04、暴君は男装皇女に初夜を命じる
逡巡していたらミシェル王女は、長いまつ毛が影を落とす瞳を上げた。明るい海のように透き通った瞳と視線があう。まばたきするたび髪と同じ桜色のまつ毛が震えた。
私の意識は彼女の愛らしい面差しに吸い込まれた。こんな儚げな美少女が、あの残忍な兄の妻になるなんて許せない!
私はゆっくりと彼女の肩を抱き寄せ、参列者から見えない角度で唇を重ねるふりをした。
ミシェル王女は少し驚いたようだが、そのまま何事もなかったかのように祭壇に向き直った。彼女だって敵国皇太子の口づけなど欲しくはないだろう。
ちらりと父上に視線を走らせると、薄い唇に満足そうな笑みをたたえていた。どうやら私が王女と口づけを交わしたように見えたらしい。
婚礼の儀はつつがなく終わり、続いて会食となった。今度こそ怪しまれるのではないかと冷や汗を浮かべる私のもとへ、侍従長がやって来た。
「ご安心なさいませ。セザリオ殿下は愛想のない無口な方ですから、皆あまり殿下のお声を覚えておりません」
本当だろうかと訝しんだが、漏れ聞こえる声に耳をすますと、男装がバレている様子はない。
「今日の殿下、少し若々しく見えませんこと?」
「表情がやわらかいからではないかしら」
「やはり殿下も美しい奥様をもらって喜んでいらっしゃるのでしょう」
人々は日頃から貴人の顔をまじまじと見つめたりはしないから、意外と気付かないようだ。
会食を終えて日も傾く頃、私は兄の部屋に戻って来た。
ミシェル王女改めミシェル皇太子妃は、兄の部屋から内扉づたいに行ける皇太子妃の間で休んでいらっしゃる。二つの部屋のあいだには皇太子夫妻の寝室があるため、ミシェル様が何をされているのか気配を察することはできない。
まさか私が初夜まで担えるわけはないので、そろそろお役御免だろう。
しかし、そのまさかが起きた。
侍従長に呼ばれて皇帝の執務室を訪れると、父は酒の入ったグラスを満足そうに揺らしていた。
「ヴァイオラ、ご苦労であった。だがあいにく、わしの大切なセザリオはいまだ目覚めぬ。今夜はミシェル皇太子妃と共に過ごすように」
「父上、さすがにそれは、私が偽物と露見してしまうかと」
「どうするかは自分で考えろ。そんなこともできないのか? 役立たずな能無しめ」
酔った父が暴言を吐き始めたので、私は早々に退散することにした。
妻を失い、さらには溺愛している息子まで倒れて、憔悴している父にこれ以上負担をかけてはいけない。酒におぼれ、占い師に頼りきりになってしまう。私の願いは、心身ともに健康だった昔の父に戻ってもらうことなのだから。
侍従長が開けた扉から廊下へ踏み出したとき、背後で父が低く笑った。
「ククク、さらばだ。呪われた娘よ」
別れを告げられた真意が読めず、不気味だった。酔いどれの妄言だろうか?
侍従長に付き添われて兄の居室へ戻ると、控えの間からニーナの楽しげな笑い声が聞こえてきた。本来なら兄の従者たちが待機する部屋だが、彼らは皆、看病に駆り出され、今はニーナひとりのものになっている。
ニーナに楽しく話す相手なんていただろうか? かつて彼女は、私に仕えるたくさんの侍女の一人だった。だが今は「呪われた皇女」付きの、唯一の侍女。私が離れの屋敷に隔離されているせいで、彼女もまた孤立していた。
「ニーノ?」
彼女の偽名を呼びながら、恐る恐る控えの間の扉を開けた。
小姓姿のニーナが、すぐにソファから立ち上がった。
「セザリオ殿下、ご紹介します」
彼女の隣で姿勢を正したのは見たことのない長身の女性。シンプルなドレスから察するに侍女だろう。
「こちら、ミシェル皇太子妃殿下のお付きの方で、メイさんです」
ニーナの言葉に従って、
「メイですぅ」
間の抜けた裏声で自己紹介をしたメイが、私にひょこっと頭を下げた。鼻筋の通った綺麗な顔立ちだが、笑っているのか生まれつきなのか、糸目のせいで感情が読めない。
「セザリオだ。よろしく」
私はなるべく咽頭を押し下げ、低い声で挨拶した。
いつ本物の兄と交代するか分からないのに、ミシェル様の侍女と親しくするなんて、ニーナったら軽はずみだわ!
私は早々に扉を閉め、皇太子の居室に戻った。控えの間からはいつまでも、ニーナとメイがひそひそと語らう声が聞こえてくる。
「ミシェル様はお一人で過ごされているのかしら?」
人質となった王女は、侍女をひとりしか連れて来ていなかった。新郎として彼女に話しかけに行くべきだろうか?
できればなぐさめてあげたいが、もし兄が目覚めたら、私は初夜の任務から解放される。軽率な行動は慎むべきだろう。
初夜を乗り越える方法を思案しているうちに、すっかり日は暮れた。晩餐の席で顔を合わせたミシェル様は緊張しているのか、やや青ざめて見えた。
兄は目覚めぬまま、ついに初夜の時間が来てしまった!
私は裾の長いリネンの寝間着に着替え、その上から豪奢なガウンを羽織った。腰紐さえ解けば妃と親密になれる服装だが、もちろんそんなことをするつもりはない。
ニーナは気楽な調子で、
「燭台の火を消してなされば、気付かれないのでは?」
などとうそぶいた。
「ミシェル妃殿下は生娘でしょうから、ヴァイオラ様でしたらだませるかも」
ニーナの視線が私の胸のあたりを泳いでいる。ニーナを黙殺してから、私は皇太子夫妻の寝室に続く内扉の前に立った。
「あ、セザリオ様」
ニーナが突然、硬い声で私を呼び止めた。
からかわれた苛立ちが収まらず、冷たい目で振り返った私へと駆け寄ってくる。
「メイがお茶を持ってきても、手をつけませんように」
「どうして?」
「緊張しているときにお茶を飲むと胃が荒れますし、夜眠れなくなってしまいますから」
本当にそんな理由だろうか? 怪しんだ私はニーナを問い詰めたが、彼女は何度もお茶を飲むなと繰り返すだけだった。
「分かったわ」
内扉の取っ手を握ると、真鍮の冷たさが手のひらにしみる。私は意を決して扉を押した。
ミシェル様はすでに天蓋付きベッドに腰かけていた。
いよいよ初夜! ヴァイオラはどうやって乗りこえる!?