05、男装皇女、ミシェル妃との初夜に挑む
「今日はだいぶ疲れたろう」
私はなるべく低い声で話しかけた。
「はい」
答えた彼女の声は、心なしか震えている。
「今夜からこの宮殿が君の家だ。緊張しなくて大丈夫だよ」
燭台の炎がゆらめき、彼女の青ざめた頬に長いまつ毛が影を落とした。
「寒いのではないか?」
隣に腰かけた私はガウンを脱いで彼女の肩にかけた。思いのほか骨ばった肩が、初陣に挑む少年騎士のように震えている。
初夜とはいえ、こんなにおびえるものだろうか? 私も来週、辺境伯令息ユーグ様に嫁いだら、ここまで思いつめるのか?
いや、人質として差し出された彼女と私では立場が違うか――と納得しかけたとき、廊下側の扉がノックされた。
「ど、どうぞ」
ミシェル様が私より先に返事をする。夫婦の寝室に人が訪れた場合、妃は皇太子を立てるように教育されているはず。私は偽物だし構わないが、なんだか妙だ。
入って来たのは、両手に銀のトレイを乗せたメイだった。ニーナが忠告した通り、お茶を持ってきたようだ。
メイは優雅な仕草でカップを二つ、サイドテーブルに並べ、片方をミシェル様のほうへ向けた。
トレイを胸に当てたメイが礼儀正しく寝室から出て行くと、ミシェル様はメイの触れたカップを持ち上げた。
「セザリオ様もどうぞ」
湯気と共にかぐわしい香りが立ちのぼる。だが私は首を振った。
「私はあまり胃が強くなくてね。美しい女人を前に紅茶を飲むと、胃痛になってしまうんだ」
冗談めかして断ると、ミシェル様の青い瞳が、冷たいサファイアのように凍り付いた。こんな謎めいた美少女と二人きりで過ごしていては、本当に胃痛になりそうだ。
私は早々に退散することにした。
「君が望むなら、今夜は一人で休んでほしい。私たちはこれからもずっと夫婦だ。急ぐ必要はない」
立ち上がった途端、
「お待ちください!」
ミシェル様が私の腕を引いた。私はふかふかのベッドに尻もちをつく。ミシェル様、意外と怪力!?
いや、それよりなぜ私を呼び止めたのか? 彼女が震えていたのは、初夜を恐れていたからではないのか?
私はまた違和感を覚えながらも、言葉を紡いだ。
「もし不安なら、君が寝付くまでここにいよう。君の立場は理解しているつもりだ。この結婚が望んだ結果ではないことも」
ミシェル様は両手で胸元を押さえたまま、驚いたように顔を上げた。燭台の灯りを映して、不安げに揺らめく水面のような彼女の瞳を、私はまっすぐ見つめる。
「ドミナントゥス帝国の皇太子として謝罪したい。君にも、君の国の人々にも」
兄が言うはずのない言葉を、私は口にした。大神官が、皇帝の前でも本心からの願いを語ったように、私も心のままに伝えたかった。
「セザリオ様―― こんなお優しい方だったなんて」
彼女は目を見張り、わずかにかすれた声でつぶやいた。
「噂に聞いていたお人柄とは、全く違うのですね」
ミシェル様は長いまつ毛を伏せた。スーデリア王国にも冷徹な兄の噂が伝わっていたようだ。
「私は父の政策に反対なんだ。国内の公国や自治領、共和制の国々から自治権を奪うばかりでなく、帝国外にまで領土を広げようだなんて」
兄の振りをしなければならないのに、憤懣やるかたない思いが口をついて出る。
「紛争だらけの国など誰も望んでいない。だが今もブリューム自治領に侵攻中だ」
うつむくと、右手の薬指に嵌めたペリドットの指輪が目に入った。母上は私に父を託した。私の代わりにあの人を支えてあげてね、と懇願して、痩せた手で私の頬を撫でた。
――あの人が間違った方向に進みそうになったら、止めてあげてほしいの。ヴァイオラならできるわ。
確信に満ちた言葉がよみがえる。だが現在、私は全くもって皇后の代わりなど果たせていない。
「ブリューム―― ああ、なつかしい」
ミシェル様の声で私は現実に引き戻された。
「ブリューム領主は母方の伯父なのです」
ミシェル様はうっすらと涙の浮かぶ瞳で遠くを見つめている。
「母に連れられ、ブリューム領にある伯父の宮殿へ遊びに行ったものです。伯父からは馬術や剣術の手ほどきを受けました。よい思い出です」
馬術や剣術の稽古がよい思い出とは、ずいぶん勇ましい王女様だ。
「小さい頃は従兄弟たちと城の中を探検して、伯父に呆れられたこともありました」
ミシェル様は楽しそうにクスクスと笑った。
私の脳裏に幼い頃、兄上と「戦いごっこ」をして書類の山をひっくり返した記憶がよみがえる。父上はため息をつきつつも、「お前たちは手に負えん」と笑って、私と兄の頭をくしゃっと撫でた。
そっと目を伏せたミシェル様は、優しい微笑をたたえている。
「スーデリアの宮殿では乳母に寝かしつけられましたが、伯父のお城へ行くと、眠る前に母が本を読んでくれたのです」
母親との記憶を語る彼女の姿に、胸の奥から熱いものがこみ上げる。
私は昔、熱を出したとき、父上が政務を後回しにしてそばにいてくれたことを思い出していた。汗を拭い、母上と共に優しい言葉をかけてくれた。「早く良くなれ、私の小さな姫」という父の声を、うっすらと覚えている。
右手の薬指で輝く指輪を見つめながら、私は思わず口走っていた。
「私とミシェル様で、父上を止められたらいいのに」
父が暴君となったのは、愛する妻を失った孤独と苦悩ゆえ。彼本来の魂は、侵略など望んでいない。
「できると思います」
中性的な声音が夜の静寂に染み渡る。
ミシェル様の両手のひらが、握りしめていた私のこぶしを包んだ。大きくてあたたかい手に驚いて顔を上げると、彼女の力強い言葉が鼓膜を打った。
「セザリオ様、一緒に未来の帝国を作って行きましょう」
私は息を呑んだ。ミシェル様ったら、男装している私よりずっと男らしいじゃない!
凛とした気品に操られるようにうなずいたとき、ミシェル様がふいに立ち上がった。
「いけない」
誰も手をつけていないカップを手に取る。
「虫が入っていました」
窓を開けて潔く、お茶を中庭に捨てた。
「喉が渇いているのでしたら、こちらをお飲みください」
ミシェル様が自分のカップを差し出してくれる。私は両手で受け取って、香りの強いお茶に口を付けた。
ミシェル様のやわらかそうな唇が弧を描き、小さくつぶやいた。
「可愛らしい方」
大きな手のひらが、私の髪をすべる。
あれ? 妃って夫にこんな態度を取るものかしら!?
つい呆けた表情のままカップをお返しすると、
「今夜はもう、ご自分のお部屋に戻ってお休みください。お疲れでしょう?」
私が彼女の肩にかけたガウンを脱ぎ、私を包み込んでくれた。彼女の体温が残っていてホッとする。ああ、こんな包容力のある女性と共に、帝国を平和な未来に導いていけたら夢のようなのに。
だが彼女は兄の妃で、私の婚約者は辺境伯令息なのだ。ユーグ様とだって、あたたかい家庭も平和な領地も築いて行けるはずだと自分に言い聞かせる。
内扉を開けたミシェル様が、私の背中をそっと押した。
「おやすみなさい、セザリオ様」
彼女の少しかすれた声が、夜の闇に優しく響く。
初夜という危機を乗り越え、私はがらんとした皇太子の部屋に戻って来た。
天蓋付きベッドにひとりでもぐり込むと、胸の奥から寂しさが湧き上がる。ミシェル様の大きな手のひらと、肩にかけられたガウンのぬくもりを手放したことが惜しい。
なぜこんな気持ちになるのか、出ない答えを探りながら、私は眠りに落ちた。
ヴァイオラは答えを出せるのか!?
次回、婚約者の家から手紙が届きます!
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