39、最後の砦、皇帝の執務室へ
残った近衛兵たちと宮廷長官の部下が、魔法医を連行して階段を降りてゆく。私たちも彼らに続き、足元が暗くなった螺旋階段を用心深く下まで降りた。
宮殿の廊下へ戻って来るなり、若い騎士たちに囲まれていたミシェルが駆け寄って来た。
「僕のいとしいヴァイオラ、ばっちいほうのセザリオにいじわるされなかった?」
「相変わらず腹の立つことばかり言う兄だったけど、なんとか耐えたわ」
つい冷ややかな声が出てしまう。ミシェルは、廊下の燭台に灯をつけて回る使用人を横目に見ながら、
「あくどいほうのセザリオのうなじに、熱い蝋を垂らしてやりたいよ」
かわいらしいお姫様の姿には不釣り合いな、恨みのこもった声を出した。
「ミシェル、安心して。あの兄はもう二度と、宮殿に足を踏み入れないから」
だまされたと知ってジョルダーノ辺境伯領から戻って来ようにも、彼に同行した侍従も近衛兵も我々に賛同する者ばかり。護衛と見せかけた監視役だ。
だがミシェルは、皇帝の執務室へ向かって歩きながら、不安そうに眉根を寄せた。
「でも、悪いほうのセザリオが、辺境伯領の私兵を束ねて帝都に進軍してくる、なんてことはないだろうか?」
「人心掌握術に長けたミシェルならできるでしょうけれど、兄は皇子として甘やかされて、わがまま放題に育ってきたから無理よ」
宮殿の回廊を歩くうち、足を止めて首を垂れる使用人たちの様子が、いつもと違うことに気が付いた。伏せたまつ毛の下、瞳に期待と決意を秘めている。誰もが変革を望んでいたのだと改めて実感する。
私たちの足音が近づくにつれ、宮殿内は水を打ったように静まり返った。まるで全ての者が息を潜め、運命の瞬間を待っているかのようだ。
大理石の柱の陰に立っていた若い侍女が、わずかに唇を引き結んで一礼した。彼女は私のために戦うことこそできないが、忠誠心で支えてくれるだろう。私は微笑を浮かべ、小さくうなずいた。
広間まで来ると、宰相が侍従たちを従えて待っていた。
「騎士団の取り調べはうまくいったようですぞ」
魔法医ファルマーチの件について報告してくれる。
「ミシェル殿下が手に入れてくださったノートが、何よりもの証拠となりましたからな」
人体実験を書き記した証拠品が騎士団の手に渡っては、ファルマーチも言い逃れできぬだろう。
「我々の望み通り、診断書を書いてくれそうですか?」
私の問いに、宰相は満足げに目を細め、口髭をピンと張った。
「ほぼ確実でしょう。言うことを聞かなければ殺人罪で死刑だと、騎士団長が脅していましたから」
計画の成功を確信して胸が高鳴った。
騎士団長たちの到着を待っていると、重厚な柱時計の秒針が規則正しく時を刻むのが聞こえる。いつもと変わらぬその音が、かえって張り詰めた空気を際立たせていた。
やがて騎士団長とドラーギ将軍が部下をつれて現れた。
「お待たせいたしました、ヴァイオラ殿下」
騎士たちに取り囲まれているのは、両手をうしろで縛られたファルマーチだ。騎士に突かれながら、不満そうに顔を歪めて歩いている。
「さあ、父の執務室へ参りましょう」
皇帝の執務室前に、見張りの衛兵はいなかった。代わりにドレス姿の女性が立っていた。いつものローブを着ていなかったから一瞬分からなかったが、占い師だ。
「そこをどけ、女」
騎士団長が低い声でうなる。
占い師はふわりと蝶のように動いた。私たちの横を通るとき、
「陛下はすっかりお休みになっておりますわ」
歌うようにつぶやいた。
彼女が視界から消えると、私は執務室の大きな扉を押し開いた。むっとするような強い酒のにおいに襲われる。従者が仕事を放棄したためか、燭台の明かりは灯されておらず、暖炉の火もほとんど燃え尽きていた。
侍従の一人がランプをかざす。ゆらめく黄色い光の中に、執務机に突っ伏していびきをかく父の姿が浮かび上がった。肩には藍色のローブがかけられている。占い師のものだろう。
昔、父上が夜中まで仕事を続け、そのまま寝入ってしまったとき、母上が自分のガウンを優しくかけていたのを思い出す。
もしかして占い師は、諜報活動のために足を踏み入れた宮殿で、亡くした夫を皇帝に重ねているのだろうか?
私は想像を振り払うように首を振った。彼女が貴族の未亡人だというのも私の勝手な空想だ。今は感傷に浸るべきではない。
「診断を」
私は縛られたファルマーチに、有無を言わせぬ口調で命じた。
騎士たちが魔法医を引っ立て、父の横まで歩かせる。
拘束を解かれたファルマーチが、懐から水晶のついたペンダントを取り出し、薄くなった皇帝の頭にかざした。口の中で小さく呪文を唱えると、水晶が淡く発光し、魔法文字が浮かび上がる。
「泥酔しておりますじゃ」
「皇帝陛下に政務能力は?」
私は打ち合わせた通りの質問を投げかける。
「ないものと断言できますのじゃ」
ファルマーチの素直な答えに、その場の空気がふとゆるんだ。
宮廷長官が、用意していた書類を執務机に置いた。
「ではファルマーチ先生、診断書の記入と筆頭魔法医の署名をお願いします」
「了解しましたのじゃ」
ファルマーチは机に乗ったインク壺から、羽根ペンを手に取る――はずだった。
彼の右手は再びローブの懐に差し込まれた! その手に握られていたのは――
「魔法薬の小瓶ですって!?」
私が声を上げたときには、ファルマーチはガラスの蓋を開けていた。執務机に突っ伏していた皇帝を抱え起こし、その口元に小瓶をあてがう。
「飲みなされ、陛下!」
ファルマーチを羽交い絞めにしようと、騎士たちが走り寄ったとき――
ガンッと衝撃音が響いて、ファルマーチの手から小瓶が跳ね飛んだ。
「ミシェル!?」
私の隣にいた彼が、履いていた靴を脱いで投げたのだ。
「チィッ」
悔しそうに舌打ちしたファルマーチは、複数の騎士たちに取り押さえられていた。
「クソジジイ、この期に及んで!」
血気盛んなドラーギ将軍が、ファルマーチの老いた腕をひねり上げる。
「くっ、陛下の地位を脅かす反逆者どもめ!」
中身を盛大にぶちまけ半分以上、空になった小瓶が、大理石の床を転がってきた。
「なんの薬だ、これは?」
拾い上げた騎士団長が、ラベルのない小瓶をしげしげと見つめる。
のぞき込んだ宮廷長官が扇いで匂いを確認した。
「即効性のある特別なポーションと似ていますな」
「それこそが、わしの研究している不老不死の魔法薬なのじゃよ」
再び縛られたファルマーチが、勝ち誇った声で答えた。
やはりファルマーチは反撃を用意していた!? ヴァイオラたちの皇女即位計画はどうなる!?




