"生きる"目的を失った私のための言葉
本文は、フリードリヒ・ニーチェの名著『ツァラトゥストラ』の解釈です。拙い文章ですが、必要な人に届いてニーチェの思想に興味をもってもらえればうれしいです。
私は、ある日突然"生きる"目的を見失った。何があったとか、そういう事ではない。ある日急に"生きる"目的を見失い、世の中が窮屈に感じ始めたのだ。そんな自分の事が嫌いになり、気づいたら動けなくなっていた。それから半年を何もできずに過ごしてしまった私は、病院へ連れていかれたのであった。
精神的に沈んでしまった私はある人物に出会った。フリードリヒ・ニーチェである。彼の著書に「ツァラトゥストラ」というものがある。それは彼が生前、発狂する前に書き上げた名著である。それに出会った私の精神は急速に救われた感覚がした。それはなぜなのか、私が忘れないために書き残そうと思う。
「ツァラトゥストラ」の根幹にあるものは、"超人思想"と"永遠回帰"である。超人思想とは、端的に言えば、「人間は超人になるべく努力すべきだ」という考えである。ここだけ聞くと、とても怪しく聞こえるがそうではない。"超人"のイメージとは何なのか残しておこう。それは、「不屈の精神力と意志を持ち、自身の人生そのものを肯定しながら、より高みへ向かおうとする存在」である。これはイメージであり、絶対的な回答ではない事を補足しておこう。これはニーチェの思想に由来しており、彼の思想に「絶対的な存在はあり得ない」というものがあるからである。それ故に「神は死んだ」という有名な言葉が生まれたのである。
では、超人へ向かうために必要な事は何なのであろうか。これには3つのステップを経る必要があるとニーチェは語っている。始めに、ラクダの段階と表現される段階だ。これは自身に積極的に負荷をかけ、ジッと我慢する段階で、これは自分の強みを獲得するために存在する。例えば、学校での勉強、職場での仕事等である。次に、獅子の段階と表現される段階だ。これは窮屈な状態から解放され、自由を求める者が進む段階である。既存の価値観、常識、権威等に対してハッキリと自分の意志で「NO」と言える独立の精神を持った段階である。最後に、幼子の段階と表現される段階である。これは、自分の意志に身を委ね、自由気ままに遊ぶ幼子のような無邪気な精神である。大人がどれだけ世の中の理不尽さを嘆いても幼子には関係なく、彼ら彼女らにとって、世界は無条件に肯定されるものであり、心のままに戯れ、自由にこの瞬間を生きている。つまり"超人"とは3つのプロセスを経て、幼子のような精神をその身に宿す者だと解釈できる。
それでは、"永遠回帰"とは何なのであろうか。これは「すべての人間は同じ人生を何度もループしている」という仮説である。これは仮設であり、事実かどうかは重要ではない。また、仏教の輪廻思想とは別物であることに留意したい。ニーチェは、この"永遠回帰"こそが人間にとっての最大の重しであると表現している。どんなに幸せな人間でも失敗の1つや2つあるだろう。たとえ記憶が消されたとしても、それを永遠にループすることは嫌だろうとニーチェは言っているのだ。しかし、前述からこの重しは人間にとっての最大の武器でもあると解釈できる。これを考えると、永遠にネガティブで鬱屈とした人生か、永遠にポジティブで肯定的な人生かという極端な2択が目の前に現れる。どちらを選んでも良いが、もし後者を選びたいのであれば、永遠に繰り返しても良いと思えるような人生にするべく前を向いて生きていくしかなくなるのだ。つまり"永遠回帰"とは、人生を肯定的に力強く生きていくための思考法として利用できるのである。ではこの思考を受け入れるためにはどうすればよいのだろうか。それは「ニヒリズム」を克服することが重要である。ニヒリズムとは、「生きている目的がなく、人生をネガティブに捉え足踏みしている状態」と捉えると良いだろう。ニヒリズムの克服とは、弱い自分を噛み殺し、新たな自分に生まれ変わる覚悟を決め、自身の全生涯を肯定することであると言えるだろう。これは決して楽な道ではないが、これができれば自身の今を肯定し、過去を肯定し、未来を肯定して生きていく事ができるのである。そして死後も、その肯定的な人生を繰り返すと考えれば悪くないのかもしれない。この"永遠回帰"の思想を完全に受け入れ実践できたものが"超人"だと言う事もできるのではないだろうか。
このニーチェの残した思想は、綺麗事のように見えるかもしれないが、思考法を変えるだけで人生というものは様々な角度から解釈できると考えられる。これにより私の人生観というものは「人生の目的という絶対的なものなど存在せず、自身の思考により人生は何度でも舵を切れる」というものに変わった。もし、今後ニヒリズムに陥りそうになった時は、この文章を「自身を生きるための薪」として活用するのだ。