01、ドミナントゥス帝国の皇女ヴァイオラが虐げられている理由
小さな窓から見える皇宮は、朝の陽光を浴びて金色に輝いていた。
今日は、私の双子の兄である皇太子セザリオが結婚する日。今ごろ使用人たちは、婚礼の儀の準備に忙しく動き回っているだろう。
だが離れに閉じ込められた私は、参列することすら許されない。低い天井の下、剥げかけた漆喰の壁に囲まれた部屋で、古びた鏡台の前に座っている。流行遅れのドレスは刺繍も色あせ、首元のレースにはほつれが目立つ。
それでも鏡の向こうから見つめ返すオリーブグリーンの瞳は、失望に沈んでなどいなかった。窓から差し込む淡い光が、結い上げたブルネットの髪を輝かせる。
母上の形見の指輪を右手の薬指に嵌めたとき、ノックの音が聞こえた。
「ヴァイオラ様、皇帝陛下がお呼びです」
私の唯一の侍女ニーナが戻って来たようだ。
「父上が?」
私は眉をひそめた。この三年間、私の存在を無視し続けてきたのに、今さら何の用だろう?
廊下に出ると、ニーナが人差し指を顔の横に立ててチッチと振って見せた。
「頭脳明晰な侍女ニーナの推理をお聞かせしましょう!」
「結構よ」
私の辞退を無視して、彼女は片手を腰に当て語り出した。
「昨日の夜、皇宮の方が騒がしかったです。ズバリ何か問題が起きたのでしょう!」
「何かって?」
「うっ」
「たとえ重大な問題が起きても、父上は私に相談などしないでしょう」
使用人宿舎として建てられた離れの廊下を歩きながら、私は冷めた声を出した。皇帝の執務室がある皇宮は、長い渡り廊下の先にある。
ニーナはもともとふっくらとした頬をさらに膨らませた。
「皇女であるヴァイオラ様に使用人の暮らしを強いるなんて、ひどすぎますっ」
「父上は迷信深いのよ」
かつてこの国には、双子は不吉だとする言い伝えがあった。だが現在、そんな俗説を信じているのは田舎の老人くらいだろう。
ニーナは子犬のような茶色い目を悲しそうに伏せて、すり減った大理石の床を見下ろした。
「皇后様がご存命の頃はヴァイオラ様にもたくさん侍女がいて、教育係もついていて、セザリオ殿下よりずっと優秀だったのに」
三年前、母上は呪疱熱という流行り病で命を落とした。それからしばらくして、父は不吉な双子の妹がいるせいで、妻を亡くしたと言い出したのだ。
「きっと私が、父を諫めたのがいけなかったんだわ」
民の幸せを願っていた皇后を失って、止める者のいなくなった皇帝は、帝国の領土を拡大するため戦を始めた。母上が守って来た平和が失われるのを危惧した私は、政に口を出して不興を買った。
「でも私はあきらめてなんかいないのよ」
薄暗い渡り廊下で立ち止まり、ニーナを振り返る。
「何年かかっても、母上がいらっしゃった頃のような父上と帝国に戻してみせるわ」
私は必ず、家族を取り戻す。このまま孤独の海に沈んだりはしない。
「でもヴァイオラ様、来週には会ったこともない辺境伯令息のところへ嫁ぐことになっているじゃないですか」
ニーナの表情は硬い。ひび割れの目立つ壁にかけられた、過去の大臣たちの肖像画と同じくらい難しい表情で見つめる彼女に、
「帝都から遥か遠いジョルダーノ辺境伯領に暮らしたって、父上に手紙を書くくらいできるわ」
私はきっぱりと言い返して、再び歩き出した。
「辺境伯領を発展させることで、豊かな国には平和が不可欠だと父上に示すのよ」
「だからヴァイオラ様は、領地経営の勉強を欠かさないのですね」
「今は教育係もいないから、一人で本を読むだけですけれどね」
軽く溜め息をついて皇宮に足を踏み入れた私は、まぶしさに目を細めた。
大きな窓から燦々と陽光が降り注いでいるのに、天井からはいくつもシャンデリアが下がっている。ゆらめく無数のロウソクが、磨き抜かれた幾何学模様の床に反射する。大理石の柱にも天井にも金の装飾が施され、その隙間を埋めるように大きな油絵が飾られていた。
天下にとどろくドミナントゥス帝国の威信をかけた豪華な廊下を通り、絨毯の敷かれた階段を登って父の執務室へ急ぐ。
だが上階の廊下へ出た私は足を止めた。いくつも宝石の嵌まった執務室の扉へ向かって、どことなく母上に雰囲気の似た女性が歩いて行くのだ。
「あの者は?」
「最近、陛下が信頼してそばに置いている占い師です」
ニーナは苦い顔で答えた。
扉の両脇には衛兵が立っているものの、事情を察しているらしく、執務室に入ろうとする彼女を止める様子はない。
だが中から扉が開いて、侍従長が出てきた。彼は占い師を追い返してから、私とニーナに一礼する。
「ヴァイオラ様、陛下がお待ちです」
彼は紳士的な身振りで扉を開け、私たちを執務室へ招き入れた。
大きな執務机と暖炉の間に、父は厳しい表情で座っていた。マントルピースの上には、金細工で作られた美しい地図が飾られている。帝国の地図かと思いきや、私が学んだ帝国よりかなり広い。創世神話に出てくる神代の国を表しているのだと気づいたとき、父上が口を開いた。
「これからお前に伝えることは極秘だ」
「はい」
答えた私の声は緊張していた。絹張りの壁に飾られた、歴代皇帝の肖像画にまで睨まれているようだ。
「昨夜夕刻、狩りの帰りに皇太子セザリオが落馬した。いまだに意識が戻らない」
こうべを垂れていた私は驚いて顔を上げた。
「本日はスーデリア王国の王女ミシェル様と婚礼の儀を執り行う予定ではありませんか」
「だからお前を呼んだのだ。喜べ、ようやくわが帝国の役に立てる日が来たぞ」
口元を歪めた父上は、机に乗ったグラスを手に取り、壁際に立つ侍従の方に向けた。すぐに察した侍従が酒瓶を持ってきて、皇帝の手にしたグラスに注ぐ。
父は満足そうに飲み干すと、空になったグラスで私を指した。
「お前がセザリオの服を着て婚礼の儀に出席するのだ」
驚愕に言葉を失う私に、父は事もなげにつぶやいた。
「安心しろ。どうせ偽の結婚式だ」
真意をはかりかねる発言の意味を問う前に、父は言葉を続けた。
「お前とジョルダーノ辺境伯令息との婚姻は延期とする。ヴァイオラは宮殿内の大階段から落ちて、意識が戻らないということにした。すでに使いの者が親書を持って、ジョルダーノ領へ転移している」
あまりの身勝手さに言葉も出ない。呆然とする私に対して、父は虫でも払うように手を振った。
「分かったらさっさとセザリオの部屋へ移って婚礼の準備に取り掛かれ。時間がないぞ」
「兄上の部屋に?」
「セザリオの意識が戻らないことは極秘だと言ったろう。狩りの共をした近臣たちと魔法医くらいしか知らん話だ。騒ぎにならぬよう、お前がセザリオとして振舞え」
戸惑う私のもとへ、侍従長が近づいた。
「ヴァイオラ様、正午には婚礼の儀が始まりますゆえ、お支度を」
彼の静かな声のうしろで、教会の鐘が時を告げる。
「あと三時間――」
私はふらふらと立ち上がると、ニーナに支えられながら執務室を後にした。
男装して隣国の王女様と結婚式ですって? 見破られずに乗り切れるのかしら!?
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