10、ヴァイオラ、優秀さを隠せない!
「どうされました?」
何も知らない宰相が促す。羽根ペンを握った私の手が震え始めた。
「い、い、いけません!」
突然、侍従長が大きな声を出す。
「セザリオ殿下、また手がつってしまったのですね!」
侍従長が飛んでくるが、宰相は怪訝な顔をするばかり。私はとりあえずペンをインク壺に戻し、
「うーむ、これはいかん! サインができないぞっ!?」
困り果てた演技で右手を振る。しかし根本的解決になるはずはない。どうするのよ、この事態!?
侍従長は皺の刻まれた両手で私の右手を包み、さすり始める。
呆気にとられる宰相の横で、ミシェル様がぽんと手をたたいた。
「わたくし、侍女から聞きましてござりまする!」
突然怪しい敬語を話し始めた。
「侍従長殿は一家相伝のマッサージ技術を習得しておられるとか! しかし誰にも見せられぬ秘儀ゆえに、人前ではマッサージできぬのだ!」
「誰にも見せられないのでは、患者にもマッサージできないのでは?」
冷静に突っ込む宰相の背中を押して、ミシェル様は執務室の扉へと歩き始めた。
「さあさあ宰相殿、侍女に茶とビスケットでも持って来させて、我々は一服といたしましょうぞ!」
ミシェル様が宰相を廊下に連れ出し、扉が閉まる。私と侍従長は胸をなで下ろした。
またミシェル様に助けられてしまった。彼女は私の秘密を知らないはずなのに、なんて機転が利くのだろう!
侍従長は素早く私から離れると、壁に沿って並ぶ木製キャビネットを開けて、何かを探し始めた。
「ありました!」
彼が持ってきたのは一枚の文書だった。
「こちらが皇太子のサインです。このように窓を使ってなぞるのです」
侍従長は兄のサインが書かれた綿紙を窓に押し付け、その上に書類を重ねた。
私は透けて見えるサインをなぞってみたが――
「線が震えて怪しいんだけど!?」
「マッサージで応急処置をしたとはいえ、まだうまくペンを握れないとでも申しましょう!」
苦しい言い訳だが、私にもっとよい案があるわけでもない。
「分かったわ。一応、各書類の内容を確認しながら署名します」
何度もなぞって兄のサインを覚えたころ、ミシェル様と宰相が戻って来た。私はすでに窓から離れ、宮廷長官が代筆済みの手紙を封蝋で閉じていた。
「セザリオ殿下はお仕事が早くて助かります。どうやら私は殿下を誤解していたようだ!」
宰相が喜んでいるのは、兄の評価が地を這うが如く低いからだろう。念のため計算間違いはないか、おかしな項目はないかなど一通り確認したが、法衣貴族たちの仕事は正確で私の出る幕はなかった。署名しただけで褒められた私は苦笑する。
「誰でもできる仕事であろう」
だが宰相は腰をかがめて、革張りの椅子に座った私の耳元でささやいた。
「陛下は単純作業など退屈だとおっしゃって、一向に片づけて下さらなかったのですよ」
「それでこんなに仕事がたまっていたのか」
私は納得した。ほんの二日ほど皇帝が寝込んだくらいで、書類が山積みになるはずはなかったのだ。
「だが問題はこちらの山だろう」
私は朝食代わりの胡桃をつまみながら、一番小さな三つ目の山を見た。陳情書や報告書のたぐいだが、私が判断したり、対策を命じたりする必要がある。
大きな窓から燦々と差し込んでくる陽射しに目を細め、私はひとつうなずいた。
「よし、一番下から見て行こう。長い間、父上が放置しているだろうからな」
書類を引っ張り出すと、帝都の治安維持を担う第八騎士団からの陳情書だった。
「貧民街で行方不明者多発? 人身売買か?」
「分かりませぬ」
宰相の返答に、私は顔を上げた。
「騎士団に調査を依頼していないのか?」
「陛下のご命令をお待ちしております」
「すぐに調査してくれ。今は貧民街だけにとどまっているようだが、放置すれば城下の治安悪化につながりかねない。父上は知らなかったのか?」
宰相は皇帝への不満を露にするように、眉根に皺を寄せた。
「ご存知です。この陳情書は数ヵ月前にちらりとご覧になっていましたから」
父上は民に興味がないのだろうか?
騎士団宛ての調査依頼文は宮廷長官が作成してくれるそうだ。私は次の陳情書に取り掛かった。
「魔法薬師ギルドからか。城下で呪疱熱が流行しているだと?」
母上の命を奪った病の名前が出てきて、私の心臓は跳ね上がった。表情が硬くなったことに気が付いて、横に立っていたミシェル様が私の肩を撫でてくれた。女性にしては大きな手のひらから熱が伝わってきて、過去に引きずられそうになる心を勇気づけてくれる。
侍従長がミシェル様のために椅子を運んできた。私の隣に腰掛ける彼女を見下ろしながら、宰相が沈んだ声で説明する。
「一ヵ月ほど前から城下の至る所で、皮膚に魔法陣のようなあざが浮かび上がり、高熱を出して亡くなる者が増えています」
「明らかに呪疱熱の症状だな。だが三年前に特効薬が開発されて、命を脅かす病気ではなくなったと聞いているが」
呪疱熱に侵された皇后の命を救おうと、皇帝が魔法医たちに研究させた結果、ファルマーチという男が特効薬を作り出した。なぜか母上には効かなかったが、その後、多くの命を救った薬だ。功績を認められた彼は今も、宮廷魔法医長として厚遇されている。
「お言葉ですが、セザリオ殿下。特効薬は高価で庶民には手が届きません」
貴族の間でしか出回っていないというわけか。
「材料が高価なのか? チーズか何かから抽出した成分で作ると聞いた覚えがあるのだが」
私の曖昧な知識を、ミシェル様がおぎなってくれた。
「ブリューム地方特産のチーズに生えるカビから有効成分を抽出するそうです」
「ブリュームというと今、帝国が戦をしかけている自治領だな。戦のせいで原料が手に入らないのだろうか?」
「ブリューム地方発祥と言うだけで、ほかの土地でも作れるはずです。母の好物で、スーデリア王国内の酪農家やチーズ職人にも作らせて、流通させていましたから」
ミシェル様の証言を受けて、私は再び宰相を見上げた。
「成分を抽出して魔法薬に加工する過程が難しいとか?」
「私の知識ではなんとも。魔法医に尋ねて、量産化できない理由を調べておきます」
「頼む」
短く答えて、次の書類を手に取る。
「これは手紙だな」
執務机の横に控えていた侍従長が答えた。
「ブリューム領へ出兵中のドラーギ将軍から届いた書簡となります。三日ほど前、伝令が持って参りました」
侍従長の言葉を聞き流しながら、手紙に目を通した私の背中に冷や汗が伝った。
「本日午後、ドラーギ将軍がこの皇宮にやって来るだと!?」
戦況の報告と今後の作戦打ち合わせのために皇帝陛下に謁見したいそうだ。
「父上は午後までに目覚めるのか?」
「目覚めなければ」
宰相が平然と提案した。
「セザリオ殿下に代行していただくことになるかと」
ヴァイオラは将軍の謁見まで代行することになるのか!?




