36、兄セザリオが待つ西の塔へ
「この盗人め!」
つかみかかろうとしたファルマーチは、ミシェルを囲む牢番たちにあっさりと阻まれた。本来、囚人を見張る役目の牢番たちが守ってくれるなんて、麗しい女装王子の面目躍如というわけか。
ミシェルはファルマーチに笑顔を向けた。穢れを知らぬ姫君のごとき邪気のないほほ笑みを。
「脱獄しようとしたら道に迷ってしまって。偶然、鍵の開いている不思議な部屋を見つけたので、ご本を何冊かお借りしちゃいました。僕、読書が趣味なんです」
いやそれはどう見ても、読書を楽しむための本には見えないんだけど、と突っ込みたいのをこらえる。
「わしのノートを返せ! 恥知らずめ!」
ファルマーチがわめき散らす中、突然ミシェルが大げさにつんのめった。
「おおーっと、足がすべったと思ったら手もすべった!」
ミシェルの手を離れたファルマーチのノートは宙を舞い、完璧な放物線を描いて騎士団長の腕の中に落ちてくる。
「ミシェル殿下、でかした!」
騎士団長がノートをつかんだときには、暴れるファルマーチはドラーギ将軍に拘束されていた。
類いまれな人心掌握術に、抜きん出た身体能力。私の伴侶はまさに向かうところ敵なしだ。
「ミシェル、すごいわ!」
思わず叫んだら、牢番の包囲網を突破して飛んできたミシェルに抱きしめられた。
「ふふっ、ヴァイオラ様に褒められるなんて嬉しいよ!」
彼のぬくもりに包まれて、愛おしい人を奪い返した喜びに震える。
「ミシェル、無事でよかった」
「心配させてごめん。脱獄したくなったらいつでも逃げられる自信があるなんて、皇帝の前では言えなかったんだ」
父は間諜からの報告で、ミシェルが斥候の訓練を受けていることを知っていたとはいえ、彼の実力を侮っていたのだろう。
辺境伯邸にて、使用人に庭を案内されていたはずのミシェルが、いつの間にか壁を登って二階の部屋に突入した――目の当たりにした私でさえ信じられないくらいだ。
「ヴァイオラ様のドレス姿、初めて見たよ」
ミシェルがうっとりと私を見つめる。デザインは二十年前のものだし、刺繍も色あせたハウスドレスなのに、彼は私を抱き寄せて頬に唇を寄せた。
「とても綺麗だ」
「ミシェル――」
暖炉の前に立ったみたいに、全身が熱くなる。
「ヴァイオラ様は女装も似合うんだね!」
「なっ」
一気に冷静さを取り戻した私が反論する前に、牢番たちが盛大な溜め息をついた。
「ミシェル様、ヴァイオラ殿下にキスしてるよ」
「やっぱり女性が好きなのかぁ」
「くっ、俺、ミシェル様なら同性でもいけるのに!」
危機感を覚えた私は、ミシェルの腰を強く抱き寄せた。彼は私に密着したまま、男たちへと慈愛に満ちた笑みを向ける。
「僕はみんなのこと、大好きだよ。国民全員、愛してる」
きっと彼らがミシェルに求めているのは、君主の愛みたいなものじゃないと思うのよねえ。
牢番たちに同情のまなざしを向けていたら、宰相が私を促した。
「さあ殿下、ゆっくりしている暇はございません。作戦を次の段階へと移す時です」
気を引き締めてうなずいた私のうしろで、ファルマーチの実験記録を読んでいた騎士団長が低い声で告げた。
「筆頭魔法医ファルマーチ殿には、ここに書かれた非人道的行為について説明をしてもらいたい。騎士団長詰め所へ同行願います」
私たちは魔法医を連行する騎士団と共に、薄暗い石段を登った。ミシェルを見送る牢番たちの声援が遠ざかると、騎士団長が号令をかけた。
「第一段階のミシェル殿下救出作戦は成功した。これより某は第二段階のファルマーチ尋問に移る。ヴァイオラ殿下はミシェル殿下に作戦第三段階を共有し、皇太子追放作戦を開始なさいませ」
全員が了解の意を示す中、魔法医ファルマーチが騒ぎ立てた。
「おぬしらまさかクーデター計画を立てておるのか!? このわしが許さんのじゃ!」
「何が『このわし』だ」
ファルマーチを連行するドラーギ将軍があきれ返る。
「爺さん、自分の立場を分かっているのか? あんたの怪しい実験記録は今や騎士団長殿のお手元にあるんだぞ?」
さすがに不利と悟ったのか、魔法医は口を閉ざした。
「ミシェル殿下の機転に救われましたな」
満足そうな騎士団長が重い黒鉄の扉を開ける。地下牢に慣れた目には、廊下の窓から差し込む午後の日差しがまぶしい。
大理石の柱にもたれて私たちを待っていた宮廷長官は、その手に皇帝の封蝋が押された手紙を持っていた。どうやら父はランチに特製蒸留酒を楽しみ、午睡から目覚めぬようだ。
「皇女殿下、おめでとうございます」
宮廷長官が、ミシェルにエスコートされる私におだやかな笑みを向けた。
「悲願を達成されましたね」
「皆の協力あってこそです。第三段階の追放作戦もお願いします」
私の言葉にミシェルが、王女姿のまま首をかしげる。
「それ、僕も作戦の詳細を知る必要があるんだよね、ヴァイオラ様?」
「西の塔まで歩きながら話すわ。それからミシェル、私のことはヴァイオラと呼んで」
彼との距離を縮めたくて、私は懇願した。
「ドミナントゥス帝国とスーデリア王国は対等な同盟関係なのだから」
宰相も宮廷長官も微笑を浮かべて見守っているだけで、反対しない。
ミシェルはわずかに頬を紅潮させて、うなずいた。
「ありがとう、ヴァイオラ」
今の彼はドレス姿だけど、甘い音色で名前を呼ばれるとドキッとする。でもまだ作戦の半ば。油断は禁物だ。
騎士団長やドラーギ将軍はファルマーチを引き立て、騎士団詰め所へ戻って行く。彼らに同行する宰相とも、ここで一旦お別れだ。
ニーナも大事な役目のために、離れにある私の部屋へと向かった。
一方、騎士団長とドラーギ将軍配下の騎士たちは、とある作戦のために私たちと共に西の塔へと向かう。
大理石の廊下を歩きながら、私と宮廷長官でミシェルに作戦を説明するうち、若い侍従たちを引き連れた侍従長が加わった。
「ヴァイオラ様、馬車が帰ってきました。裏門に停めております」
侍従長が報告したのは、私をジョルダーノ辺境伯領に連れてゆくはずだった馬車のこと。彼らもまた、重要な任務を帯びている。
それから侍従長は、一人の若者の背を私の方へ押し出した。
「わが息子です」
親の顔になって紹介した。青年は、はにかむような笑顔を浮かべたが、頬に残るみみず腫れが痛々しい。私はすぐに侍従長の話を思い出した。兄セザリオを諫めた結果、乗馬用の鞭で打たれたのだ。
「兄がひどいことをしましたね。妹として情けなく思うわ」
「皇女様、そんな悲しそうな顔をなさらないでください。僕はしっかり務めを果たしますので、お任せを」
彼はニッと笑った。
兄が療養する塔へと続く廊下が見えてくると、
「それではヴァイオラ様――いや、ヴァイオラ。僕たちは塔から見下ろせるバルコニーへ移動するよ」
ミシェルが騎士たちと共に廊下の角を曲がった。
塔へ至る螺旋階段の前で、配下を従えた近衛隊長と大蔵卿が待っていた。大蔵卿の部下が抱える重そうな布包みもまた、事前に打ち合わせた通りだ。
「セザリオ殿下は最上階でお休みになっています」
階段の入り口を守る番兵が道を開けた。近衛隊長から計画を聞いているのだろう。
「ありがとう」
数名の近衛騎士を連れて、階段へ足を踏み出す。
「皇女殿下、ご武運を!」
うしろから聞こえた近衛隊長の声が、黒ずんだ石壁に反響した。
ハウスドレスの裾をつまみあげ、階段を駆け上がる。兄の元へ、息を切らして到着するために。緊急性を演出して、壮大な作り話を信じ込ませるのだ。
石壁を切り取った小さな窓から、頼りない西日が差し込む。複数の足音が反響し、どれが自分のものか判然としない。石壁に囲まれた螺旋階段が延々と続き、同じ場所をぐるぐると回っていると錯覚しそうだ。
だが私と近衛騎士たちは、ついに最上階の小部屋へたどり着いた。
次回、兄セザリオ追放作戦開始!




