映るのは 1
誠哉視点開始です。
葉月視点よりも少し前から話は始まります。
―――『ハヅキ』。
その名前を初めて耳にしたのは。
都心に堂々と構える立派な事務所の、とある一室でだった。
「…ハヅキ」
無意識のうちにその名を繰り返す。
煙草の煙をふーっとゆっくり吐き出してから、目の前にいる男は「そうだ」と頷いた。
若く見えるこの男は、外見通り若い。おそらく20代後半といったところか。
伊瀬勇治。
この若さで「社長」というポジションに就いているというのだから驚きである。
だが、流石というべきか。
彼にスカウトされて以来、かれこれ3年以上の付き合いになるが、彼の頭の回転の速さと手際の良さには毎回脱帽させられる。
無名の新人が、いつのまにか世界にまで活動の幅を広げる一流モデルに。
この事務所から何人輩出されたか分からない。
全ては、この目の前にいる男の力。そう言っても決して過言ではないはずだ。
一躍、この事務所が大手として有名になったのは言うまでもない。
「今までモデルなんてやった経験なんて勿論ないから、アイツも最初は戸惑いだらけだろう。そこで、だ。お前にサポート役を頼もうと思ってな。誠哉、お前をここに呼んだわけ」
「珍しいですね、社長がそんな事頼むなんて…」
少なくとも俺がこの業界に入った時は、ちゃんとしたサポート役が付かれた覚えなどない。
そう呟くと「お前はサポート役なんかなくても、勝手に伸し上がってっただろ」と呆れたような目を向けられた。
ま、間違いではないけどね…
「いんや、まぁ、確かに珍しいかもな…ただアイツの場合事情が事情なだけに、必要なんだよ」
「事情…?」
「ま、そこはオフレコで」
ふぅん?
意味アリなわけ、ね。
大して興味があるわけじゃないから、深く追求することなく話題を変える。
「でもこの時期ってことは…オーディション審査を勝ち抜いたってわけじゃなさそうですね」
「ああ。俺がスカウトした」
ぴくりと、眉が上がる。
少なくとも俺以外に、社長直々にスカウトされたモデルを他に知らなかった。
その事実だけで、自分なんてこの世界に入ってから注目を散々浴びる破目になったというのに。
「明日の午後からお前と一緒に仕事に入って貰う予定になっている。正直お前みたいな忙しい奴に頼むのもどうかと思ったんだが…他にいなくてな。頼まれてくれるか?」
「社長の頼みとならば断れませんよ。俺で良ければ、引き受けさせて貰います」
笑顔でそう言うと、社長はほっとしたように顔を緩めた。
「そうか…助かるよ。ありがとう」
一礼して、部屋を後にする。
正直面倒くさい、としか思えなかった。
だが社長のあの言葉を聞いてから変わった。
あまり認めたくはないが、どこか楽しみにしている自分がいる。
その事実に驚きつつ、唇の端が僅かに上がる。
―――――ハヅキ、ね……
社長にスカウトされたという男……
果たしてどんな奴なのか見物だな。
そんなことをぼんやりと考えながら歩いていると、シャツのポケットに入っていた携帯が振動する。
表示されている名前は、どこで会ったのかも覚えてない、女の名前。
確か同じモデルかなんかだったように思う。
無視していたが、しつこく鳴り続ける携帯に、諦めて通話ボタンを押した。
「…はい、セイヤです」
聞こえてきたのは想像通り。
耳障りな、甘えたような声。
不快感が出ないように、落ち着いた声で返事を返す。
「…ああ、加奈ちゃんか。―――え、今日この後?」
…そういえば、最近女ともご無沙汰だったし。
一日ぐらいならちょうど暇潰しにいいか。
女を満足させて、後腐れのない関係に持ち込めば言い話。
―――――後から思えば、こんなあからさまな誘いに乗るなんて自分らしくなかったと思うが。
暫く逡巡してから、了承の返事を出す。
電話の向こうで嬉しさに舞い上がる女の声を耳にしながら、頭の中は何故か明日の仕事のことを考えていた。