『朝の祈り ―Have A Wonderful Time―』

作者：小川敦人

「Have A Wonderful Time」と書かれた真空マグカップ。

毎朝、カフェオーレを煎れて飲む。3年前、誕生日プレゼントに貰った大切な物。

私にとって、ただのマグカップでは決してない。

朝日が差し込むキッチンで、いつものように温かい牛乳を注ぎ入れる。

深煎りのコーヒーの香りが立ち昇り、部屋中に広がっていく。

独り暮らしの部屋に、ゆっくりと朝が訪れる。

マグカップを手に取ると、その重みが心地よい。

光沢のあるステンレスの表面に、さりげなく刻まれた文字。

毎朝見るたびに、あの日の記憶が蘇る。

3年前の9月。

私の誕生日から2週間ほど経った頃だった。

会社の休憩室で佐伯さんから声をかけられた。

「中村さん、ちょっといいですか？」

いつもの穏やかな声。男として、その声に心が揺れる。

亡くなった、長女のためにはじめたヘアドネーション。

短く揃えたボブヘアに似合う、知的な雰囲気のフレームメガネ。

システム開発部の主任である佐伯麻衣子さんは、社内でも評価の高い存在だった。

彼女の周りには、いつも清々しい空気が漂っている。

「先月は誕生日プレゼント、ありがとうございました」

7月生まれの佐伯さんには、長年憧れを抱いていた。

けれど、それは決して口にできない、男としての想い。

彼女には可愛い娘さんと活発な息子さんがいる。

旦那さんとの仲も良いと聞いている。

休日には家族で出かける写真を、時々社内のチャットに投稿している。

その笑顔を見るたび、胸が締め付けられる。

「いえ、気に入っていただけて良かったです」

ペンダントは、彼女の雰囲気に合いそうだと思って選んだ。

値段以上に見える、誕生石のルビーのデザインに惹かれた。

首元で輝くそれは、きっと彼女を一層美しく見せることだろう。

そんな些細な妄想すら、この想いの一部なのかもしれない。

「私からも、お返しを」

そう言って差し出されたのが、このマグカップだった。

シンプルながら洗練されたデザイン。

手に取った瞬間、その重みに驚いた。

まるで、この想いの重さのように。

「真空マグなので、温かい飲み物が冷めにくいんです。中村さん、いつも朝一番にコーヒーを飲んでますよね」

休憩室で会うたび、私が必ずコーヒーを飲んでいることに気付いていてくれた。

そんな些細な習慣まで覚えていてくれたことが、妙に嬉しかった。

同時に、この温もりが永遠に続かないことも、痛いほど分かっていた。

「ありがとうございます。大切に使わせていただきます」

照れくさそうに微笑む佐伯さん。

その表情が、今でも鮮明に思い出せる。

男として、諦めなければならない笑顔。

「Have A Wonderful Time」

マグカップに刻まれたメッセージは、彼女らしい。

誰かの幸せを願う気持ちが、自然と溢れ出る人だから。

その優しさに触れるたび、この想いは深まるばかり。

それから3年。

佐伯さんは昨年、本社への異動が決まった。

送別会の日、彼女は私のデスクに立ち寄ってくれた。

「中村さん、まだあのマグカップ使ってますか？」

「はい、毎日です」

「良かった。気に入ってもらえて」

最後まで変わらない、優しい笑顔。

私の中で、何も変わっていない男としての想い。

けれど、それは永遠に届かない場所にある。

マグカップから立ち昇る湯気が、朝の光に溶けていく。

温かな飲み物が、少しずつ冷めていくように。

想いを持て余す男の心を、時間が少しずつ癒していく。

けれど、このマグカップは特別な存在のまま。

毎朝の儀式のように、カフェオーレを入れる。

一口飲むたびに、彼女の笑顔を思い出す。

それは甘く、そして苦い。男の切ない望みのように。

ときどき、本社の様子が気になって社内報を開く。

新しいプロジェクトのリーダーとして活躍する佐伯さんの写真を見つけると、

つい見入ってしまう。

相変わらずの凛とした佇まい。

きっと、周りの人たちを優しく導いているのだろう。

そこには、私の知らない彼女の姿がある。

「Have A Wonderful Time」

今日も、このメッセージに励まされる。

叶わない想いを抱える男として、前を向いて歩いていこう。

それが、彼女からの最後の贈り物なのかもしれない。

マグカップを洗い、丁寧に拭く。

明日も、また新しい一日が始まる。

温かい飲み物と共に、静かな朝を過ごすのだ。

独り身の男の、儀式のように。

佐伯さんは、きっと気付いていなかっただろう。

このマグカップに込められた、一人の男の想いに。

でも、それでいい。

日々の暮らしの中で、確かな存在感を放つこの品物。

それは、私だけの宝物として在り続ける。

「おはようございます」

毎朝、マグカップに語りかける。

返事は返ってこないけれど、

きっと今日も佐伯さんは家族の幸せを願いながら、

仕事に向かっているのだろう。

そう思うだけで、心が温かくなる。

世界には、男の心に秘められた想いがたくさんある。

でも、それを抱えながら生きていくことも、

人生の豊かさなのかもしれない。

カフェオーレを一口飲む。

今日も、いつもの味。

いつもの温かさ。

いつもの、届かない想い。

マグカップは、ただの道具じゃない。

男の切ない記憶を留める、大切な存在。

それは、永遠に変わることのない真実。

窓の外では、新しい朝が始まっている。

今日という日が、誰かにとって特別な一日になりますように。

Have A Wonderful Time.

そう願いながら、最後の一滴まで飲み干す。

明日も、また新しい朝が来る。

そして私は、このマグカップに想いを注ぎ続けるのだろう。

それは、誰にも気付かれない、男の静かな愛の形。

けれど、それこそが私の選んだ道。

マグカップを棚に戻す。

また明日。

いつものように、温かい飲み物を注ぎ入れよう。

それは、変わることのない日課。

そして、一人の男の、消えることのない想いの証。