37、女優(?)ミシェルの活躍
床には大きな魔法陣が描かれ、五芒星の頂点に置かれた燭台の上ではロウソクの炎があかあかと燃えていた。五芒星のラインが重なる五箇所に魔法医が立って、回復呪文を唱えていたようだ。
私は肩で息をしながら、ベッドに半身を起こした兄のもとへ駆け寄った。
「兄上、どうかお逃げください!」
「ヴァイオラ? こんなところへ来てはいけない。占いや迷信をお好きな父上がまた、不吉な双子の妹と怒り出すから」
どの口が言うかと頬をひっぱたいてやりたいのを、ぐっとこらえる。あなたが愚かしい迷信を父上に信じ込ませたと、私は知ってしまったのよ。
だが今は演技を続けなければ。私は涙を浮かべて首を振った。
「父上も今は裏切り者の近衛たちに包囲されております」
「俺様が寝ているあいだに何が起こった?」
眉をひそめた兄の声には、いつもの覇気がない。宮廷魔法医たちに囲まれている通り、実際に病み上がりではあるのだろう。
私は言葉にするのもおぞましいというように口元を押さえた。
「スーデリア王国から嫁いできたミシェル様は――」
言葉を詰まらせる私を支えて、近衛兵が続きを打ち明けた。
「ミシェル殿下は、スーデリア王国から差し向けられた刺客だったのです」
「そんなことくらい俺様は知っていたぜ」
兄は自慢げに胸を張った。
「だが待て。俺様がここで寝ているのに、なぜミシェルが嫁いで来られた?」
兄の問いに私は内心、本当に何も知らされていないのだと、ほくそ笑んだ。
西の塔には狩りに同行した数人の侍従が出入りして、兄の身体を拭いたり、目覚めたばかりの彼にスープを運んだりしていた。侍従長が彼らに尋ねたところ、父は息子に無駄な刺激を与えないよう、ミシェルが投獄されたと伝えていないことが分かった。
兄の認識は意識を失う前――婚礼の儀の前日で止まっているのだ。何も知らない兄に、私は静かに答えた。
「父上の命令で私が兄上の服を着て、婚礼の儀に臨みました」
兄は一瞬、眉を跳ね上げたが、すぐに腕を組んで考え始めた。
「父上はスーデリアのあさましい作戦を知って、あの王国をつぶす好機と捉えていたからな。なんとしても婚礼の儀を執り行いたかったのだろう。で?」
再び、私を支える近衛騎士に目をやった。
「なぜ俺様が逃げねばならない? 近衛が裏切ったとはどういうことだ? ミシェルが刺客だと知れたなら、処刑されたのではないか?」
処刑という言葉に思わず握りしめたこぶしを、スカートのひだに隠す。
近衛騎士は悔しそうな表情を作りながら、
「ミシェル様は魔性の女性で、城内の男たちを次々とたぶらかし、いまや一大勢力となっているのです。騎士団の中にも彼女の信奉者は多く――」
彼の言葉を遮って、外からけたたましい高笑いが聞こえた。
「おーほっほっほ! この帝国は今日からスーデリア王国のものよぉ!」
「こ、この声は!?」
兄は顔色を変えた。ベッドから降りようとする彼を、魔法医たちが支える。両脇を抱えられながら、兄は石壁に駆け寄り、近衛騎士が開けた窓から外を見下ろした。
「あの桜色の髪はミシェルか!?」
私の位置からは見えないが、ミシェルは打ち合わせ通り、騎士たちにかしずかれてバルコニーから帝都を見下ろしているはずだ。
外から聞こえるのは、
「我らがミシェル殿下!」
唱和する騎士たちの声。
「美しきおみ足に口づけさせてください!」
「足首なめさせてください!」
「だめなら靴だけでも!」
演技なのよね!? 必要以上に真剣な騎士たちの声に不安になったとき、
「ホホホー、この国の名前も『ミシェルたん帝国』に改名よぉっ!」
またミシェルの調子はずれな裏声が聞こえてきた。
私と近衛騎士たちは顔を見合わせる。まさかミシェルの演技がこれほどまで下手くそとは!
夕日に照らされた兄がふらつきながら戻ってきて、私たちは慌てて真顔に戻った。
「なんということだ!」
兄が振り上げたこぶしをベッドに落とした。ぽすんと情けない音がする。
「誉ある帝国騎士が、あのような妖婦に骨抜きにされるとは情けない!」
どうやらミシェルのつたない演技でも騙されてくれたようだ。奥歯をギリリと噛みしめる。
「愚か者どもめ! 女なんて声が高いだけの生き物だろ!? 俺様は魅力など感じぬ!」
そういえば兄上って社交界に出てからも一切、浮ついた話がなかったわね。
だが魔法医たちは怪訝そうに顔を見合わせている。彼らはほとんど連日、病室にこもっていたとはいえ、急激な状況の変化を怪しんでいるようだ。
「しかしヴァイオラ、俺様が逃げると言ってもどこへ――」
兄が尋ねたとき、ちょうどよく近衛隊長が駆け込んできた。タイミングばっちりなのは、扉のうしろで私たちの会話を聞いていたからだろうけれど。
「皇太子殿下、私の部下が護衛いたします! ジョルダーノ辺境伯領へお逃げください!」
「なぜジョルダーノに? ミシェルがクーデターを起こしたのが本当なら、転移陣も使えぬだろう。わざわざ遠い辺境伯領まで逃げる意味が分からぬ」
正論を吐く兄に、近衛隊長がはっきりと答えた。
「これは陛下の妙案なのです。女装してヴァイオラ様の振りをし、辺境伯領にかくまってもらうようにと」
「じょ、女装だと!?」
さすがに抵抗を示すか?
「俺様が美しいからって無礼な!」
何を言ってるんだ、この男は。
呆れた近衛隊長がうっかり沈黙すると、今度は宮廷長官が息を切らせながら入って来た。
「裏切った近衛兵たちをかいくぐって、陛下のしたためた親書を受け取ることができました!」
あえぎながら、私の書いた偽の手紙を差し出す。
「皇帝陛下がセザリオ殿下を救うため、秘密裏にしたためられたジョルダーノ辺境伯宛ての手紙です」
親書をひったくった兄は再び窓際に立ち、目を細めて西日にかざした。手紙は透かし入りの特別な用紙にインクで書いて、折りたたんだものを封蝋で止めただけ。強い陽射しにかざせば文字が透けてしまう。
「確かにこれは父の筆跡だ。サインもあるようだな」
兄はかすれた声でつぶやいた。
「よく読めぬが―― 皇太子セザリオとその妃ミシェルの起こしたクーデターにより、と書いてあるぞ! どういうことだ!?」
次回、兄追放作戦の結末が判明します! 成功するのか!?




