106花と音楽と華の街、バランタイン
例の事件から七十一日目。
間もなく、日の出の時刻となる。
山のふもとに佇んでいた男は、ようやく立ち上がった。食事も一切取らず、久しぶりに体を動かしたので、よろめいた。
体はがりがりに痩せ細っていた。
男は、この世界を見渡す。
白と黒のモノトーンの世界に見えた世界は、東の空は赤く染まり、そこからグラデーションのように天頂には青い空、西の空は濃紺となり、赤色と黄色の星々が輝く。
いつの間にか、世界は色に溢れていた。
脇に置かれていた橙色の果実を手に取る。
よく見れば、それはミカンとは違う果実のようだ。
男はその果実を手にとりながら、「ふっ」と小さく微笑んだ。
その果実をミカンをだと思い、大切なことを思い出したというのに、よく見れば、ミカンですらなかったのだから。
男はその橙色の果実を手に取り、一口かぶりついた。
男は、自分がそれまで佇んでいたすぐ隣を見る。そこには、黒い灰が人型のように残っていた。
その灰の中に、 青い花柄の髪飾りを見つけ手に取った。大切な人が身につけていた形見だ。
それを大事にしまう。
ふと、もう一つ、黒い灰に紛れている物に気づいた。
それは本のようであった。
男が本を取り、パラパラとめくると、それは魔導書であることがわかる。
かなり古びたその本は、おそらくは禁書庫にあった物だろう。
本の中に、いくつかページが折れている個所がある。
一つは、錬金術に関する魔術、なるほど、気になる魔術に印をつけたのだろう。
錬金術か・・・錬金術のページが折れているのを見て、再び「ふっ」と小さく微笑んだ。
いかにも彼女らしい。
もう一つ、折ってあるページがあるので、そのページを見る。
そのページは時間遡行魔術が記載されていた。男がそのページを見た瞬間に、まるで、体中が稲妻が走るような感触を得た。
男はそのページをみて、すぐに、直感で、この悲劇を時間遡行で回避できる、と思い立った。
まるで、暗闇の中で、一縷の光を得たかのような感覚、すぐにでも試してみたいが、男にはその能力はない。
男は、もっと知りたい、と考えた。もっと情報があれば、何かわかるかもしれないと。
そして、思い立つ。
かつて、ガーデンにあった魔導図書館、その禁書庫に行けば、何か情報があるかもしれないと。
その衝動は男を駆り立てるための希望となる。
男の前には小さな広場があった。
最初は数人集まれる程度の小さな広場が、いつの間にか、瓦礫が撤去され、綺麗に清掃され、広く大きな広場となっている。
やがて、その広場から一人の老人がやってきた。
「おい、あんた、もういいのか。」
どうやら、その老人が、佇むだけの男に食事を毎度置いて行ったようだ。
「いろいろと、お世話になりました。感謝します。」
「おぉ、急にどうしたのだ。今まで死んだようにまったく動かなったというのに。」
「ふと、やるべきことを思い出したのです。」
老人は男の目を見た。そして、その男の目が死んだ目ではなく、希望に溢れる目になっていることに気づく。
男は、頭を下げ、先を急ごうとするも、久しぶりに動いたのか、よろめく。
「まぁ、待ちなさいな。何を思い出したのかは、知らぬが、希望があるというのは良いことだ。飯くらい食べてから行きなさいな。今作ってやるからな。」
そう言って、広場のたき火で、鍋に何かを入れてグツグツと煮始めた。
そうしている間にも、広場に張られたテントからは、また一人、また一人と人が出てき始めた。
そして、皆が、いつも佇んでいるだけの男が、突如立ち上がり、希望に溢れる様子になったことに驚くのだ。
老人は、この広場の中心人物なのだろう。ある程度人が集まると、皆に声をかけた。
「今日は、なんと素晴らしい日だろうか。山のふもとで寝ているだけの男も、元気になってくれた。生き延びた人が少ないが、みんな希望を持ってくれた。見よ。この風景を。」
ここは、元々高台にあり、街を見下ろせる。そこに以前の町並みはない。
今は、青空が広がり、彼方に青い水平線がくっきりと見える。
瓦礫ばかりの街の中に、他にも同じような広場がいくつも見えて、人々が集まっている様子がみえた。
瓦礫は灰色のモノトーンであるが、広場には色とりどりのテントが張られ、人々は活気づいている。
老人は鍋をもって男に再び近づく。
「今日は祝いだ。食え。皆、この厄災で多くの者が家族を亡くした、子供を亡くした、大切な人を亡くした。だが、皆、復興しようと前向きに生きている。お主も前を向いて生きるんじゃ。」
未だ、バランタインは、瓦礫の山が数多くある。
だが、広場には生き残った者たちが集まり、ボロボロになった楽器を手にする。
音はまだめちゃくちゃでも、楽しく旋律を奏でる。
ひどい音だが、何ともポップな音楽。朝だというのに、皆、音楽を楽しみ、踊っている。
男は老人から鍋をもらい、食事をとる。
もう、男は絶望などしてなかった。むしろ、魔導書に書かれた時間遡行魔術、それさえ実現できれば、この厄災を、悲劇を、回避できるとしか、男は考えてなかった。
「じいさん、いろいろとありがとうございます。」
「そうか、何を思い出したのか知らんが、行くのか。気をつけてな。」
男は立ちは再び立ち上がる。その地面には草が生えており、小さな花を咲かせていた。
小さな草ではあるが、花は咲き、音の調律はめちゃくちゃだが音楽が流れ、人々はボロボロの服ではあるが、楽しそうにたき火の周りで華やかに踊るのだ。
もう、この街に絶望はない。
そう、ここは、花と音楽と華の街、バランタイン。
ここまでいかがでしょうか。
絶望編はこれで終わりとなります。
次回からは時間遡行編です。魔術の使えない竜真が時間を取り戻そうと努力する姿、そして、時間遡行の思わぬ落とし穴を描きます。