132二人の葵―ご主人様
バランタインに活気が戻った。
今は夜。あの絶魔終滅魔術による、禍々しいまでの赤黒い空は完全になくなり、空には三日月が浮かび、星空が輝く。浜辺には波の音、街から聞こえる音楽や人々が談笑する声がこだましている。
何も変哲のないいつもの日常。それが訪れた。
宿屋ブルーのご主人様はその様子を見ていた。いつもであれば、ここで自分の黒焦げになった変わり果てた姿を見ていたのだ。何度も、何度も何度も。それが、いま、生き残った。今まで見たことのない新たな歴史の始まりを見ることになる。
なんというか、あっけない。これほどまでにあっけなくて良いのだろうか。
今までどれだけ苦労したというのか。それが、あの天音と謎のおじさんだけで片付いてしまった。
だが、いいのだ。これで。
だって、これで、竜真が時間遡行魔術を使うことはなくなるのだから。
竜真と葵は二人、ガーデンを抜け出しあと、宿屋ブルーを通り過ぎ、バランタインの海辺に逃げ出して、浜辺を歩いていた。パーティから抜け出したままなので、竜真はタキシード、葵はスカートの破れたドレス姿のままだ。
二人は、そこで手をつなぎ、歩いていた。
宿屋ブルーのご主人様の苦労など何も知らず。
だが、それでいい。
その様子を宿屋ブルーのご主人様は見て思う。これで竜真は、時間遡行の魔術を使うことはない。
竜真と葵は、これまでの繰り返された歴史のループのことなど、つゆ知らず、今、竜真と葵は手を取り合った。そして、生き残ったこと分かち合うように抱き合った。
うん、それでいい。
これで、竜真は竜真の全人生をあたしのために割かなくてもよくなる。
きっと、二人はこのまま幸せに過ごすのだろう。
これまでの歴史のループであれば、今から約百年後の竜真が寿命を全うするまで、竜真は残りの人生における時間の全てを時間遡行魔術の習得に時間を費やしていた。だが、ようやく、この呪縛からも解放されるだろう。
二人は幸せに過ごすのだろう。
もしかしたら、子供が出来て、幸せにあふれた家族ができるのだろう。
そのまま、年をとり、そのまま二人で円満な家族生活を過ごすのだろう。
その様子がまるで現実に起きているかのようにご主人様の脳内に描写された。
ここまでに達するのに、とてつもない時間を要した。
だが、これでいいのだ。
ようやく自分の願いがかなった。
竜真が苦しみから解放された。竜真が幸せになってくれた。
これ以上に望むものがあるだろうか。もう、自分に望むものはないはずだ。
ご主人様は静かに目を閉じる。うっすらと頬に一筋の涙が流れる。
長い時間がかかった。時間はかかったが、唯一の願いが叶ったのだ。
さぁ、帰ろう。あたしは二人の邪魔をするものではない。
宿屋ブルーのご主人様は踵を返えす。
一歩。また一歩。ゆっくり進み街へと戻ろうとする。涙が止まらない。涙のせいで、真っすぐに見えない。強気のご主人様は、涙を見せないように上を向いて歩く。「うっ」、嗚咽がこぼれる。
これでいいんだ。
そう、これで、いいはずなんだ、と自分に言い聞かせる。自分の唯一の願い、竜真に幸せになってほしいという願いは叶ったのだから。
道を進みながらも、気が付けば、流す涙もなくなっていた。これでいい。これで二人は幸せになれる。
宿屋ブルーのご主人様は、ゆっくりとした足取りで、宿屋ブルーへと戻ろうとした。
海辺から宿屋ブルーまでは一本道、真っ直ぐ帰れば、時間はかからない。
けど、少し遠回りをしたかった。道を外れ、眺めのいいところで、足を止める。ここは高台にある。
バランタインの美しい夜景が見える。美しい夜景を見ながら、ゆっくりと、ゆっくりと、宿屋ブルーへと戻った。
今は誰とも顔を合わせたくない。
タリスカーにも、誰も合わせるなと言いつけておこうと思いながら、気づけば、宿屋ブルーのそばの広場にまで戻っていた。広場からもバランタインの夜景が見える。復活したバランタインは、街から音楽が聞こえ、活気が戻ったようだ。夜景が美しく、心地よい風がそそぐ。
さて、自分の店に戻ろうと、振り向いたときであった。
目の前に竜真がいた。
(えっ?)
心臓が大きくドクンと波打った。
(なぜ?)
ご主人様からすれば、先ほど幸せになった竜真を、葵と二人で手を繋ぎ、歩く二人を看取ったのだ。
もう、自分の願いは叶った。これ以上望むものはない。だから、もう竜真とも、ただの他人という関係のはずなのだ。
再び、心臓が大きくドクンと波打った。
(どうして?)
なのに、それなのに、そうだというはずだというのに、ご主人様は、竜真の姿を正面に見た瞬間、急にのどの奥が熱くなる。だが、思いっきり我慢し、それを押し切る。
「竜真、こんなところで、何をしている。お前にはやることだがあるだろ。」
「あぁ、やることがある。だから、ここに来た。」
ご主人様は、平然として喋った。だが、何かが今にもこぼれそうだった。
だが、それをこぼれないようにしながらも、話を続ける。
「ここって、ここじゃないだろ。行ってやれ。あの娘のところに。」
「いや、ここだ。あなたに会いたかった。その、あなたに感謝したい、というか・・・その・・・『葵』なんだろ?」
ご主人様の喉元の奥で、何か熱いものがはじけ飛んだ。
だが、こぼれ落ちそうなものを寸前で止める。
「な、何を意味の、わ、分からないことを・・・。」
「もう、いいんだ。今まで何度も何度も、何度も、俺のことを助けてくれて、ありがとう。何度も、何度も何度も、こんなにも長い間、助けてくれてありがとう。そして、気づけなくて、ごめん。葵、もう、いいんだ。」
そして、ついに、寸前のところで止めていたものが崩れ落ちた。
突然、目から涙が止まらなくなった。鼻水も止まらなくなった。
葵の中で何かが崩壊し、今までせき止めていたものがどっと流れ込む。
「な、な、ヴぁ、ヴぁ二ヴぉ、じってるのよ。ばたしヴぁ、ここのてんじゅよ」
(な、何を言ってるのよ。あたしはここの店主よ。)
声がまともに出ない。
「葵・・・。もう、いいんだ。もう、我慢しないでいいんだ。」
竜真が近づき、葵を抱きしめた。
その瞬間に、葵の中ですべてが崩壊した。
泣いた。泣いた。びっくりするぐらい泣いた。涙が止まらない。
「ばたし、ぼう、ごんな、おばあじゃんだよ。」(あたし、もう、こんなおばあちゃんだよ。)
「葵は葵だ。それに熟女もありだ。」
「ばたし、もう、じらがだらけで、じわわじわだよ。」(あたし、もう、白髪だらけで、皺皺だよ。)
「白髪も、皺も美しい。」
「ぶっ、馬鹿ッ」
泣きながら、竜真を叩く。
久しぶりに笑った。泣きながらだけど笑った。こんなに笑ったのは何年ぶりだろうか。
葵は、しばらく、竜真の胸の中で泣き続けた。
竜真は、突如、葵の肩を掴み、葵の真正面に立つ。もう、葵の顔は涙でぐしゃぐしゃになっている。
「葵。今までごめん。だけど、その分、俺は、葵、お前をずっと、ずっとずっと幸せにしたい。」
もう、涙で顔がぐしゃぐしゃのはずなのに、涙が滝のように出た。
もう、涙を止めることはできない。竜真の体に顔をうずめ、必死に涙を隠した。
こんなにうれしいことがあるだろうか。歴史がいつものループから抜け出すことが出来た。竜真と葵が手をつないだ出歩いていた。それで、竜真が時間遡行魔術を使う可能性はなくなり、この時代の葵と結ばれた。
それだけでも、十分な報酬だった。
だというのに、あ今日はなんて日なんだ。
こんなに嬉しいことがあっていいのだろうか。人生において、最高の瞬間、と表現すべきなのだろうか。
「ジュうま、あリガト。」
(竜真、ありがと。)
竜真は、ずっと懐に持っていた、青い花柄の髪飾りを取り出し、葵の髪にそれをそえた。
「えっ」
「忘れものだ。」
そのまま、二人は、広場の芝生に腰を下ろし、葵は竜真の体に顔をうずめながら、寝そべった。
今は、夜である。空は雲一つない快晴であり、満点の星空が広がっている。
ここは、花と音楽と華の街、バランタイン。広場にも花は咲き、街から音楽が聞こえてくる。人々は歌い、喜んでいるのだろう。華やか歌声や人々の話し声がこの広場にまで聞こえた。
竜真は懐からミカンを取り出した。霞が渡してくれたものだ。
「好きだろ。食べるか?」
「何言ってるの、こんなときに、馬鹿。でも、うん、もらうわ。」