34、満を持して再び地下牢へ
「ミシェル殿下が某に頼まれたのは、従者のメイ氏がヴァイオラ殿下に状況を伝えるのを許可してほしい、ということだけだった」
沈黙した宮廷長官に、騎士団長は言葉を続けた。
「ミシェル殿下は確かに、ほんの一年前まで敵国の王子であったが――」
「王子?」
おデブの大蔵卿が冗談めかして突っ込んだが、騎士団長は無視した。
「今のミシェル殿下はこの国の未来のために戦っていらっしゃる。皇配が誰かを決めるのは血筋ではなく、その者の覚悟だと、某は考えておる」
「そうか――」
宮廷長官の表情がわずかにやわらいだ。
「ミシェル殿下は心からヴァイオラ殿下のために尽くしているのか」
「私を愛し、民のために尽くしてくれる人です」
私は思わず言い添えた。
宮廷長官は新たな見解を噛みしめるように、何度か首を縦に振った。
「私が間違っていたようだ。陛下の策略に嵌められながらも、ヴァイオラ殿下と帝国を裏切らなかったミシェル殿下は、皇配にふさわしい人物と言えましょう」
宮廷長官は賢い人なのだろう。柔軟に考えを変えることを厭わなかった。
ホッとしたとき、きしんだ音と共に分厚い木の扉が開いて、侍従長が大広間へ入って来た。さらには侍女頭や、見慣れた侍女姿に戻ったニーナも付き従っている。
彼らを案内する人物は、まるで儀礼用のような、装飾の多い騎士服に身を包んでいた。
「皇女殿下、私は第一騎士団――通称近衛隊の指揮を任されている者です。部下たちは日常的に陛下や皇太子殿下からぞんざいな扱いを受け、皇女様のお戻りを求めておりました」
近衛隊長の言葉に、騎士団長が腕組をしてうなずいた。
「正義無き戦地に部隊を送り込んだり、城下の治安改善に興味のない陛下に、心から従いたい騎士はおらぬだろう」
すると今度は宰相が首肯する。
「法衣貴族たちも皆、皇女殿下に期待しておりますぞ」
首を縦に振っていた侍従長が、独り言のようにつぶやいた。
「使用人たちは皇帝陛下にグラスを投げつけられたり、皇太子殿下に暴力を振るわれて、疲れ果てておりますからなあ。女神のようにお優しい皇女殿下を慕っております」
「夫の言う通りですわ!」
華やかな声は血色の良い侍女頭のものだ。彼女はふっくらとした指を胸の前でからめた。
「わたくしはかつて、皇后陛下のお側に仕えておりました。その頃から伺っておりましたのよ。次期皇帝にふさわしいのはヴァイオラ様だと」
母上がそのような話を侍女に漏らしていたなんて――! 私は初めて知った事実に息を呑んだ。だから母上存命中、私は兄と同じ教育を受けていたのか。皇后の意向だったのだ。
思わずペリドットの指輪を嵌めた右薬指を左手で握りしめたとき、侍女頭のうしろから、ニーナが顔をのぞかせた。
「ヴァイオラ様のお世話から外された侍女たちは今も、ヴァイオラ様を慕っております。公平で聡明な皇女殿下にお仕えしたいと願っているんです」
「みんな、ありがとう――」
私はこみあげてくるものを呑み込んで、礼を述べた。まだ嬉し涙を流すのは早すぎる。私たちは話し合い、綿密な計画を練った。あとは実行に移すだけだ!
私とニーナは騎士団詰め所を出ると、使用人たちの暮らす離れに急いだ。宮殿敷地内を歩きながら、ニーナが心配そうにメイのことを尋ねてくる。
「大丈夫よ。平和の訪れたブリューム前線で、しっかり休んでいるわ」
「よかったです。恋人が囚われの身になっているヴァイオラ様に気遣ってもらうなんて私、情けないです」
しゅんとするニーナのオレンジブラウンの髪を、私は優しく撫でた。
「恋人の安否を気にかけるのは当然よ」
石畳の敷地を早足で歩くうち、木々の間に簡素な屋敷が見えてきた。渡り廊下で宮殿とつながっている、使用人たちが寝泊まりする建物だ。
三年間、自室として過ごした部屋に、私は七日ぶりに戻ってきた。ひび割れた漆喰の壁も、手が届きそうな低い天井も、不思議となつかしい。
部屋に入るとすぐに、私は傷だらけの机に向かった。
宮廷長官が用意してくれた透かし入りの特別な便箋に、彼が下書きした文面を、練習した父の筆跡で着実に書き移してゆく。宮廷長官曰く、「陛下の文体や言い回しには若干、癖があるのです」とのこと。
ガタつく木の椅子に座って書状をしたためていると、ミシェルを早く助け出したくて、気持ちばかりが先走る。
だがミシェルを地下牢から救出できても、兄と父がいる限り、私たちに安寧の時は訪れない。まずは入念に準備をする必要がある。焦りは禁物だ。
宮廷長官の用意した文面を、一言一句違わず書き移した私は、右下に父のサインを記した。
インクを乾かしている間に、いつも着ていたハウスドレスに着替える。
「母上のドレスに袖を通すのも久しぶりだわ」
背中のボタンを留めてくれるニーナに話しかけると、思わぬ質問が返ってきた。
「久しぶりの女装、興奮しますか?」
「しないわよ」
雨に濡れた騎士服を脱いで、すっきりしただけだ。
着替え終わる頃にはインクも乾いていた。折り畳んだ手紙を手に、ニーナと共に渡り廊下を通って皇宮内へ入る。打ち合わせ通り、宮廷長官や宰相、騎士団長らが待っていた。
宮廷長官に目配せして、偽の親書を手渡す。
「ありがとうございます、殿下」
受け取った宮廷長官は声をひそめた。
「陛下の封蝋を押してまいります。そろそろ占い師の献上した特製蒸留酒が効く頃合いでしょうから」
宮廷長官はうやうやしく礼をして、皇帝の執務室がある上階へと姿を消した。
「では参りましょう」
騎士団長と彼に付き従う複数の騎士たち、そして宰相と彼の部下らしい侍従たちに声をかける。
深くうなずいた宰相が低い声で答えた。
「皇太子セザリオをだますにはミシェル妃殿下が必要ですからな」
騎士団長も重々しく同意を示した。
「皇帝陛下を帝位から追い落とすには、宮廷魔法医筆頭であるファルマーチの存在が不可欠だ」
私たちは裁きの間と尋問の間を通り、嘆きの廊下と呼ばれる渡り廊下を進んだ。刑の確定した罪人が嘆きながら歩く渡り廊下だから、この名が広まったという。今まで自分とは違う世界の話だと思ってきたが、ミシェルもこの陰鬱な渡り廊下を連行されていったのかと思うと、胸が張り裂けそうだ。
地下牢の地上部分は近衛兵たちが寝泊りする部屋なので、死体搬出用の秘密通路へ入ったときのような不気味さはない。壁には紋章のタペストリーが飾られ、騎士団詰め所よりむしろ華やかだ。
だが、廊下の突き当たりに、周囲を威嚇するような黒鉄の扉が見えてきた。左右に立っている衛兵は、騎士団長に気が付くとすぐに敬礼した。
うなずいた騎士団長が口をひらき、計画通り作り話を始める。
「皇帝陛下のご命令で、ミシェル・スーデリアの身柄を修道院へ移送することとなった。失礼があってはならぬゆえ、皇女殿下と宰相殿と共に迎えに参った次第だ」
皇太子は病気療養中ということになっているから、私が妃殿下を迎えに上がる役目を担っても不思議ではないはず。案の定、衛兵は何も疑わずに鍵束を出し、鉄扉を開けた。
重い音を立てて開かれた扉の向こうには、暗い階段が続いていた。かび臭い湿気が、石の螺旋階段を這い上がってきて、ひんやりと肌を撫でる。
皆と共に階段を降りる私の胸は、ミシェルを救い出せる期待感に高鳴っていた。一回目はドラーギ将軍と二人だけで、策もなく突っ込んだのが敗因だった。
でも今は、宰相が私を皇帝の名代だと証明し、騎士団長が看守長に命令を下してくれる。必ずミシェルを解放できるわ!
次回、いよいよミシェルと再会できる!?




