背中の未来
雨が、降りそうだ。
空気中に漂う雨特有の匂いが鼻に伝わる。
頭上にはどんよりと、目に映るだけで気が重くなりそうな雲が空を覆っている。
誰の目にも、雨が降ることは明らかだった。
「これはヤバイぜ! 絶対降る!」
俺はすぐ近くまで雨が迫っているのかもしれないという焦りから、自転車のペダルを踏みつける力を、さらに強くした。
「洗濯物も干したままだし、今日は布団まで外に出しちまってる! ヤバイ!」
「やばい〜」
独り言のつもりだった俺の言葉は、後ろの席に乗った5歳の少女に拾われた。
「晩ご飯の準備もあるし、急がねーと!」
「いそがね〜と〜」
一瞬だけ視線を背後へ向けると、自転車の荷台に付属した座席に座る彼女は、焦りをちっとも感じさせない明るい笑顔で、
「に〜ちゃんがんばれ〜」
と応援してくれた。
今年で5歳、今日が入園式だった彼女はきっと、どうして急いでいるかは分からないけれど、応援だけはしておく……といったところなのだろう。
「おう! にいちゃん、頑張るぜ〜」
笑顔で答えてから、
「ちょっと急ぐから、ちゃんと掴まってろよ!」
あい〜、と返事をしたのを確認して、ペダルの上で中腰になった。
力をさらに加えられた自転車は、焦燥感に駆られる俺を強い風の世界へ誘う。
すでに何度か水滴が頬へ攻撃を繰り出しているような感覚があったが、それは俺の超スピードによって温められた空気が外気に触れて急激に冷やされたことによって生まれ……といった何かだろう。
詳しく考える意味は無い。
「おにーちゃん」
応援してはくれたが、ただ懸命に座席にしがみついているだけのこの少女にはいまいち必死さが伝わらなかったらしく、加速してから数分後に、
「ようちえんってなにするの〜?」
と話しかけてきた。
昨日、何度か聞かれたからその度に説明した筈なんだけどなー。
俺は仕方なく、話が出来る程度に速度を下げて、
「友達と遊んだり、歌ったりするところだよ」
「おべんきょうは、しないの?」
「遊ぶことが勉強なのさ」
「そうなの?」
「幼稚園と小学校の間はね」
「あそぶのが、べんきょうなの?」
不思議で堪らないのだろう、分からない、といったふうに尋ねる妹に、そうだよと返すと、また分からないといったふうに、
「へんなの」
と呟くのだった。
幼稚園に入園したばかりの子には分かりにくい言い方だったかもしれない。
そう思った俺は、
「学年が上がったり、上の学校に行くと段々難しくなるんだよ」
と言い換えた。
「あ、それしってるー。ようちえん、しょうがっこう、ちゅうがっこう、だいがく……それから、えーっと」
少し惜しい。
「中学校、高校、大学、な」
「へー」
我が妹は自分で言い出したわりにはどうでもよさそうに返してから、
「おにーちゃんはちゅーがく?」
と訊いてきた。
「お兄ちゃんは、高校生だよ」
ついでにいうと高校二年生……と言い切らないうちに、次の質問が来た。
「おにーちゃんもあそぶの?」
「たまにな」
「じゃあ、べんきょうもたまになんだ」
「いや、勉強はたくさんだ」
「……?」
おそらく首を傾げて、意味が分からない、と考えていることだろう。
とりあえずは、それで良いのさ。とは言わず、俺は少し黙って考える。
この間よちよち歩き始めたかと思えば、もう幼稚園に入る……。早いななんて思うのは、これだけ年齢が離れているからだろうか。
これからはもっと成長が早くなるだろう。
友達が出来るだろうし、その友達と喧嘩することもあるだろう。
泣いたり笑ったり、怒ったり。様々な状況に出くわすだろう。
たくさんの人と出会い、気の合う人や苦手な人を覚えていくだろう。好きな人だって出来るかもしれない。
……とまあ、彼女がまだ知らない世界を垣間見た人間として、これだけは言ってやろうかと思った。
「頑張れよ」
あい〜、と元気良く、背中から声が聞こえた。
――――あとがき――――
どうも。
風月白夜です。
好きな食べ物はサラダです。
加えて、苦手なことは後書きを書くことです。
この度は小説を読んでいただき、まことにありがとうございました。
電車に乗ってる時に、感傷に浸って書いてみました。
次作:井の中の蛙、大海を知らず http://ncode.syosetu.com/n4638cc/
前作:サイレントソング http://ncode.syosetu.com/n9446ca/