30、地下牢に隠された禁忌の実験室
狭い地下通路には鼻をつく腐臭が充満していた。死体を運び出すせいだと理解した途端、嗚咽がこみ上げる。
「殿下、お気を確かに」
ドラーギ将軍が耳元でささやき、肩を支えてくれた。戦地に身を置いてきた彼は、肌を刺すような死の気配にも慣れているようだ。ミシェルを助けたいなら、私も彼の強さを見習わねば!
等間隔に灯された頼りない壁の明かりを頼りに、一歩ずつ地下牢の奥へと進む。古いレンガ壁は崩れかけ、足を踏み出すたびに靴の下で砂利がこすれ合った。
行く手の両脇に鉄格子が見えてくると同時に、男たちの怒声が聞こえてきた。
「てめぇのせいでここに入れられたんだぞ、このクソ野郎が!」
「はっ、何をぬかしやがる! 貴様が先に裏切ったくせに!」
向かい合った牢の中で、囚人同士が口汚く罵り合っていた。怒声が石壁に反響し、牢獄全体が吠えているかのよう。囚人たちが鉄格子から出られないと分かっていても、足がすくむ。
壁の灯りが届かない場所で立ち止まって、ドラーギ将軍が声をひそめた。
「ミシェル様が幽閉されるとしたら、地下二階のはずです」
「このあたりはごろつきが多いようですね」
私は牢の中で怒鳴ったり、うずくまったりする囚人たちに視線を走らせた。
「ええ。彼らと違って詐欺師などの経済犯罪者や、思想犯、政治犯などは頭がよいので、脱獄が難しい場所に収容されているんです」
将軍は、並ぶ鉄格子の奥からのぞく階段へ歩き出した。地下牢は想像以上に広い。ミシェルを探し出せるだろうかと不安になるが、今は先へ進むのみ。気持ちを奮い立たせたとき、先を行く将軍の背中が止まった。
「巡回が来ます」
再び壁に張り付き、大きな体で私を隠すように立つ。通路の奥から牢番の硬い靴音が響いてきて、全身にピリピリとした緊張が走る。
「あの部屋に隠れましょう!」
将軍が指さした先――通路脇の扉がわずかに開いて、中から灯りが漏れていた。考えるより先に、私たちは室内へとすべり込んだ。
音を立てぬよう扉を閉めた私は、怪しげな部屋に目を奪われた。燭台の火が煌々と照らす棚には書物が並び、その隣には色とりどりの薬瓶が整然と置かれている。
だがもっとも異様だったのは、椅子に縛り付けられた三人の囚人だ。彼らの手足には頑丈な枷がはめられ、口も目も布で覆われている。足元に貼られた紙片には、魔法薬の分量と、服用後の状態が記されていた。
「なんの実験――」
声を出しかけた私を、将軍が外套で包み込む。扉の隙間から見えたのは、近づいてくる牢番ともう一人――老人と思われるおぼつかない足取りに合わせて、白い顎髭が左右に揺れている。
宮廷魔法医、ファルマーチ!?
なぜ彼がここに? 塔の上で兄の治療にあたっていたのでは!?
鼓動が早鐘のように打つ。すぐ隣にいるドラーギ将軍にも聞こえそうだ。
部屋の前を通り過ぎると思っていたファルマーチは、だが足を止めた。
扉が、ファルマーチの手によって開けられた。
室内に足を踏み入れた途端、ファルマーチは黄色い目を見開いて固まった。
三人の視線が交差する。
牢番の足音が廊下を遠ざかっていく中、私たちは時が止まったように凍りついていた。
最初に沈黙を破ったのは、にやついた笑みを取り戻したファルマーチだった。
「これはこれは皇女殿下。なぜこんなところに?」
ファルマーチの片手がローブのポケットにすべり込んだのを見たドラーギ将軍が、剣の柄に右手をかける。
私は身を守るために、将軍の背後に下がった。
「ファルマーチ先生、この部屋は一体?」
「怪我をしたり、病にかかった囚人を治療する魔法薬を保管している部屋ですじゃ」
ファルマーチはさりげなく書斎机へと後退し、広げたままだったノートを閉じた。
私は目隠しをされ、猿ぐつわをかまされた三人の囚人に目をやった。
「では、彼らはなぜ拘束されているのです? 彼らの足元に貼られた紙には、魔法薬の投与量が書かれています。本当に治療なのですか?」
質問を畳みかけると、ファルマーチの顔から笑みが消えた。口の中で小さく、舌打ちしたのが聞こえた気がした。
「困りましたな、皇女殿下」
ファルマーチはわざとらしく口元に指を当て、あざけりの色を宿したいやらしい目で私を見つめた。
「ここはあなたの立ち入るべき場所ではありませんのじゃ。お美しい皇女殿下が、こんな汚く暗い場所に忍び込むとは、何かやましい理由でもあるのですかな?」
「私はミシェル妃を助けに来たのです」
「あなたとミシェル様は何の関係もなくなりましたぞ。セザリオ殿下が目覚めましたのじゃ。ヴァイオラ様はドレスに着替えてお部屋にお戻りなされ」
愛するミシェルと何も関係がないと言われて、私は必死で涙をこらえた。
「おい、先生」
代わりにドラーギ将軍が進み出る。
「ミシェル殿下の場所を教えないと、痛い目を見ることになるぞ?」
囚人もかくやという口調で脅し始めた。もちろん右手は剣の柄を握っている。
だが老獪な魔法医がひるむことはなかった。
「物騒なことを言うものではない。牢番を呼びますのじゃ」
将軍が黙ったのを見た魔法医の頬に、狡猾な笑みが浮かぶ。
「この件は、皇帝陛下にご報告しなければなりませんのじゃ」
「なっ」
この怪しい魔法医から父に話をされては、間違いなく私たちが不利になる。将軍まで投獄されるようなことになってはいけない。
父上はセザリオから、不吉な双子の妹のせいで皇后の命が奪われたと聞かされて、信じるような人間だ。老獪なファルマーチが虚実取り混ぜておかしな報告をする前に、私が直接、父上と交渉しよう!
私は撤退を決意した。門番とも事を起こしてしまったし、私の帰城が父の耳に入るのは時間の問題だ。
「将軍、ここは引きましょう」
「承知いたした」
私たちは逃げるようにファルマーチの怪しげな研究室を出た。
暗い廊下で、父上と直談判する意思を伝えると、将軍はすぐに案内してくれた。来た道を戻るのかと思いきや、上階へ至る階段を通って、宮殿の一階へ出た。
「皇帝の執務室までお供いたします」
ドラーギ将軍と共に朝の宮殿を執務室まで急ぐ。
執務室の扉脇には護衛の近衛騎士が立っていたが、
「どけ!」
ドラーギ将軍が吠えると硬直した。その隙に私は扉を開け放つ。
こんな朝早くから父上が執務机についているだろうかと不安だったが、ファルマーチの回復ポーションがよく効いているらしく、彼はすでに仕事を始めていた。
ついに皇帝と正面衝突!?




