【オリジナル版】古井戸には不貞の輩 〜その罪と罰〜
リストラされた。上司の妻と不倫をしたせいだ。
あらたな職を探すも、車の免許さえ持っていない俺には、正社員として雇われることは難しく、仕方なしに実家に帰ることになった。
「兄ちゃんはズルいよな。大学で家を出たきり、たいして帰ってこなかったクセに」
弟の言い分はもっともだ。大学在学中に、親父が胃ガンになった。
弟はまだ高校生だったが、お袋とふたりで五年半の闘病生活を支えつづけ、葬儀では喪主も務めた。
親不孝とわかっていながら、女遊びに羽目を外したあげく、通夜にも葬儀にも顔を出さなかった。
農業大学に進学したがっていた弟だが、親父の治療費がかさんだため、それすらあきらめ、実家の八百屋を継いでいた。
弟はそれから間もなく、おさななじみと結婚し、お袋に孫を見てもらうという完璧な親孝行をしているわけだが、人生そううまくは回らないもので、現在お袋は子宮ガンと闘っている。
「そういえばさぁ」
口元を歪めるだけの微笑を浮かべた弟が、意地の悪い口調に変わる。
「この前親父の実家に行ったんだ。古井戸のあるあの家に」
古井戸と聞いて、心臓が飛び跳ねる。
子供の頃、一度だけあの井戸に落ちたことがあった。
真っ暗でジメジメしていて、腐ったなにかの臭いがした。
あの不愉快な気持ちを思い出すなんて、俺もヤワになったもんだな。
「どうだった? あの家」
「ボロ屋とかって茶化すなよ? あの家はリノベーションして貸し出してたんだけど、その家族が仕事の都合で引っ越しちゃったんだよ。兄ちゃんよかったらそこに住まない? けっこうきれいに使ってくれてたんだよ」
「へぇ〜?」
否定とも肯定ともとれる返事を返す。
あんな井戸がある家なんて、とてもじゃないけど住みたくなんてない。
でも、この家に居るのも忍びない。
お袋とはほぼ断絶状態だったし、弟は俺の女遊びを知っているからだ。
まだ小さな甥っ子も苦手だ。
――なによりも。弟の嫁が問題なんだよな。
「住めるんなら、一応考えておこうかな?」
「その方がいいよ。兄ちゃんにはその方が似合うし、引っ越すんなら俺手伝うしさ」
そこまで話を進められたのでは断ることができない。いくら俺が図々しいからって、この家には居て欲しくない理由もあるからな。
「じゃ、近いうちに」
「掃除はすませてあるんだよ。水回りも電気も完璧だし、前の家族が家電も置いていったからすぐ使える。明日、店が休みだから、どう?」
「そ、うだな。じゃあ。そういうことにするわ」
あの、と線の細い声が聞こえる。弟の嫁のさよこだ。
さよこは最初、俺に惚れてた。色白でおとなしいところが退屈だったが、後腐れなく別れることができた貴重な女だ。
そのさよこだが、あいかわらず色白で華奢な体つきをしている。
「お茶です」
そう言って、弟と俺の前にお茶碗をコトリと置いた。
鈍い緑色が不吉な予感をかき立てたが、あら? とさよこが俺の湯飲みをのぞき込んだ。
「お兄さん、茶柱が立ってますね」
ほほと笑うさよこに、女の魅力を感じたのは言うまでもないだろう。
▲▽▲▽
翌朝早くにたたき起こされて、さっそく引っ越しの準備が整った。
実家に戻ってからこっち、あまり荷解きをしなかったおかげで、最小限の支度ですんだからだ。
荷物は弟の軽トラに乗せてもらう。
「あの。また遊びに来てくださいね、お兄さん」
車に乗るや、さよこが頬を染めてこう言う。
「うん、そのうちね」
この時の俺は、弟の気持ちなんて考えてもなかった。
「さよこ、よろこんでたな。兄ちゃんのこと、ずっと好きだった頃があったもんな」
「今はお前の嫁さんだろ? お袋のめんどうでもみてもらおうって腹だろ?」
なぜか毒づいた瞬間、信号のない道で急停止する。
体のバランスがとれなくて、おい、と語気が荒くなる。
「ごめん、兄ちゃん。カルガモ親子も引っ越しみたいだからさ。ほら、見てよ。かわいいな」
「あ? ああ」
わざとなのだろうか? たしかに郊外だけど、弟から怒気を感じ取ることができないでいる。
妙な胸騒ぎにおびえるくらいなら、実家に帰ってくるんじゃなかったな。でも、家賃を払えるほど貯金はない。女遊びは金がかかるからだ。
ほどなくして、デジャヴのように知っている道と、まったく知らない建物が見えてきた。
リノベーションと聞いたが、案外シャレている。これなら井戸を気にしなくてもすみそうだ。
軽トラから降りて、伸びをすると、弟に手を引かれた。
「庭はあんまりいじってないんだ。懐かしいだろう?」
「え?」
弟はなつかしくもおそろしい庭へと俺を誘導する。
きっと草ぼうぼうで蚊もいるし、なにより例の古井戸もある。
「庭もちゃんと花壇にして、花もあるから、水まきくらいはしてくれよな」
たしかに、花は咲いていた。名前も知らない地味な花が。その花は、さよこを彷彿とさせた。
だから、と気が緩んだせいかもしれない。開いたままの縁側へと簡単に誘導される。
縁側からは、古井戸がよく見えた。
「この井戸ってさぁ」
弟の声のトーンが急激に下がってゆく。
「不思議な言い伝えがあるって、兄ちゃん知らないだろう?」
「言い伝え? そんなもんあった?」
おれは、この井戸に落ちた記憶しかない。いや、しかし待て。
おれはどうやって井戸に落ちたのだった?
冷や汗が沸く。
『あたし、お兄さんの方が好きかな?』
幼い頃に、さよこに告白された言葉が鮮明に脳裏をよぎってゆく。
「言い伝えってのはさぁ、他人の女を横取りした男はみんな、この井戸で死んでるっていうさぁ」
まさか、そんな。
そういえば俺は爺さんに会ったことがない。なぜだか写真一枚残っていなかった。
そして、この家からは男が先に亡くなっている。
「ねぇ、兄ちゃんがさよこのはじめての相手だよね? 俺がさよこを好きだと知っていて手を出した。そうだよねぇ?」
「そんな、子供の頃の話じゃん」
俺の体はどんどん井戸へと向かわされてゆく。
「今だって、さよこを誘惑してるじゃん」
「かんちがいだって」
「そうかな?」
ざっ、となにかが俺の首に絡みついた。最初は蛇かと思って情けない悲鳴をあげたものの、それだけではすまなかった。
ロープだ。そういえば弟は昔から西部劇が好きだったっけ。
「ちょっと。嫌な冗談はやめてくれよ」
「冗談ですむかな?」
首にかっちりはまり込んだロープは硬く、とてもじゃないけどほどけない。
「子供の頃は、ロープ投げに失敗したけど、今度は完璧だな。兄ちゃん、井戸に落ちた時のことおぼえてる?」
首がしまって酸欠になっているせいか、過去の記憶がフラッシュバックしてくる。
古井戸の中には、首をもがれた白骨遺体がたくさんあったのだ。
「た、たすけてくれ。そうしたらこの町を出る。だから、殺さないでくれ」
「兄ちゃんは遊びのつもりでも、女の子たちはそうは思ってなかったし、その後始末をさせられたのはいつも俺だったんだぜ?」
どん、と乱暴に胸を押された。酸欠になった頭の中に、何人もの女たちの顔が浮かんでは消えてゆく。
「そういうわけ。枯れ井戸じゃないから、しばらくこのまま住んでもいいよ」
弟の笑い声が高らかと響いた。
井戸の内側には血の固まった茶色がそこかしこについている。
「この家を借りる人はみんな、この井戸が目的ってわけ。じゃ、さよなら兄ちゃん」
待ってくれ、と言うよりも先に、蓋が閉められた。
いや、おれの血の流れが止まっただけかもしれない。
【完結】
この物語はこれで完結となります。読んでくださり、ありがとうございました。