42、占い師の思い
「隠し通路だと?」
つぶやいたミシェルに、
「忘れ物を取りに参りました」
平然と答えて姿を現したのは、占い師だった。
「ブリューム特産のチーズに生えたカビから作る治療薬の話でしょう?」
優雅にドレスの裾をつまんで暖炉から出てくる。
「あのチーズはごく稀に、体質の合わない人がいます。発疹が出る程度の者もいれば、少量を口にするだけで下痢や嘔吐を繰り返す者も」
彼女は執務机のうしろに落ちていた藍色のローブを拾い上げ、埃をはたいた。
「夫の好物でしたが、食べるたびに発疹がひどくなり、ある夜、呼吸困難を起こして命を落としました」
「それは――、おつらかったでしょう」
警戒を解いたミシェルがすぐに哀悼の意を示した。
「ずいぶん昔の話です」
彼女の静かな声には、隠せない悲しみがにじんでいる。
「おそらく皇后陛下も同じ体質だったのでしょう。治療薬として使うなら成分を凝縮するでしょうから、反応も出やすいはずです」
彼女の冷静な声に救いを求めるように、私は顔を上げた。気品のある微笑をたたえた彼女は、顔立ちこそ違うのに、やはりどこか母上を彷彿とさせる。
ミシェルはドレス姿のまま青年らしい仕草で腕を組み、顎を撫でた。
「ファルマーチは、稀に重篤な副作用が出ることを知らなかったのか?」
「ヴァイオラ様を追い詰めるために知らないふりをしたのでしょう」
占い師は不愉快そうに眉根を寄せた。
魔法医は私の心の弱みにつけ込んだのだ。危うくあの男の虚言に陥れられるところだった。
「ヴァイオラ様」
藍色のローブを腕にかけた占い師が一歩、私に近づいた。
「皇后陛下の魂は、ご存知だったのです。あなたこそ帝国を変える者であることも、今日、帝国に夜明けが訪れることも。だから、この世を離れたのですよ」
私の脳裏に、逆さまになった死神の絵札がよみがえる。その背景には朝日が描かれていた。
くるりと背を向けた占い師は、執務机に乗っていた酒瓶を手に取り、ローブで包んだ。
「これは持って行きます。間違って誰かが飲んでもいけませんから」
執務室から出て行こうとする彼女に、私は尋ねた。
「あなたはなぜ父に眠り薬を?」
父の肩にローブをかけた彼女の優しさとの間に、矛盾を感じる。
「ブリューム領主から送り込まれた間者だから? それとも星があなたに命じたとでも?」
「私の意思です」
占い師は振り返らずに答えた。
「確かに皇帝陛下は孤独な方でした。皇后陛下を亡くされた傷は今も癒えていない。務めを離れてお支えしたいと思ったことは事実です」
占い師はゆっくりと扉へ近づきながら、言葉を続けた。
「でも、帝国と周辺諸国の民が幸せに生きるためには、ヴァイオラ様が帝位に就くことが必要だったのです」
彼女はそこまで語ると扉を開け、姿を消した。
「待って!」
まだ尋ねたいことがある。慌てて後を追いかけたが、廊下から入って来たのは宰相だった。
「占い師は――」
彼の肩越しに見える廊下に人影はない。
「今、占い師が出て行ったでしょう?」
私の問いに宰相は眉をひそめた。
「誰も見ておりませんが」
書類を抱えて入って来た宰相の部下たちも首を振る。私とミシェルが顔を見合わせているうちに、執務机に書類が並べられ、宰相が説明を始めた。
「一枚目はセザリオ殿下が辺境伯領で療養するため、廃太子とする書類です」
「あれ?」
かわいらしく首をかしげたのはミシェルだった。
「セザリオは辺境伯家へ降嫁するんじゃないの?」
「男の兄が降嫁」
吹き出しそうになって口元を押さえる。宰相もニーナも笑いをこらえる中、ミシェルは平然とのたまった。
「僕はてっきり、本当は双子の姉妹だったと発表するのかと。今まで帝国ではずっと男が帝位についてきたから、双子の姉が男と偽って育てられたのだってね」
「そんなスーデリア王家のように利口な方法は使いません」
宰相の答えは微妙に皮肉まじりだ。
「我々の公式発表は――」
宰相は左右に伸びた口髭をピンと上に向けた。
「セザリオ殿下は、妹君ヴァイオラ殿下の才を認め、継承権をゆずる決意をなさいました。セザリオ殿下は、病に倒れられた皇帝陛下の政務を代行し、激務により体調を崩されたため、気候のあたたかいジョルダーノ領で療養されます」
騎士団詰め所の広間で話し合ったときに決めた内容だ。
ミシェルは残念そうに、頭のうしろで腕を組んだ。
「僕はてっきりセザリオが今後一生、社会的に男を剥奪され、女性として生きていくのかと思ってたよ」
ミシェルがまさにこれまで、そうした立場を強いられてきたのだ。私は彼を抱きしめることしかできなかった。
宰相は、執務机に並べられた用紙に目を落とす。
「二枚目は皇帝が病のために退位すると宣言する書類です。そして三枚目が、皇女ヴァイオラ殿下が正式に即位すると発布するものです」
ドミナントゥス帝国紋章の透かしが入った公式書類に目を走らせるうちに、私にも少しずつ実感が湧いてきた。書類の下中央には赤い蝋が落とされ、紋章の国璽が押されている。
「殿下――いや、ヴァイオラ陛下として最初のお仕事です。スーデリア王家が冤罪により責めを受けたことを証明するため、こちらの書類に陛下のサインをお願いします」
宰相が四枚目の書類を示す。
私は執務机に座った。羽根ペンを手に取る。
これから書き入れるのは、父のサインでも兄のサインでもない。
私自身の署名だ。
「ミシェル王子、あなたを無罪とします」
彼を見上げて宣言する。
そして、女帝として初めてのサインを記した。
ドミナントゥス帝国第十八代皇帝ヴァイオラ一世、と――
ここまでお読みいただきありがとうございます! あとはエピローグ的な終幕を残すのみ。兄セザリオの末路も明らかに!
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