小さな親切、大きなお世話
あなたは誰かの役に立ったことがあるだろうか?
例えば僕は否だと思う。
思い出して欲しい。
電車でお年寄りに席を譲った人がいるだろう。
友人の相談に乗って感謝された人が居るだろう。
それらは果たして本当に役に立ったと言えるだろうか?
お年寄りは座らずとも目的地に辿り着くことは出来ただろうし、その友人はきっと別の方法で行動の指針を固めただろう。
僕は常々、本当の意味で──例えば人生を左右するような大事で──人の役に立ちたいと思っていた。
今日も、彼女はアザを作ってきた。
そのことについて僕が訊ねると彼女はいつものように言葉を濁してただ笑った。彼女の、その取り繕うような表情が僕は嫌いだった。
僕と彼女はいわゆる出会い系サイトを通じて知り合った。数回会って酒と互いの愚痴を呑み込むうちに僕は彼女を知り、そのうち愛するようになった。
彼女もまた僕を受け入れた。ただ彼女は既婚者だ。そして夫からDVを受けていた。彼女は自分からそれを明かさなかったが容易に察しがついた。
「そいつを殺してあげようか?」
僕はベッドに横たわる彼女の耳元で囁くように言った。
彼女は無言で目を伏せて眠った振りをしていた。
僕は気付かれないように彼女のバックに盗聴機を忍ばせた。それがDVの詳細を聴かせてくれた。
もう間違いない。そいつを殺そう。
新しいナイフを買った。刃渡りの大きい登山ナイフだ。
その夜、彼女の携帯電話を見た。データフォルダにある写真を探し出してそいつの顔を確認する。彼女の愚痴に出たことから僕はそいつの帰宅する時間が夜中の2時前後であることを知っていた。彼女を抱いたあとに僕はそのあとを尾行した。僕のアパートからそう遠くない、そう閑静と言える住宅街に彼女は住んでいた。僕は怪しまれないように住所だけを確認するとすぐに立ち去った。
僕は何週間に一度か散歩を装い、2時頃にそこを一度だけ往復した。そして毎回その奥にあるコンビニに寄って何か買い物をして帰ってきた。彼女の夫とは何度かスレ違ったが、僕は確実に殺れる機を待った。
その晩は運がよかった。一瞬だった。コンビニの帰り、僕はそいつの背中側から喉を貫いた。心臓や頭でなかったのは声を出させないためだ。ナイフを引き抜くと血が飛び散った。返り血を浴びたが幸い帰り道では誰ともすれ違わなかった。
僕は風呂に入り缶ビールを一本だけ空けて、寝た。
全てが噛み合った夜だった。否、そういう夜を僕はずっと待ったのだ。
目撃者は居ない。凶器は布を被せた上から金槌で粉々に砕いてトイレに流した。返り血を浴びた服は洗濯して簡単に血を流してから切り刻んで、少しずつゴミに出した。
彼女に会った。もう夫の目を気にする必要はないから堂々と僕の部屋で。新しいアザが増えることをもうない。だけど彼女はどこかやつれた様子だった。
何かが、変だ。
僕は警察に捕まった。理由がわからない。いきなり令状を突きつけられ家宅捜索が入った。だけど僕のアパートには何一つ証拠は残っていない、はずだった。
渇いた、血だらけの手袋が見つかった。
そんなはずはなかった。なぜなら僕は手袋を使わなかったからだ。
あぁ そうか。僕は理解した。
裏切られたのだ。
──私は彼に目をつけていた。
「そいつを殺してあげようか?」 そう囁いた彼の口調はどこか幻のようで、それでいて彼が本気で言っていることを確信させる何かがあった。
私がそんな男を探して何人もの男と夜を共にしたことを彼は知るよしもないだろう。
それからの彼は、狡猾で周到で悪魔じみていた。私はもっと簡単に彼が警察に捕まると思っていたのだが、警察は事件と彼を結び付けることさえ出来ていないようだった。
証拠が一切ないらしい。喉元に穴の空いた死体以外は何も残っていなかったようだ。
私も容疑者の1人となった。しかしDVを知らない警察には私が彼を殺害する動機が薄いと思われ、あからさまな疑いをかける根拠に欠けていた。
だから、彼に対する切り札が見つからないようにすることも容易だった。夫の血に染まった安物の革手袋だ。それは夫がかつて私に包丁を向けたさいに誤って自分の手を斬りつけてしまい私がこういうときのために用意した物だ。
そしてしばらく日を置いて私は彼の部屋にそれを隠した。彼は危険だ。私を殺し兼ねない。
もし彼が警察に捕まり自白しても私が殺人を教唆した事実は存在しない。シラを切り通すことが出来る。そう考えた。
そうして私は別の男の腕に抱かれた
──彼女が、僕ではない男に度々会っていたことを、僕は当然知っている。彼女はカバンに仕掛けた盗聴機の存在に気づいていなかったのだから。
僕に彼女を恨む気持ちは全くなかった。
むしろ僕のことなど忘れてその男と幸せになれたらいいなと思った。
そうして僕はおそらく生まれて初めて、誰かの役に立てたのだから。