08、ヴァイオラの婚約者ユーグの秘めた趣味
辺境伯邸の廊下には、珍しい花瓶や民芸品などがいくつも飾られていた。帝都周辺とは異なる原色の彩りに見とれていると、またじっとりとした冷たいものが私の左手を包み込んだ。
振り返れば予想通り、ユーグが両手で私の手を抱きしめ、頬をすり寄せている。
「セザリオ皇太子殿下。こんなに美しい方だったとは――」
熱に浮かされたようなまなざしに、心臓が跳ね上がる。やはり女性だと見抜かれているのでは!?
ユーグは私の手の甲に髭の剃り跡をこすりつけながら、うっとりとつぶやいた。
「あなたは僕がこれまでに出会ったどの男性より美しい……」
バレていないようね。安堵すると同時に、私はハッとした。ミシェル様の侍女メイが話していた、女嫌いという噂を思い出したのだ。
ユーグは私を抱き寄せながら、調度品の並ぶ廊下を歩きだした。
「父上が僕を社交界に出さなかった理由が分かったよ。美しい皇太子様に会わせないためだったんだ」
ユーグのヒステリックな口調は子供じみている。
私も社交界から遠ざけられてきたから、彼に同情しないわけではない。だが、誰彼構わず惚れる男好きの息子を人前に出したくなかった辺境伯の気持ちも分かる。まさか今ごろ、私とユーグが二人きりになっているとは想像もしていないだろう。
私の腰を抱きつつ階段を登りながら、ユーグが芝居がかった仕草で手のひらを天井に向けた。
「ああ、セザリオ殿下が僕の婚約者ならよかったのに、どうして男同士では婚姻を結べないんだ!」
「お世継ぎの問題があるからでしょう」
冷めた声でたしなめる私に、ユーグは情熱的な調子で答えた。
「遠縁の子供でも養子にもらえば解決する話じゃないか!」
なるほど、その手があったかと納得しかけた自分に驚く。
心の奥底から響く、「ミシェル様が私の婚約者ならよかったのに、どうして女性同士では婚姻を結べないのでしょう」という嘆きを無視しようと努めていたら、ユーグが重厚な扉の前で足を止めた。
「僕の愛する人にだけ、特別な部屋を見せてア・ゲ・ル」
気持ちの悪い言い方でささやいて、ジュストコールのポケットから鍵束を取り出した。扉には上、中、下と三つも鍵穴がついている。重そうな鍵を差し込んでいるユーグの背中を見ながら私は、平和で幸せな辺境伯生活という未来がガラガラと崩れていく音を聞いていた。
「さあ、どうぞ」
ユーグが開けた扉の中をのぞいた私は、思わず両手で口元を覆った。
「拷問部屋!?」
「まさか」
ユーグは軽蔑するように吐き捨てる。
「僕は暴力を好まない平和主義者です」
いやいや、棚に並んでいるのはどう見ても、兄が好みそうな拘束具や猿ぐつわなんだけど!? 私には使い方が分からないし、知りたくもない器具がたくさんある。
ユーグはつかつかと棚に歩み寄ると、ロウソクの横に置いてあった長いロープを手に取った。
身の危険を感じて逃げ出そうとする私の手首をつかみ、
「これで僕を縛ってくれませんか?」
太いロープを押し付ける。
えっ、自分が縛ってほしいの!?
呆気に取られているうちにユーグは重い扉を閉め、簡易的な寝台に座ると、ジュストコールを脱いだ。
「何をしているんだ?」
扉へ向かってじりじりと後退しながら、ロープを手にしたまま尋ねる。
「服を脱いでいるのです」
見れば分かるわよ!
ジレを脱いだ彼は、キュロットのボタンに指をかけた。粗末なモノなど絶対に見たくない!
「やめたまえ! 無礼だぞ!」
私は声を荒らげつつ、ロープを鞭のようにしならせて思わず彼の腕をたたいた。
「良いっ!」
ユーグが歓喜の雄叫びを上げる。全然よくない!
「セザリオ様っ、もう一度僕をぶって!」
寝台から立ち上がったユーグがふらふらと寄ってきて、私の前にひざまずいた。
「離れろ!」
膝のあたりにしがみつかれた私は、必死でユーグを蹴り飛ばそうとする。だがユーグはびくともしない。
「お美しいセザリオ様――」
私の靴に口づけしたユーグの唇が、脛から膝、そして太ももへと這い上がってくる。
「キャーッ」
私は耐えられずに悲鳴を上げた。
「可愛らしい声をされているのですね、セザリオ様」
ねっとりとしたまなざしで見上げられて血の気が引く。男装がバレた!? いやむしろ女性だと分かった方が安全かも!?
混乱する私の耳にバンっと大きな音が響き、続いて、
「やめろ!」
凛とした青年の声が響き渡った。
「誰?」
声のした方を振り返れば、バルコニーの窓が開け放たれて、人影が飛び込んできたところだ。
「何者だ!?」
立ち上がったユーグが腰の剣を抜いた。
ドレスをひらめかせて舞い降りたのは、なんと可憐なミシェル様だった。
「セザリオ様に何をした?」
両手で長いスカートをたくしあげる。露になった白い太ももに、私の目は釘付けになった。筋肉質な脚には革のベルトが締められ、短剣が収まっていた。
ミシェル様は目にも留まらぬ速さで剣を抜き、ユーグの長剣を受け止めた。
間合いの長い武器を持つユーグは圧倒的に有利なはずなのに、その両手は震えていた。
「キ、キサマっ、僕と殿下の逢瀬を邪魔しやがってぇ!」
唇をわななかせ、涙ながらに叫んだとき、廊下側の扉がきしんだ音を立てた。
「坊ちゃま!」
悲鳴を上げて駆け込んでくる執事に続き、ニーナとメイ、辺境伯家の使用人たちがなだれ込んでくる。
ユーグが彼らを振り返った一瞬の隙に、ミシェル様はユーグの手首をつかんでひねり上げた。
「痛い、痛い!」
力を失った手から剣がすべり落ちる。床の上で音を立てた剣を、すかさずメイが蹴り飛ばした。
鮮やかな二人の動きに一同が呆然としているところへ、ジョルダーノ卿が駆けつけてきた。
「ユーグ、何をした!?」
手首を押さえて泣いているユーグと、壁際で震えている私を見比べて、辺境伯は青ざめた。ミシェル様はいつの間にか短剣をしまったらしく、令嬢らしく控えている。
「違うんだ、パパ!」
涙に顔を濡らしたユーグが、ミシェル様を指さした。
「この女が僕に暴力を振るったんだ!」
「なんですって!?」
金属質な高い声は、両手でドレスをつまみながら走って来た辺境伯夫人のものだった。
「あたくしの大事な坊や、痛い目にあったのですか?」
「ママぁ」
長身のユーグが母親にすがりつくのを、ジョルダーノ卿含めその場の全員が冷ややかな目で見つめる。この母親が息子を甘やかして、欲望を抑えられない大人に育て上げたのだと、私は納得した。
「まあ、愛しいユーグ、どこをお怪我したの?」
「あのピンク髪の女に手首の骨を折られたんだ」
ユーグは自称骨折した右手でミシェル様を指さした。
「とんでもない言いがかりだな」
私は吐き捨てた。私を守ってくれたミシェル様を罪びとにするなど許さない。今度は私がミシェル様を守る番だ。
「ジョルダーノ辺境伯」
私は顔面蒼白のまま成り行きを見守っていた辺境伯に、毅然とした声で言い放った。
「ご子息ユーグ殿と妹ヴァイオラの婚約は破棄させてもらう」
今回のヒロインは自分から婚約破棄!
次回から第二幕となります。
皇帝までが心労で倒れた中、ヴァイオラは皇太子として政務を代行し、重臣たちに認められていきます。
ヴァイオラを応援してやろうという方は、ページ下から☆をタップしていただけると嬉しいです!