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世界の終わり~プロローグとしての物語~

作者: 本地貴偲

 部屋の中には通奏低音のような空調の音と、それを動かすためのモーターの音だけが一定の音量で響いている。置かれている4つのベッドのうち、ワタシが座っているのを除いた3つのベッドの上には誰もいない。部屋と廊下を隔てた分厚いドアの向こうにだって誰もいない。その廊下から階段、ロビー、外に通じるドアの向こう、どこにも、誰ひとりいない。

 世界は明日終わるのだ。


 時刻は十一時五十九分。ワタシはノートパソコンのキーボードから手を離し、一週間前からそうしているように、壁に掛かった時計を見つめ、そしてカウントダウンを始める。

「十、九、八、七、六、五、四、三、二、一」

 長針と短針が一瞬重なり、再び離れ行く。ワタシはしばし瞬間の余韻に浸り、ベッドから立ち上がる。時計の下に掛かったカレンダーの、今しがた過ぎ去った日のマス目に赤インクで『×』をつける。次の日、つまり今日のマス目には『E』と記されている。ENDの『E』だ。今日世界が終わることを知った日にワタシが書いた。

 ワタシがその『E』に『×』をつけることは無い。次にカウントダウンをして、ワタシが「一」と言った次の瞬間に世界は終わるからだ。過ぎていない日付に『×』をつけるわけにはいかない。ワタシはそういうことについては律儀なほうなのだ。

世界が終わるとき、接続されていた全てのものは解除され、繋がりは絶たれる。ワタシは孤立した存在となり、何を記憶することも、何から認識されることも無くなる。だから『存在』という言葉自体当てはまらないのかもしれない。『零』でもないし『ブランク』でもない。きっとその状態を表す言葉はそのときまで無くて、そして、その言葉が生まれた瞬間に世界は消滅する。だからワタシがその言葉を知ることはない。


 ワタシはカレンダーの前で目を閉じ、しばしその言葉について空想する。いつものようにそのイメージはワタシを深い森の中へと誘い、体と大気の境界線を曖昧にしていく。末端から中心まで、体温は次第に下がっていき、感覚が失われていく。そして体が浮遊し、全てから許されていくような気持ちになる。その感覚はとても心地良いものだ。でも、境界線が完全に消えそうになると、耳の中で急に判別のつかない言葉のざわめきが始まり、ワタシは不安になって目を開く。

 そんなざわめきが、いつもと同じようにワタシの耳で飽和した。ワタシは怖くなって、いつものようにそこで目を開きかけた。でも、世界の終わりを明日に迎えた日、ワタシはふとその先が見たくなって、開きかけた瞼に懸命に力を入れ、必死で耐えた。ドキドキする胸を押さえつけ、荒くなっていく呼吸を感じながら、ざわめきを懸命に無視し続けていると、突然、前触れも無く睡魔が襲ってきた。まるで、そう、小春日和の中の退屈な授業中にやってくる、とろけるような眠気を直接脳に注射されたような感覚だった。想定外の出来事だったが、ワタシにとっては願ってもないことだ。これまでにあった痛みや苦しみを伴う孤独から解放され自由になれる。いっそのことこのまま、世界が終わる前に意識が途絶えてしまえばいい。甘い、甘いフェイドアウト。サヨナラ世界。


そんな蜜に溶け込むような時の流れを、突如、振動音が断ち切った。まるで脊髄を鷲掴みされたかのように、ワタシの意識は瞬時に覚醒し、周囲にあった甘い感覚は文字通り音を出して弾けた。音源は携帯電話だった。鳴るはずのない携帯電話。

 ベッドの横にひとつだけあるコンセントには充電器が差し込まれており、その先には懐かしささえ感じさせる携帯電話があった。そこにそれがあったことすら忘れていた。手に握っていた赤インクが床に落ち、カランという音をたてた。ワタシは、足元を確かめるようにベッドのところまで歩き、携帯電話を手にし、ゆっくりとそれを開いた。

 ディスプレイから溢れる光は眩しくて、ワタシは一瞬目を背けた。次第に目が慣れていくと、携帯電話が一通のメールを受信していることが分かった。ワタシは、誰かと繋がっていた。もう誰もいないと思っていたこの世界で。

そして、メールを開くと、そこにはワタシが求め続けていた名前があって、ワタシに向かって呼びかけていた。感情の流れより速く体が反応して、ワタシの目からは大粒の涙がとめどなく流れ出した。

「キミに会いたい。ボクはキミの世界を終わらせない。ボクは、まだ諦めていない」

 彼だ。ずっと、ずっと一緒にいた彼だ。ワタシの涙は止まらない。体中の水分に混じって、せき止めていた感情まで一緒に流れ出したように、嗚咽しながら泣いている。呼吸が止まってしまうのではないかと思うくらい、体も心も、激しく揺れている。部屋の中の止まっていた空気が、少しずつ、少しずつ動き出し、澱みが解けていく。まるで部屋自体が呼吸しているみたいだ。窓の外からも消え去っていたはずの『音』が聞こえる。

 あまりに急激な変化がもたらす『揺れ』は、ワタシの精神を不安定にし、恐怖を感じさせた。ガクガク震えて、指先から携帯電話を落としそうになった。自分が今、ひとりきりだという現実が怖くてたまらなくなった。でも返事をしなくてはいけない。これはワタシに与えられた最後のチャンスかもしれないのだ。震える指先でひとつずつボタンを押し、忘れかけていた単語を繋ぎ、何とか文章を作って、そして送信した。放たれたメールは行き先を探し、繋がり、飛び立った。ワタシから彼へのメッセージを乗せて。

「わたしもあなたにあいたい わたしはどうすればいいのかわからない わたしは こわい」

 壁にもたれ、木枠につかまりながらなんとかベッドに腰を下ろす。ワタシは待っている。彼からの返事を、意識を失いそうになりながら待っている。そして、握り締めていた携帯電話が再び震えた。

「生きたいと、強く願ってくれ。会いたいと、強く願ってくれ。痛みや苦しみを伴うとしても、たとえそこに可能性を感じることができなくても、強く、強く願ってくれ。ただ、それだけでいい」

 唇を噛みしめる。意識が飛びそうだ。さっきみたいな甘い感覚はない。ただ、意識が飛びそうだ。世界はもう終焉に向かっている。スピードを上げて、終焉に向かっている。でも意識は飛ばない。何者かが、意識をどこかへ飛ばそうとすると、目から流れる涙の温度と、激しく鼓動する心臓の音がそうさせない。体が言っている、生きろ、と。ワタシは過去に思いを馳せる。愛した人や憎んだ人のことを思い出す。そしてたどり着いた今と、まだ見ぬ未来のことを思う。痛みや苦しみの向こうに希望が見えて、ワタシに意思が芽生えた。

 

ワタシは、生きたい。アナタに、会いたい。


 ゴウッ、と窓の外で風が吼えた。純粋な闇はその風のせいで濁り、遠く空の彼方を光が傷つける。滑らかだった時の流れにブレーキをかけ、混沌を起こそうとしているのは、間違いなくワタシの意思だ。何者かが語りかける。

「何故に不確かな未来を選ぶのか。お前が行こうとしている場所は未来ですらないのかもしれないというのに」

 汗ばんだ手で携帯電話とベッドのシーツを握りしめながらワタシは応える。

「自分で選び、たどり着いた場所がワタシの未来だから。たとえそこが間違った場所だとしても、ワタシにとっての未来はそこにしかないから。ワタシが自分で決めたとき、初めてワタシの未来が生まれるから。ワタシは、ワタシはまだ愛することを失いたくないから」

 いつの間にか部屋は真っ赤に染まっている。上下左右に揺れ、壁にかかっていた時計もカレンダーも床に落ち、ベッドとベッドがぶつかり合う。それでもワタシは思うのをやめない。ワタシは、愛するために生きたい。

 もう一度窓の外でゴウッと吠えた風が、散らばっていた音をさらって吹き飛ばし、そして静寂が戻った。胸の鼓動は静かなビートを刻んでいた。まるで遠い昔に聴いたワルツのようだ。溢れ出していた涙が止まり、流れるのを忘れていた一滴が、少しだけ遅れて、最後に右の頬と左の頬を伝った。

 窓の外は濁った色をしていて、壁や床はドス黒く染まり、錆付いてしまった最果ての地にある工場を思わせる。そんな外から遮断された部屋。ここがワタシの居場所なんだ。荒廃し、時の流れさえ固まりかけたこの部屋で、ワタシはもう自分から目を背けない。ワタシの意思が、ワタシの希望だ。

 もうすぐ彼が迎えに来る。二度と開くことが無いと思っていた、あのドアを優しくノックして、彼はこう言うだろう。

「さぁ、一緒に行こう。未来が待っている」

 ワタシはベッドから立ち上がり、胸の前で手を合わせ、終わりへと向かいつつある世界のために祈った。愛するもの、憎むもの、全てのために祈った。細胞が、ワタシの細胞が歓喜する声が聞こえる。その声の中、ワタシは手を高々と上げ、運命に対して逆転サヨナラを誓った。

 風がゴウッと響く。決戦の時は近い。

近日公開「マイドナーデイズ」をお楽しみに

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