弐
二〇二二年六月午後三時。
T都八宝子市。
市立浅河中学校二年一組の教室にて。
「すごくだるい……」
放課後の教室にて、濡羽色の髪を肩にかかるあたりで切り揃っている彼女――今井風香は目の前の机に突っ伏しながらそう言った。
そんな彼女を見て「大丈夫?」と声をかけるクラスメイトに対しては「だいじょぶ……」と返しながらも、自身の不調について彼女は考える。
風香のだるい、というのは、何も今日始まったものではない。
つまりはここ最近ずっと感じている事である。
寝不足――ではないだろう。
帰宅部である彼女は、放課後の時間に大分余裕がある。試験勉強や宿題に関して言えばその時間を使えばそこまで苦労する事はなく、夜はやる事もないから早く寝る。至って健康的な就寝時刻である。
自身の性別によるもの――ともまた違うように彼女は感じていた。
だるい、と感じて以降にそれとは別途にそれを感じており、それに関して言えば今は引いているものの、だるさについては未だに残っている。
という事は、それぞれが別途のものであると考える方が自然というもの。
――せめて同一であって欲しかった。
等と考えても、実際に別々で感じているのだからどうしようもない。
どうしたものか、と思いながらゆらりと立ちあがる。
そんな彼女を見て「本当に大丈夫?」と親切にも声をかけるクラスメイトがいるが、いつまでも教室で突っ伏している訳にもいかない。
とっとと帰って横になった方が楽、と考えた風香は「平気だって」と取り繕いながら教室を後にした。
とは言いつつ、全然大丈夫ではない。
年号が令和に改められて既に数年。
近年の六月は梅雨の湿気と真夏の暑さが重なりあったような気候で、不快指数で言えば真夏にも劣らない。
そのような環境で外を歩くというのは風香にとっては苦痛でしかなく、また学校から彼女の自宅はそれなりに距離がある場所というのもあって、その環境に長い間晒されるというのは彼女にとっては耐え難いものであった。
尤も、今更学校まで引き返すのは論外だし、道中のどこかで涼んだとしても最後は外を歩くのだから然程変わらない。
耐えて自宅まで歩いてしまった方がいい、という結論に至るのにそこまでの時間を要さない。だが――。
「――ほんっとだるい……」
風香の今の姿を見れば心配の声をかけるようなクラスメイトがいない今、風香は周囲に配慮して小さくそう呟く。
ぶつぶつと愚痴を口にしながら、ゆっくりと風香は自宅へと向かうのだった。
そうして徒歩で三〇分程――倦怠感で歩行速度が遅かった事もあるが、学校からは相当離れている――で風香は自宅に辿り着く。
ふぅ、と安堵のため息をつきつつ、鞄から鍵を取り出して玄関の鍵を開ける。
「ただいまー」
帰宅して開口一番にそう言うが、それに応える声はない。
彼女の両親は共働き。このご時世では特に珍しい事でもない。
とはいえ、こうして体調不良の時くらいは帰宅した時に家族が待ってるというシチュエーションの方が好ましい、と彼女が思ってしまうのは無理もない話である。
気怠いながらもなんとか風呂も済ませ、着替えて即布団に倒れ込む。何かをしよう、という気力なんてものはない。
ただ、ここまで気怠いのだからとっとと寝てしまえ、という考えのもと風香はそのまま寝るのだった。
――起きろ。
微睡みの中、そのような声が風香には聴こえる。
うるさいなあ、と心の内で呟く。
――起きろ。
再びそのような声。
寝てしまいたい風香にとっては鬱陶しいものとしか言いようがない。
「うるさい!」
ばさり、と音を立てながら風香が飛び起きると、そこには何もなかった。
散々風香に「起きろ」と言った声の主はどこにも見当たらないし、ふと時計を見やれば一九時。
そろそろ夕食時と起きるにはちょうどよい時間。
結果的には良いアラームになった、と先程の声に対しての印象を良化させようとしたが、とある違和感に「ん?」と声を漏らす。
ふと、風香は背中に重みを感じた。
寝ている時に何かを背負うなんて趣味を持ち合わせてはいない。起きた瞬間に何かを背負った、なんてのもあり得ない。
そして、視界の端には何やら翼の先のようなものが映っている。濡羽色のそれは、風香が内心で自慢している自身の髪の色と同じであり――というのはともかく、ちらりと後ろへ視線をやると、背中から何かが生えている事に風香は気づく。
何か、なんて言葉で濁す必要がどこにあるだろうか。
いや、ない。
「なにこれッ!?」
驚きから思わずそのような声が出る。
――風香の背から、烏を思わせるような大きな翼が生えていたのだから。
どういうことか、と身体を捻りながら自身の背をうまい具合に覗き込もうとすると、その動作で微妙に背に力が入ったからか、意図せず翼が動いて「うわっ!?」と声を漏らす。
意図していないとはいえ、翼が動かせてしまったという事実にもまた驚く。
状況的にあり得ないとはいえ、翼が動かないのであればまだコスプレとかそういう類だろうと納得ができたのだから。そうではなく、まず間違いなく自身の背に生えたものであるという事実を突きつけられて驚かないものがどこにいるとういのか。
幸いにして、服を突き破ってという事はなく、どういう原理なのか服はそのままに貫通して生えている。
着ている服をダメにせず済んだというのは良いとしても、身に覚えのない翼なんてものが生えている現状に対して、風香は困惑せざるを得ない。
そうしていると、ガチャリと玄関から鍵が開く音。
両親のどちらかあるいは両方が帰って来た音だ、と風香は察する。
もともとは気怠さ故に、家族に早く帰って来てほしい、と考えていたが翼の問題がある今は異なる。
このような非現実的なものを親に見せて大丈夫なのだろうか――等と考えるが、その考えがまとまるよりも先に「ただいまー」という風香の母の声が耳に届く。
おろおろと狼狽えて、ろくに身動きもできないままに風香の母は風香の下へとやってくる。慌てて布団の中に潜り込んで翼を隠せないか、と考えた風香だが、不自然な膨らみが出来上がってしまう。
「……あ」
寝室までやってきた風香の母がそれを見て声を漏らす。
万事休す、とただ絶句する風香に対して母の表情はどこか穏やかである。
暫くの間。沈黙が少しだけ続いた後に、風香の母は「そっかあ……」と口を開く。
「これが隔世遺伝ってやつかぁ……」
――隔世遺伝でそんな事にはならんやろ。
そんなツッコミの意を込めた風香渾身の「は?」という声がその場に響き渡る。
一先ずはご飯、と目の前には母の用意した晩御飯が並べられている。
そんな中で「いや、実はお母さん、烏天狗の末裔でねぇ……」と風香の母は口にするが、風香としては「はぁ……」とどう反応すればよいやら、という状況である。
御鷹山の麓に住んでいる風香からすれば、烏天狗という存在は知っている。ただ、それはあくまでも伝承としてである。
そんなものが実在しているだなんて事は一切想像していなかった上、自分がそのようなものと関わっている等考えた事もない。
このような状態で自身の背に翼が生えて、実の母から「烏天狗の末裔」などと説明をされたところで、一瞬で「はいそうですか」と納得できるはずも無いのである。
「だったら、お母さんも烏天狗なの?」
「いやだから言ったじゃん。隔世遺伝だって。私は“視える”程度には奇力があるけれど、翼は生えなかったのよ」
残念そうに母がそう言うが、どのあたりが残念なのかと風香は問い詰めたくなる。
ごく平凡な日常を送れさえすれば良い、と考えている風香にしてみれば、このような翼は無用の長物なのだから。
「というかこれ、どうすればいいの? こんなんで学校とか……」
そもそもな話、常人にはあり得ない翼の生えた状態でどう日常生活を送れば良いのか、と言う至極尤もな疑問を風香は口にする。
これに対し母は「普通の人には見えないし、そのままでいいでしょ」とあっさり返して「えぇ……」と風香はただ困惑するのみ。
そんな風香をよそに「あ、そうだ」と何かを思い出したかのように母が口を開く。
「烏天狗としての力が目覚めたんだから、連絡をとらないとね」
「……連絡?」
「烏天狗の先輩に、ね」
そこから先は母によって師匠に引き合わされて、厳しい扱きにも耐える日々。
師匠に師事してから三年経った現在。
風香は、怪異を討伐するもの――怪討の中で特等という例外を除けば上から二番目の等級である二等怪討となっていたのだった――。
作者より。
本作と同じ世界観の前作も、もしよければ是非。
▽怪討のツルギ-コスプレ少女は今夜も怪異を斬る-
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