えない目。僕は気づいた。僕は早苗になっている。なら、僕の体は誰になっているのか。


 早苗だ。

 早苗しかいない。


 彼女はしばらく僕の周りを回っていたが、ワン、と鳴くとどこかへと消えていった。ハーネスの一部が床と擦れる音が遠ざかっていく。僕は一人置き去りになった。盲導犬としてずっと彼女のそばにいた僕には、彼女がもう戻ってこないことがわかった。


 だが、僕はここから動けない。動けばガラス片が彼女の体に刺さってしまう。


 僕の愛した早苗の体が血に汚れたり、傷つくことは僕にはできそうにない。僕は彼女が見ていた薄ぼんやりした光だけの世界で死ぬだろう。でも、それもいい。彼女が生きていてくれる。彼女が生きていれば僕の体も生きているのだ。


 ならいい。僕は数日後に訪れる自身の死を受け入れた。





 五郎さん、ごめんなさい。


 私はあなたのことが好きでした。あなたのおかげで私は学校に行くことも、買い物に行くこともできました。あなたは本当に素晴らしい盲導犬でした。私の杖としてあなたは十分にその義務を果たしてくれました。


 でも、あなたは私の目にはなってくれなかった。


 どうして、とあなたを責めるのはきっと筋違いなのはわかっています。でも、私は言わずには入れないのです。どうして、私だけが不幸でなければならないのか。私の目が見えないことが悪なのですか。だから、こんなに苦しいのですか。


 裏野ドリームランドの噂をきいてからずっと私は誰かと入れ替わることを考えていました。でも、それはいけないことだと控えていました。でも、もうそれもどうでもいいと思ってしまったのです。外を見たいと願ってしまったのです。自由になりたい、と願ってしまったのです。


 だから、五郎さんごめんなさい。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 最後の最後でああ、そういう事だったのかと気付く構成。 これ以上語ろうとするとネタバレになってしまいそうなので一言だけ。面白かったです。
[良い点] 秀逸なストーリーと巧みな表現が素晴らしかったです。 [気になる点] お話自体は素晴らしいのですがホラーかと言われれば?という感はあります。また、数ヶ所誤字もありました。
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