この『同期』は実行できません
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予期せぬエラーが発生しました。
エラーが発生したため、処理を中断します。
[ O K ]
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「お疲れさんです」
各務堂は、コピー機の前に立つ女性に声を掛けた。規則正しく印刷物が排出されているため、それが終わるまでの短い暇つぶしだった。
だから大した返事は期待していなかったものの、反応がない。
こちらの声が届いてないのか、女性は心ここにあらずといった表情で、どこか遠くを見ていた。
「お疲れさんです、蔡原さん」
「…………あっ、すみません。もう少しで終わります。お待たせしてすみません」
蔡原流唯は二回謝ると、排出途中の印刷物をまとめ始めた。
肩まで伸びるブラウンの髪を後ろでひとつに結び、パンツスーツスタイルがよく似合う女性だ。この部署でも優秀な営業であり、頼りにする先輩でもあった。
「金曜の飲み会欠席組同士、声を掛けただけです。俺も不参加だったので仲間だと思って」
肩をすくめておどけて見せると、蔡原は慌てる手を止めた。
金曜の諒馬との飲み会の後、土日を挟んでひとりになってみたが、渦巻く暗い気持ちがずっと胸の中を占めている。
「そういえば、今回各務堂くんも欠席だったんだっけ。――プライベートを優先したとか」
「えぇ、まぁ。……空気の読めなさとでも言うんですかね。金曜出なかったことをイジられ過ぎて、息抜き出来る相手を探してたところだったんです」
半分以下の事実を誇張し、どうしようもない気持ちを覆い隠した。
相談相手が欲しかった訳ではない。
ただ、あの日の現実から遠ざけてくれるものが、今は欲しかった。
諒馬と別れてからずっと、覚めることのできない淡い悪夢の中にいるようだ。
溶け合うことのない現実と夢想が、カップの底に残る澱のようだ。熱で溶け合うことを拒み、空になっても居残り続ける意固地な塊が、居心地の悪い日常を染めている。
「今朝イジられてたね――。本当のところはデートだったんだ?」
「はー、自慢出来るような話題でなくてすんません。ただの友人です。本当の本当に」
「なら、そう言うことにしておきましょう。各務堂くんは春かぁ。楽しそうでいいなぁ」
「今の話聞いてました? 俺を勝手に春にしないで下さい」
スリープモードが解除されたかのように、蔡原と小気味の良い会話が続く。
普段の彼女は明るく快活だ。
だから先ほどのように我を忘れ、この場を去ろうとしたことが少し気になった。
「お疲れみたいですけど、週末はお忙しかったんですか? 高祐に家のこと任せて、蔡原さんも自分の時間を取ったりして下さいよー」
「…………各務堂くんって高祐の同期だっけ」
「えぇ、同期入社です。最近は会ってませんけど、昔はよく一緒に旅行にも行ってましたよ。話したことはなかったでしたっけ?」
蔡原高祐――、蔡原流唯の配偶者であり、同い年で新人研修の際に親しくなった同期だ。同じ部署になったことはないものの、同じ会社に所属する者としてよく飲みに行っていた同期だ。
「お二人の結婚式にも呼んでくれたじゃないですか。お子さんも今いくつでしたっけ」
「――そういえば、出し物に参加してたっけ。ミニスカ履いてメイクまでして、全力でダンスしてたのに忘れてるだなんて。ごめんなさいね」
「そういう思い出し方はしなくていいんですよ……。若さと勢いでやっただけの出し物なんで……」
当時、流行りのダンスを業後に練習していたら、高祐に見つかり恥じらいが残ってるなど余計なアドバイスを貰った。――本人がいなくなったあと、みんなで見返してやろうと半ばヤケクソの産物だった。
当時はやり切った感でいっぱいだったが、過ぎてみればあまりの馬鹿馬鹿しさに誰も口に上げなくなって久しい。
上品に笑う中に、当時の新婦だった蔡原流唯の顔が見えた。
彼女とは二年前、今の支部で再会した。高祐の二個上で、各務堂の先輩にも当たる人物でもあるが、仕事で一緒になったのは初めてでもあった。
二人は社内で人伝に知り合ったそうだ。
はたから見れば社内恋愛だが、部署も場所も違うため、休みに会っていたと高祐が話をしていたか。――何年も前の話だが、過去の話をする機会もなくここまで来てしまったので、思い出と合間ってむず痒さが襲う。
蔡原もきっと、日々の忙しさにそんな過去を思い出す事もなかったのだろう。仕事モードではない、気安さが笑顔に現れた。
「――うちの子、来年小学校に上がるわ。読み書きは出来るんだけど、算数だけは苦手みたい。なかなか引き算が理解できないみたいなのよね」
「へぇ――、もう勉強を教えているんですか」
「えぇ。だって小学校に入ってから、周りに置いていかれたら可哀想でしょ? ――英会話にスイミング、サッカーに塾にも通わせているけれど、学ぶことも身体を動かすことも楽しいみたい」
「はー、今の子は忙しいですね」
普段も仕事の合間に雑談する程度の仲で、尋ねてからまた同じ話を何度かしたと気付く。他にも子持ちはいるので、同じ質問をまた投げかけてしまったことについて許されたい。
そんな気持ちに気付かないでいてくれるのか、蔡原は快く雑談を続けてくれた。
「向こうの両親がそばにいるから、子どものことはほぼ任せっきりよ。――――ずっと義両親がつきっきりだから、一体誰の子かたまに分からなくなる時があるわ」
「この仕事、朝は早くて夜は遅いですもんね。蔡原さんもお子さんも寂しがったりしないんですか?」
「どうだろう。休みの日は家族の時間を取ってはいるけれど、向こうの両親が甘やかしてるからか、私たちよりじじばばといる方が楽しいみたい」
「それは蔡原さんの方が寂しくなるやつですね……」
「自分で世話していないからかしらね。あまり可愛いと思えないんだ。――自分の子どもなのに」
「そう、なんですか。……まぁ、小さい頃はお世話するのも大変ですもんね」
肩をすくめ軽い言葉で言われるものの、なんて返せばいいか分からず当たり障りない言葉を返す。
まだ終わらないようで、印刷機はずっと同じリズムでインクを紙に乗せ排出している。出来立ての印刷物に宿る熱気が、二人の間に漂っている。
「ねぇ、各務堂くんから見て、高祐ってどういうイメージ? 昔から変わらないのかしら」
「……イメージですか? 明るくて誰にでも好かれるタイプ、って感じですかね。リーダーシップ取るのも上手いし、場を和ませるのも上手ですし」
しばらく会っていない同期を思い出す。――出会った頃から誰彼構わずコミュニケーションが取れ、周りからも慕われる高祐。美人で仕事もできる奥さんに子どもにも恵まれ、完璧で理想的な家庭を築いていたイメージがずっとあった。
だから積極的に連絡しなかった。自分に欠けたものを持つ同期に、つまらない感傷を持ちたくなかった気持ちもあったからだ。
「あはは、そうなんだー。人懐っこいところもあるし、頼り甲斐ある見た目しているもんね。そっか、――――各務堂くんでさえそう思うよね、そうだよね」
一人納得すると、蔡原は吹っ切れたように見えた。
「もしかして、ケンカでもしたんですか?」
「あはは、ケンカにもならないことばかりよ。自分は飲み会に行くけど、私が参加すると不機嫌になったり、自分より先に家に帰って家のことを全部やっておけだとか、食事は手作りがいいだとかいちいち注文つけてくるの。――そんな毎日よ」
「……はは、もしかして甘えてるんですかねぇ」
仕事で上手くいかない時に相談に乗ってれて、相手の理不尽に怒りを見せるなど共感を示してくれた同期だ。
不機嫌な姿など見たことない。だから同僚の話が想像つかなかった。
「携わる仕事が違うから給料が違うのも、昇進出来る環境も待遇も違うのに、能力不足なんだからって馬鹿にされたり。――そういう不当なことする人じゃないと思ってたんだ。私が家のものになったら、他人って境界をなくすなんて不思議」
蔡原流唯はそう言うと、凛とした顔をこちらに向けた。
「各務堂くんもそういうタイプ? 私には、分からなかったの。こんなにもいい人が居るなんてって結婚するまでは思っていたのに、最近は毎日消えてくれって願ってしまう。――子どもも高祐に似ているし、なによりあの両親がまた育ててる。……最初は引きはなそうと思ったけど、三対一じゃあね。家に私に居場所も勝ち目もなくなってしまったわ」
「高祐が――――?」
言葉に力はなく、ぽろぽろと吐き出されたように聞こえた。だけど、もうすぐで終わりそうな印刷機の画面を見る彼女は、これから決定的な商談にでも向かうような腹の座った表情をしている。
今の話は本当なのだろうか。
言葉と見せる態度が違いすぎて、誰の何を信じたらいいのか分からない。
結婚式でも幸せそうに笑い、彼女を幸せにすると多くの人の前で宣言し、信仰する訳でもない厳かな教会の中で誓いを立てていた二人の姿を思い出す。
「……そんな、道理の通らないことをするようなヤツじゃ……。その――、何か誤解があったりしないですか?」
「誤解かぁ。……ごめんね、余計なことを言って。私が間違えてなかったって確かめてみたくなっただけなの。きっと高祐だって何も『間違ってない』のよ。伝えても理解出来ないし、譲歩する場所も見つからないんだもの」
擦りむく傷口を誤魔化すように、微笑みを向けられた。
「高祐を知ってる人に聴いてみたかったの。……今の仕事は楽しいし、『今』を変えるつもりもないわ。――――高祐のせいで私が仕事を変えるとか、我慢ならないもの」
ふぅ、と蔡原が深く息をつくと、快活で頼もしい先輩の顔に変わる。
「各務堂くんも、私はいい人だって思ってる。周りに好かれているし、新人にも優しいからね」
「……そんなの、どれも当たり前のことですよ」
学生の頃の二歳差は大きく感じたものだが、社会に出てからの年齢差など微々たるものだ。先輩後輩などという上下関係があっても、学生の頃とは違って誰もが一進一退の日々を送ってるに過ぎない。――――当たり前のことを今更気付いては、それが自分であり他人であると確かめ合うものではないのだろうか。
「その『当たり前』が出来るって大切なことよ。社会で見せる顔と、プライベートで見せる顔が違うなんてのもよくあるわ。だから仕方ないのだけど、……どうして私だったんだろう」
ふっと遠くに向ける視線が儚くなる。
「私も高祐を選んだけど、彼はなんで赤の他人である私と結婚したのかしらね。支配欲? 承認欲求? 私ならなんでも受け止めてくれるとでも思ったのかしら」
「――――蔡原さん」
「一度口を出ると止まらなくなっちゃうね。私の愚痴はこれでおしまい」
静かになる印刷機から、出来立ての印刷物を取り出すと、トントンと書類の角を合わせていく。
「後でコーヒー奢ってあげるから、今した話は内緒ね」
「そんなことしなくていいですよ。誰にも言いませんって」
「家庭の愚痴なんて面白くないじゃない。付き合わせたお詫びよ」
ウィンクと共に、蔡原はこの場を後にした。
遣る瀬無い気持ちをもうひとつ抱えながら、印刷機に飛ばしたデータを出力する。
どこかへ行きたいと願う人がいる一方、誰かから消えて欲しいと願われる人がいる。
無機質に排出された熱っぽい紙を手に取った。
真っ白な紙に黒の粉状のトナーが、静電気と熱によって白紙に意味を持たせるが、今は内容が頭に入って来なかった。
よく知る内容なのに、文字を追う目は滑る。
高祐のことを思い出してみるが、どんな顔をしていたのかぼんやりとしか思い出せなくなっていた。気配りが出来、一緒にいて楽しい奴のはずだった。同期数名で行った旅行も、揉め事もなく楽しい思い出が残っていたはず。
だというのに今は何ひとつ、確かな記憶として思い出すことが出来ない。――――一体、どんな奴だっただろうか。
自席に戻ると、缶コーヒーが机に置かれた。
「これからアポイント? 頑張ってね各務堂くん」
頼もしい同僚の顔をした蔡原が、励ましの言葉と共に颯爽と去っていく。
さっきの話なんてなかったかのように、快活な先輩として同僚たちの輪に戻って行った。