捌
翌朝。
母に甘えてからぐっすりと寝た風香は、思いっきり寝坊していた。
時計を見て開口一番「どうして起こしてくれなかったの!?」と文句を口にするものの、母からは「声はかけたわよ!」とピシャリ。
昨晩の事もあって風香としてはそれを言われると弱い。
散々甘えて朝も甘えて、となれば親に依存し過ぎだろう。とはいえ、文句が言いたいのも事実なので「むぅ……」とその意思だけ示しつつ、慌てて食卓に並んでいる朝食を口にする。
「こら、ゆっくり食べなさい!」
「ほへんははいっ」
母からのお叱りに対して、口の中に物があるままそう謝罪して、ごくりと飲み込む。
随分と行儀の悪い食べ方だが、全ては遅刻しない為。
まだ走ればギリギリ間に合うのだから、できる限りは急ぎたいという考えの下、風香は慌てて食べ終えたのだった。
そんな彼女の様子を見て、叱ったり注意するべき母だが、遅刻と天秤にかけられた状態ではそれ以上強く言う事もできない。
結局のところ「……全く……」と呆れるのが精一杯で、そのままどたばたと出かける準備を終えて「行って来ます」と挨拶をして家を飛び出る風香の様子をたた眺めるのみだった。
「……ほんと、若いっていいわよねえ……」
嵐のように去って行った風香の様子を思い返しながら、母はそう口にする。
こうやって慌てるのも若さゆえの特権というもの。大人になったらもっと余裕を持った行動が求められる為だ。
そんな我が子の様子を見て満足そうにしながら「自分もそろそろ出かけないとね」と言ってテーブルの上に残されていた食器を食洗器に入れ、自身も準備を整えて家を出るのであった。
「おはよう今井さん。今日はギリギリなんだね」
慌てて教室に飛び込んだ風香に対して、開口一番クラスメートのかけた言葉がそれであった。
クラスメートからのそんな言葉に「ちょっと寝坊して……」と言い訳をしながら教室をチラリと見やると、そこには小鳥遊翔の姿も無事にある。
昨晩――といっても丑三つ時だから日付としては今日だが――早々に黒幕を見つけ、翔の救出に成功した事もあって、彼の体調等は特に異常なし――と風香は師匠から聞かされていた。
とはいえ、実際にその姿を見てみるまでは安心できないのもまた事実であり、こうして彼の無事な姿を見る事ができて風香はほっと一安心しつつもそれを表には見せない。
小鳥遊翔は学内の人気者。
そんな彼に向けてあからさまな何かのアクションを起こそうものなら、周囲――学内で翔を狙っている女子たち全員を敵に回す事となる。そう考えた風香はさっと視線を翔から逸らして鞄の中身を机の中へ入れたり、準備をするのだった。
それから数時間。要は放課後。
学校生活は至って普通。
平々凡々というもの。
誰かに呼び出されたりといった非日常はそこにはなく、いつものように夏の暑さにぐったりとしつつ、先生の授業に耳を傾ける――ただそれだけのつまらない日々。
つまらないが、これこそが風香の求めていたもの。
特別でなくとも、それなりに心を満たす何かは確かにそこにある。
それがわかっているからこそ、安心して学生生活を過ごしている訳なのだが。
……だが、心の内に何かポッカリと穴が開いているようにも風香には感じられて、それを気のせいだと思い込みながら下駄箱へと向かう。
「……あれ?」
そこには、いつかのように紙切れが一枚、入っていた。
裏返してみれば、そこには見覚えのある筆跡で、とある時間にとある場所で、という内容。
その時刻までまだ時間があると言うのに、風香はそれを目にした瞬間、指定された場所へと向かうのだった――。
午後六時手前。守館公園にて。
夏とは言えど、日が傾いてくる頃合。そわそわしながら時計を見る風香の下に待ち人がやってくる。
「ごめん、待たせたかな」
そこにやって来たのは、あの日あの時と同じ。
小鳥遊翔本人だった。
翔の気遣うような言葉に対して「いや、時間通りだって」と風香は返す。
まさか放課後から今の今までずっとここで待っていた、とはこの場で自分から言い出すのはどうかと思って黙る事にした。
そんな風香をよそに翔は風香の隣へと歩み寄る。
「聞きたい事があるんだけど」
翔の問いに対してどのような意図があるのかを掴み切れない風香は「何?」と尋ね返す。
聞きたい事、というのは果たしてなんだろうか。
怪異に関する様々な事というのは、風香としては記憶を処理したつもりであり、その事について聞かれる可能性は限りなく低い。
ただし、それ以外の内容だとすれば、風香と翔の接点というのはクラスメート以外にはなく、早々話題になる事もない。
となると、風香としてはどうなるのかが一切わからない――というのが実情であった。
困惑しているものの、可能な限り平然を装っている風香に対し、翔はそれを察する事無く本題を口にする。
「……昨晩、何があったか知ってる?」
その言葉に、風香は「え……?」と声を漏らす。
記憶の処理そのものは完璧の筈だった。
完璧、というのは何の痕跡も残らないよう徹底的にやった、という意味である。
そもそも、昨晩の記憶をどうこうしただけでは、当事者に違和感というものが残ってしまう。
例えば、行方不明になっていた期間。本人が覚えていなくとも、周りが記憶していれば違和感を抱いてしまうだろう。
だからこそ、こうして行方不明が長期間――といっても、今回のケースでは数日も経っていないが――になった場合には、当人だけでなくその関係者――今回のケースで言えばクラスメートや野球部員等である――も記憶の処理を行う必要がある。
これについては、翔の行方不明という件について関連するであろう人物全員に対して、怪討の集まり――全日本怪討組合、通称“全日討”が組織ぐるみで記憶の処理を行っている。
こうでもしなければ、どこからか怪異についての情報が表に出てしまうかもしれない。
怪異というものは、物理法則等では説明のつかないよくわかっていない存在だ。
それが、実際には身の回りに潜んでいて――等とそのような事が表沙汰になれば、世の中が混乱してしまうのは目に見えている。
だからこそ、怪討は毎晩怪異を討伐し、怪異と言う存在が表に出ないよう尽力している。
――にも関わらず、翔は今確かに“昨晩”の事についてピンポイントで風香へ尋ねた。
これは、一体どういう事なのか、と風香は困惑する。
そんな風香に対して「……いや、答えにくいなら、いいや」と翔はあっさりと先程の問いを引っ込める。
「いいの?」
思わず、風香はそう尋ねる。
何かしら答えるべきだったのではないか、と思っていた。
だからこそ、あっさりと翔が問いを引っ込めたことに驚いていた。
すると翔はそんな風香の疑問に答えるかのように「……実のところ、夢か何かのような微かなものなんだ」とポツリと口を開く。
「夢と片づけるのは簡単だけど――でも、なんか夢じゃないような気がして」
そう言いながら、風香の顔を見る。
真剣な顔。それも、端正な顔に見つめられて風香は思わず顔を赤らめる。
その赤は夕日によるものでないのは明らかだった。
「あの言葉、嘘じゃないんだよな?」
翔の言葉に、風香は昨晩の事を思い返す。
――コイツは私のものだ。
言った。
確かにそう言った。
だけどあれは、風香からの一方的なものであった。
――そのはずなのに、である。
「責任、とれよ……朝から今井の事……忘れられないんだからさ……」
この段階で、風香が改めて翔の顔を見てみれば、彼の顔も赤らんでいるのがよくわかる。
そんな彼の様子に風香は心の奥底から湧き上がってくる何かを感じ取る。
それは歓喜かはたまた安堵か。その感情にどうラベルをすればいいのか、風香にはわからない。
だが――。
「言ったね、翔」
笑みを浮かべながら風香は翔を抱きしめる。
様子の変わった風香に対して翔は「い、今井……?」と困惑する声を漏らす。
「そんな事言われたら、誰にも渡したくなくなるじゃん……そっちこそ、責任、とってね……?」
力強く抱きしめる。
その華奢な四肢のどこに力があるのか、と翔は困惑しながらも風香からの愛情をただ享受する。
そして、意を決して「わかった。こっちこそ、責任とるよ」と宣言してから、翔の方からも風香を抱きしめる。
記憶をどうこうしたとしても、残っているものがある。
こうして、二人を巡る怪異の事件は幕を下ろしたのだった――。
作者より。
本作と同じ世界観の前作も、もしよければ是非。
▽怪討のツルギ-コスプレ少女は今夜も怪異を斬る-
https://ncode.syosetu.com/n7037kr/
次話(最終話)は9/30 8:10に更新予定です。




