32、ヴァイオラの決意
馬車は重い車輪を引きずるようにして帝都の城門を出た。馬車の左右には一人ずつ護衛の騎士がつき、馬上から私を監視している。
キャビンの窓を叩く雨粒が、無情に景色を滲ませる。今朝は晴れていたのに、今は冷たい雨が降りしきり、麦畑を突っ切る街道を灰色に染めていた。
馬車は妙にゆっくりと進んだ。まるで誰かに足止めされているかのように。
私はすぐに、父の策略なのだと悟った。出来る限り長い時間、私を皇宮から遠ざけておきたいのだ。
どんよりと沈んだ景色の中、車輪の音だけが響く。ミシェルの捕らえられた皇宮から離れてゆくたび、心がきしんだ。
もう男装の時間は終わり。呪われた双子の皇女に戻って、辺境伯家に嫁ぐしかない。
助けを求めるように母の形見の指輪を撫でる。
――ヴァイオラならできるわ。
頭の中で母上の声が響く。
何ができると言うの? 私は無力だ。全ては終わった――
だが、右手のペリドットを撫でた左薬指には、銀の指輪が控えめな輝きを放っていた。ミシェルと交わした結婚の証だ。私たちは婚礼の儀において、神の前で愛を誓い合ったのだ。
私はずっと家族を取り戻したかった。
ミシェルはそんな私に神様から与えられた、新しい家族だったのに、私は彼を守れないの?
足枷をはめられ、処刑を宣告されたミシェルの姿が、脳裏に焼き付いている。
どうしても、どうしても彼を失いたくない。愛する人の命が朝露のように消えてゆくなんて、許せない。
こぶしを握りしめたとき、私はハッとした。
戦地で傷ついた兵士たちの姿が、まぶたの裏によみがえる。命を落とした若者たちにも、帰りを待つ家族がいたはずだ。恋人や伴侶、親たちにとって、かけがえのない命がいくつ戦場で散ったのだろう。
父がどれほど多くの人に涙を流させたのか、私はようやく気が付いた。
ミシェルの命が風前の灯火となった今になって、人の命とは、これほど重いのだと理解した。この胸に燃え上がる愛こそ、命の重さなのだと。
ミシェルは私にとって唯一無二の人だ。ほかの誰も決して代わりにはならない。
そして私たちは誰もが等しく、決して替えのきかない、大切な存在なのだ。
「止めて!」
私は叫んでいた。
御者が驚いて、手綱を引く。
これ以上、父に命を奪わせはしない。人々の命は私が守る。
父をもとに戻すことなど不可能だ。なぜなら他人を変えることは、できないから。
人は、自分の意志でしか変わらない。
私が、大切なニーナにどれほど言葉を尽くされようと、父帝を倒そうなどとは微塵も思わなかったように。
だから、そう――
私は、自分を変えることならできる。
変わってみせよう。
私は、ドミナントゥス帝国初の女帝になる!
「どうされました?」
馬車が止まるや否や、護衛の騎士がキャビンに近づき、窓から私をのぞきこんだ。
「帝都へ戻してちょうだい」
私は毅然と言い放った。策も勝算もなく、勢い余って馬車を止めてしまった。言い繕うための言葉など用意していない。
「では、私の馬をお使い下さい」
「えっ!?」
想像だにしなかった申し出に、私は面食らった。
「私の顔をお忘れですね?」
騎士は馬上で身をかがめ、三角帽子のつばを持ち上げた。
ガラス越しに目が合った彼は、前線から帝都まで共に馬を走らせた騎士だった。
「あなたは、ドラーギ将軍の部下の――」
「ええ。将軍から言われております」
彼は白い歯を見せて笑った。
「皇女殿下はおとなしく辺境伯領へ送られるような人ではない。必ず作戦があるはずだから、お助けしろと」
反対側の窓ガラスからも、騎士が革手袋で窓ガラスの水滴を拭って、見覚えのある笑顔を見せる。
「自分もブリューム領からお供させていただいた者です。ジョルダーノ辺境伯領までの護衛を命じられた騎士に変わってもらいました」
誰も辺境伯領まで長々と旅したくはないだろうから、護衛は簡単に任務を変わったのだろう。
馬を止めた御者が振り返って、キャビンを見下ろした。
「俺は騎士団直属の御者ですが、ドラーギ将軍から言われていたんです。なるべく帝都から離れねえよう、ゆっくり走れって」
なんと父の陰謀ではなく、味方の策略だったとは!
ドラーギ将軍は私の同志なのだ。同時に彼の上司である騎士団長も、さらには宰相も、大蔵卿だって味方だと思い出した。それならば――
私は大胆な作戦を思いついた。運命を受け入れようとしていた一瞬前には、決して思いつかなかった豪胆な策を。
「殿下、失礼とは存じますが」
私が決意を固めたとき、騎士が窓の外から声をかけた。
「皇宮へお戻りになるなら、私と服を交換しましょう。皇太子の格好では目立ちすぎます」
確かにこのきらびやかな服装では、すぐに偽皇太子だとバレてしまう。父の命を受けた見張りがうろついているかも知れないのだから、本物の兄が目覚めた今、皇太子の恰好で皇宮に戻るわけにはいかない。
私は馬車の中で、金糸の刺繍が美しいジュストコールとジレを脱ぎ、豪華なレースが幾重にも重なったジャボを外した。
開けたドアから、すまなさそうに騎士服を持った手が伸びてくる。
「申し訳ございません、殿下。雨に濡れているのですが」
「構いません。どうせ私もすぐに濡れるのだから」
私は絹のシャツの上に借りた騎士服を羽織り、ボタンを留めた。騎士は私より大柄で、肩のあたりが落ちてしまうが仕方ない。
皇太子の服装に着替えた騎士が、馬車から降りる私の手を取り、馬の背に押し上げてくれる。
折しも雨が上がり、雲間から一筋の陽光が差した。
私は栗毛の馬にまたがり、かすかに暖かい鬣を撫でた。濡れた毛並みは黒曜石で作られた彫刻のように輝き、毛先から滴る雫が光を受けて煌いた。
私は護衛の騎士一人をつれて、帝都へ向けて馬を駆った。
街道の途中でゆっくりと方向転換をした馬車も、私たちを追いかけてくる。だが、その差は次第に開いていった。
ついに父から皇帝の座を奪うことを決意したヴァイオラ。次回、第四幕からはクーデター計画を実行!
第三幕最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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