第1話 「もう働きたくない」
「――もう、働きたくない」
それが、俺の最後の言葉だった。
薄暗いオフィス。
蛍光灯の白が、やけに目に刺さる。
時計は午前2時を回っていた。
「山田さん、この資料、朝までに直せます?」
後輩の声が遠い。
いや、遠くなっているのは俺の方か。
「……ああ」
返事をしたつもりだったが、声が出ていたか分からない。
デスクの上にはエナジードリンクの空き缶。
未読メールは57件。
明日の会議資料、未完成。
(あと……どれくらい作業すれば終わる……?)
考えようとした瞬間、頭の中が真っ白になった。
視界が揺れる。
ぐにゃりと床が歪む。
「あ……」
そのまま、俺の意識は途切れた。
……静かだ。
おかしい。
こんなに静かなオフィスなんてあるはずがない。
ゆっくりと目を開ける。
見えたのは――知らない天井だった。
「……は?」
木造の梁。
ひび割れた壁。
そして、土の匂い。
(病院じゃない……)
身体を起こすと、ギシ、と床が鳴った。
そこで、ふと自分の手が目に入る。
シワの目立つ手。
乾いていて、少し荒れている。
(……いつものままだな)
若返ってはいない。
むしろ、寝不足がそのまま残っているような感覚。
顔をこすり、軽く息を吐く。
(社畜のまま異世界か……最悪だな)
外に出る。
そこで、はっきりと理解した。
「……異世界だな、これ」
石畳の道。
木造の建物。
見慣れない服装。
そして何より――
(空気が違う)
人の流れも、音も、全部が違う。
「……ん?」
ふと、自分の服を見る。
いつものスーツではない。
粗い布のシャツ。
紐で結ぶ簡素な上着。
革のズボンに、軽いブーツ。
(……いつの間に着替えた)
触ると、妙に馴染んでいる。
だが鏡がなくても分かる。
(似合ってはいないな)
どこか違和感がある。
元の世界の癖が抜けていない。
そのとき、頭の中に唐突に表示が浮かんだ。
《スキルを取得しました》
《複利》
「……は?」
半透明の文字。
どう見てもゲームだ。
《複利:あなたが所有・関与するものは時間とともに増幅されます》
「……意味分からん」
だが消えない。
(いや、落ち着け)
こういうのは確認するしかない。
まずは――
「金だな」
現実的な問題はそこだ。
ポケットを探る。
何もない。
完全に無一文。
(詰んだか……?)
だが、ふとスキルが頭をよぎる。
《複利》
(“増える”んだよな?)
なら――
「増やすしかない」
屋台の前に立つ。
パンの香りがする。
「……」
空腹が、ようやく実感として湧いた。
「すみません、このパン一つ、いくらだ?」
店主に聞く。
値段を聞いた瞬間、思わず眉が動いた。
(安すぎる……)
(これ、回せばいけるな)
事情を話し、荷運びを手伝う。
その対価としてパンを1つもらう。
市場の端に移動。
パンを掲げる。
「焼きたてのパン! 安くするぞ!」
声を張る。
……慣れていない。
だが、やるしかない。
「いくらだ?」
一人が足を止めた。
「銅貨1枚」
少し考えたあと、その客はパンを買った。
(利益1枚)
小さい。
だが――
「……ん?」
手の中の銅貨。
重さが、違う気がする。
見直す。
「……2枚?」
確かに増えている。
減っていない。
増えている。
(は……?)
もう一度試す。
パンを仕入れ、売る。
今度は銅貨2枚。
そして少し時間を置く。
「……4枚」
増えている。
確実に。
時間で。
「はは……」
笑いが漏れる。
(なんだこれ)
(なんだこれ……!)
2枚が4枚。
4枚が8枚。
(倍々か?)
いや、それ以上だ。
関与した“もの”が増える。
つまり――
金だけじゃない。
(商売も、信用も、全部だ)
「……勝ったな」
この世界。
働かなくてもいい。
いや――
「働かない方が、効率いい」
やるべきことは一つ。
「仕組みを作る」
あとは放置。
時間が働く。
それが複利。
「……最高じゃないか」
空を見上げる。
広い空。
静かな空気。
あの地獄みたいなオフィスとは違う。
「もう働かない」
そう、強く誓った。
――だが、このときの俺はまだ知らなかった。
この力が。
金だけじゃなく。
“人”や“流れ”までも増やしてしまうことを。
「静かに暮らしたいんだがな……」
そう呟きながら、俺は手の中の銅貨を見つめた。
それは、確かに増え続けていた。
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